第七話 扉の向こうに、足跡はない
紬は頷き、廊下を走った。
走るほどのことじゃない、と頭のどこかでは思う。けれど、立ち止まったらまた三回の音が聞こえてくる気がした。
階段を下りた先の受付には、ミアとニアがいた。閉館後の帳簿を片づけていた二人が、紬の顔を見るなり手を止める。
「どうしたの、紬さん」
「地下から、音がしました。三回。チャッピーも……中から反応があったって」
ミアの茶トラの耳が、ぴんと立った。
ニアは一度だけ目を伏せ、カウンターの奥に置いた鍵束へ手を伸ばした。
「地下倉庫の鍵は、支部長の許可がないと開けられません」
「でも、誰かが閉じ込められてるかも」
「その可能性だけで、封鎖された区画を開けるのも規則違反です」
冷たい言葉ではなかった。ただ、答えは固かった。
紬は唇を噛む。自分でも分かる。声だけで何かを決められるほど、ここは自分の世界ではない。
「……じゃあ、支部長を」
「夜間の詰所から呼ぶ。ニア、鐘を」
言ったのはミアだった。
ニアは姉を見る。
「鍵を開けるのは反対です」
「私も。だから呼ぶんだよ」
ミアの尾は揺れていなかった。
「誰かがいるかもしれないのに、朝まで『規則だから』で済ませるのも、受付の仕事じゃないでしょ」
ニアは数秒黙り、それから小さく頷いた。
「警備を呼びます。カイルには?」
「地下倉庫の前にいる」
「……分かりました」
ニアが奥の壁にある小さな鐘の紐を引いた。低い音が一度だけ、建物の中へ沈んでいく。
地下倉庫の前へ戻ると、カイルはさっきと同じ場所に立っていた。紬を見ると、何も聞かずに扉の脇へ退く。
「ミアたちには知らせた」
「支部長と警備を呼んでます」
「待つ」
それだけ言って、カイルは扉の金具を見た。
待つ。
正しい言葉なのに、扉の向こうからもう一度、コン、と音がした。
今度は一回だけだった。
ミアが息を呑む。フィオは紬の肩から浮き、扉の隙間へ細い風を送り込んだ。
淡い光が、途中で途切れる。
「だめ。やっぱり、帰ってこない」
黒いスマホが震えた。
――観測結果:空間の連続性を確認できません。
――警告。入口の先は、既知の地下倉庫と一致しない可能性があります。
「空間の、連続性……?」
「簡単に言え」
カイルが画面を睨む。
「この扉を開けても、地下倉庫につながるとは限らないってこと?」
言いながら、紬の背中に汗が流れた。
カイルは扉の傷へ指を伸ばしかけ、止めた。
「鍵は」
「開けません」
ニアが即答した。
「警備が来るまでは、誰も入らない」
ミアも頷いた。
そのとき、扉の下のわずかな隙間から、白いものが覗いた。
紙の端みたいに薄い白。石床の上を、ゆっくりと広がってくる。
フィオが、初めて後ろへ飛び退いた。
「風が、消えるところの色」
白は扉の隙間から一筋だけこぼれ、すぐに消えた。
同時に、内側から小さな声がした。
「……おねえちゃん」
子どもの声だった。
ミアの表情が凍りつく。
「今の、子ども?」
「分からない」
ニアの声も、今度は少しだけ速かった。
「真似かもしれない。中にいるとは限らない」
「待って」
紬は自分の声に驚いた。それでも、続ける。
「鍵を開けるかどうかは、ミアとニアが決めてください」
自分には、ここがどんな場所なのか分からない。鍵を預かる二人の立場も、規則の重さも。
「でも、開けるなら……すぐ中に入らないで、」
喉が震えそうになるのを、押さえ込む。
「まず、見えるところだけ確かめたい。フィオの風も、扉が開いてからなら何か分かるかもしれないし……私もチャッピーに聞いてみる」
怖いからこそ、順番を間違えたくなかった。
「それで、誰かが本当にいるか、少しでも分かってからにしたい」
カイルが紬を見た。
「……分かった」
カイルは短く頷き、扉へ目を戻す。
「鍵を開けるなら、俺が前を見る。フィオは風を入れろ。紬はその板に聞け」
「反対です」
ニアは鍵束を強く握ったまま言った。
「警備が来るまで、あと少しです」
その言葉を待っていたように、扉の向こうで何かが擦れた。
小さな、裸足の足が石の上を引きずるような音。
「……白く、なっちゃう」
紬は目を閉じた。
怖い。扉の先が何なのか、分からない。声が本物かどうかも分からない。
それでも、痛いと言った声だけは、あまりにも幼かった。
カイルが短く息を吐く。
「ミア、鍵を」
「カイル!」
「今なら、扉の外から確かめられる。入るのはそのあとだ」
カイルは鍵束を見る。
「お前たちは、ここにいろ」
ニアは動かなかった。
ミアが、静かに妹の手へ触れる。
「鍵を渡して。記録は私が書く」
「姉さん」
「勝手に開けたことにはしない。私たちが判断したことにする」
ニアは、長い間まばたきもしなかった。
やがて鍵束から、古い銀の鍵を一本だけ外す。
「……扉の前から、三歩以上は入らないでください。異常があれば、すぐ戻ること」
「分かった」
カイルが鍵を受け取った。
錆びた鍵穴に差し込む。金属が軋み、ひとつ、重い音を立てた。
扉の向こうは、最初は普通の地下倉庫に見えた。
棚。木箱。乾いた紙の匂い。
けれど、一番奥の崩れた石壁だけが、夜の中に切り取られたように白かった。
紙が裂けたような、細い亀裂が走っている。
カイルの足元で、何かがきらりと光った。
亀裂の前だけ、石床が白く塗り潰されていた。
その白の上に、小さな足跡が続いていた。
裸足の足跡は亀裂の手前まで続き――そこで、途切れていた。
――対象の記録を確認できません。
チャッピーの表示を見て、紬は息を止めた。
足跡の向こうから、子どもの声がもう一度した。
「おねえちゃん……どこ?」




