第六話 地下へ続く、ないはずの扉
――警告。対象は、現在地と重なっています。
黒いスマホに浮かんだ文字を、紬はもう一度読んだ。
読んでも意味は変わらない。
今いる建物の下に、記録にない何かがある。
「……地下倉庫の下って、どういうことですか」
問いかけると、ニアは帳面を閉じた。
「どういうことも何も。地下倉庫は、この支部の最下層です」
淡々とした声だった。けれど、黒い耳は先ほどより低く伏せられている。
「見取り図を確認します」
ニアはカウンターの下から、革張りの厚い冊子を取り出した。鍵を外し、何枚もの紙をめくっていく。紬には文字が読めない。ただ、線で描かれた部屋と階段の形だけは分かった。
「地上階、二階、地下倉庫。以上です」
「崩れて埋まった部屋とかは?」
「ありません」
答えたのはミアだった。
いつもの明るさは、今だけ少し薄い。
「昔は避難通路もあったみたいだけど、崩落事故のあとに埋め戻されたの。今は倉庫より下へ降りる階段なんてないよ」
「いつの事故?」
「十年くらい前」
カイルが、細い扉の前へ歩いた。
紬もつられて見る。黒ずんだ木の扉には、銀色の金具が打ち込まれている。その周りだけ、何かに引っ掻かれたように深い傷が残っていた。
カイルの足が止まる。
金色の目が、その傷だけを見つめた。
「カイル?」
「……触るな」
低い声だった。
「これ、知ってるの?」
「知らない」
返事は早すぎた。
カイルは扉から目を離し、紬の方を見た。
「ただの倉庫じゃないかもしれない。今は開けるな」
「でも、この下に誰かいるかも」
口にした瞬間、ミアの尾が大きく揺れた。
「いないよ。……いないはず」
「ミア」
ニアが、姉を止めるように名前を呼ぶ。
フィオは扉の前をふわふわと上下していた。近づこうとしては、見えない壁にぶつかったみたいに後ろへ下がる。
「風が、途中でなくなる」
「なくなる?」
「うん。下に行くはずなのに、どこにも着かない」
紬の背中を、冷たいものがゆっくりと撫でた。
――危険性を否定できません。
チャッピーの表示が、静かに続く。
――単独での確認は推奨しません。
「分かってるよ」
紬は小さく答えた。
分かっている。今の自分には、扉を開ける力も、危険を判断する知識もない。気になるからといって飛び込めば、カイルに助けられた森と何も変わらない。
ミアは一度だけ大きく息を吐いた。
「今日は鍵を二重にします。支部長にも朝一番で報告する」
「それまで、紬さんは簡易宿泊室へ。保護の条件として、今夜の外出は認めません」
ニアの言葉は規則そのものだった。
「……はい」
少しだけ、ほっとした自分がいた。
出ていっていいと言われても、今の紬には行く場所がない。
***
簡易宿泊室は、廊下の突き当たりにあった。
小さなベッドと椅子、洗面用の水差し。窓は高い位置に一つだけあり、外の空はもう濃い群青色になっている。
ミアが持ってきた湯気の立つスープと固いパンを、紬は残さず食べた。味なんてほとんど分からなかったのに、空っぽだった胃だけは、ちゃんと温まった。
「寝具は借り物だから、汚さないでね」
「それ、寝る前に言う?」
「大事だもん」
「明日、支部長が来るまでには私もいます」
ニアは扉の前でそう言った。
「記録のことも、地下のことも。勝手に調べないでください」
「カイルは一階の詰所で、討伐報告をまとめています」
「必要なら、受付を呼んで」
「分かりました」
ミアとニアが出ていき、扉が閉まる。
静かになった部屋で、紬は制服の袖を見下ろした。
泥が乾いて、薄い茶色になっている。腕の包帯も、借りたものだ。ベッドも、食事も。明日から先に使えるお金は一枚もない。
怖い。
急に胸の奥が狭くなった。
小春に連絡したい。とあちゃんの投稿にコメントする約束も、夕飯も、全部が何時間前のことだったのかさえ分からない。
目を閉じたら、ここが夢だったことにならないだろうか。
そんなわけない、と自分で分かっている。
紬は膝の上で手を組んだ。指先が震えないように、ぎゅっと力を入れる。
「……大丈夫」
声にすると、少しだけ嘘っぽい。
「大丈夫じゃなくても、明日考える」
――明日までに解決可能な課題を整理しますか。
「今はいい」
チャッピーの画面を伏せる。
窓辺には、いつの間にかフィオがいた。外を向き、背中だけをこちらへ見せている。
「フィオは、帰らないの?」
「ぼくは、いつでも帰れる」
「そっか」
「紬は?」
「帰りたいよ」
「なら、帰ればいい」
「帰れるなら、もう帰ってる」
思ったより強い声が出た。
フィオの羽のような光が、ほんの少し揺れる。
「……変な人間」
「知ってる」
「怖いのに、明日まで待つんだ」
「怖いから、だよ。怖いものに一人で突っ込むほど、無鉄砲じゃない」
フィオは何も言わなかった。
ただ、窓の外へ飛んでいくこともなかった。
そのときだった。
コン。
部屋の下から、かすかな音がした。
紬は息を止める。
コン、コン。
三回。
床の下ではない。もっと奥。地下倉庫の扉がある方角から、誰かが内側を叩いたような音だった。
「フィオ」
「聞こえた」
黒いスマホの画面が、勝手に白く光る。
――内部からの応答を確認。
――応答者:照会不能。
紬はベッドから立ち上がった。
ミアとニアに知らせる。それから、カイルにも。
そう決めたはずなのに、足は急いでいた。
音が消える前に。もし本当に誰かがいるなら、待たせたくない。
扉をそっと開ける。廊下に出て、地下へ続く階段へ向かった。
階段の手前、薄暗い壁際に人影があった。
灰色の尾が、一度だけ揺れる。
「どこに行くつもりだ」
心臓が跳ねた。
カイルは地下倉庫へ続く通路の前に立ち、さっき見た扉の方を見ていた。剣は鞘に収まったままなのに、片手はいつでも抜ける位置にある。
「……カイルも今、聞こえたでしょ」
カイルの耳が、わずかに動いた。
「聞こえた」
「じゃあ――」
「ミアとニアを呼べ」
紬の言葉を切るように、カイルは言った。
「勝手に動くな」
叱られたのに、不思議と少しだけ息ができた。
カイルは扉から目を離さない。
「呼んだら、ここへ戻れ」
その声は、許可ではなかった。
けれど紬は頷いた。




