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第五話 記録にない宿泊者

 冒険者ギルドは、グラナート西門から入って三つ目の角にあった。


 石造りの二階建てで、入口の上には剣と羽根の意匠が掲げられている。紬には文字が読めない。けれど、扉が開くたびに革鎧を着た人や杖を背負った人が出入りするから、迷うことはなかった。


「ここ?」


「そうだ」


 カイルは短く答え、木の扉を押した。


 中は、思っていたよりずっと騒がしかった。


 依頼書らしい紙が隙間なく貼られた掲示板。濡れた外套を脱ぐ人。薬草の束を抱えた人。食事の匂いと、硬貨の触れ合う音。人間だけではない。犬のような耳を揺らす少年も、角のある大柄な男も、同じ長机を囲んでいた。


 それなのに、紬が入った瞬間だけ、いくつかの視線が止まる。


 制服のまま。泥のついたスニーカー。片手には、黒いスマホ。


 自分でも、浮いているのが分かった。


「見ないで、とは言わないけど……見られるの、ちょっと恥ずかしい」


「お前の格好なら目立つ」


「正論がいちばん刺さる」


 フィオが肩の上で、くすくす笑った。


「でも、森よりはまし。ここはいっぱい匂いがする」


「それ、安心材料?」


「食べものの匂い。人が生きてる匂い」


 その言い方に、紬は少しだけ肩の力を抜いた。


 カイルは受付の前で止まった。


 長いカウンターの向こうに、よく似た二人の猫獣人が並んでいる。


 一人は、陽だまりのような茶色の髪に、同じ色の耳。もう一人は、夜の毛並みを思わせる黒髪と黒い耳。色違いの紺色の制服には、銀の糸で同じ羽根の模様が刺繍されていた。


「カイルさん――じゃなかった、カイル。おかえりなさい」


 先に笑ったのは茶トラの耳をした方だった。長い尾が、机の下で一度だけ楽しそうに揺れる。


「黒牙犬の討伐報告ですか?」


「二体。森の南寄りだ」


 黒猫の耳をした方が、すぐに帳面を開いた。


「討伐部位は」


「持ってきてない。保護を優先した」


 その言葉で、二人の目が同時に紬へ向く。


 茶トラの少女が、少しだけ首を傾げた。


「保護?」


「森で見つけた。身元も金もない」


「えっ」


 思わず紬の声が漏れた。金がないことを、第三者の口からこんなに簡単に言われると、急に現実味が増す。


 黒猫の少女はペンを置いた。


「お名前を」


「朝凪紬です」


「出身地」


「……日本、です」


「所属する国、または領主名を」


「分かりません」


 黒猫の少女の手が止まった。


 茶トラの少女も、笑顔を消してはいない。ただ、目だけが少し真剣になる。


「家族は?」


 小春の顔が浮かんだ。夕飯の支度をしているかもしれない母の声も。


 もう会えないなんて、まだ決まったわけではない。


 なのに、答えようとした喉がひどく狭くなる。


「います。でも、ここには……いません」


 カイルが横から言った。


「話は明日聞け。こいつは、今日森で襲われたばかりだ」


「それは分かります。でも、保護記録は残します」


 黒猫の少女の声はやわらかいのに、引かなかった。


「朝凪紬さん。今夜、泊まる場所はありますか」


「……ありません」


 言った途端、ギルドの喧騒が遠くなった気がした。


 帰る家も、財布も、知っている場所もない。


 ここで初めて、紬は自分が本当にこの世界の外から落ちてきたのだと思った。


 ――利用可能な情報から、今夜の帰還方法を導くことはできません。


 浮かぶ画面を見て、紬は苦笑いした。


「うん。知ってた」


「その板、今しゃべりました?」


 茶トラの少女が、少しだけ身を乗り出す。


「えっと、チャッピー。私の……相棒みたいなものです」


「魔導具?」


「違う、と思います」


「答えがずいぶん不安そうですね」


 黒猫の少女は帳面の端に、短い線を一本引いた。


「身元不明。所持金なし。未登録。保護の証言者はカイル・ヴァルク」


「規則なら、どうなるんですか」


 紬が聞くと、二人は一度だけ目を合わせた。


「本来なら、衛兵詰所で確認です」


 黒猫の少女が答える。


「ただ、保護された人には一晩だけ、ギルドの簡易宿泊室を使える規定があります。食事と寝具の分は、登録後の最初の報酬から差し引きです」


「登録、できるんですか?」


「まだ決められません」


 即答だった。


 紬は頷いた。少し痛かったけれど、それでいいと思った。知らない少女が突然来て、家も国も分からないと言っている。自分が受付なら、もっと困る。


「明日、支部長が話を聞きます。その結果で、仮登録を認めるか決めます」


 茶トラの少女が、そこでようやく少し笑った。


「でも今夜は、座って温かいものを食べてください。森で走り回った顔です」


「ミア。規定上、食事は選択制」


「ニア。いま言うこと?」


「言わないと、あとで姉さんが帳簿に困ります」


「困らないもん」


 茶トラの少女――ミアが、むっと口を尖らせる。黒猫の少女、ニアは表情を変えない。ただ、黒い耳だけがほんの少し横へ倒れた。


 紬は、思わず笑ってしまった。


 笑えたことに、自分で驚く。


「じゃあ、食事もお願いします。あとで絶対に返します」


「承りました。ミア・フェルネです」


「ニア・フェルネ。姉より三分遅く生まれました」


「そこまで言わなくてもいいよね?」


「双子で対等なので」


 ミアは不満そうにしながらも、すぐに新しい紙を取り出した。


「朝凪紬さん。ここに名前だけ書けますか?」


 差し出された紙の文字は、やはり読めなかった。


 紬が固まると、ニアが気づいたように紙を引き寄せる。


「文字も読めない?」


「話す言葉は分かるんです。でも、書いてあるのは……」


「不便ですね」


「本当に」


 ニアは少し考え、帳面に紬の名前を代筆した。


 そのとき、フィオが急に、紬の肩から離れた。


 カウンターの奥。立ち入りを禁じる札がかかった細い扉の前で、ふわりと浮かぶ。


「フィオ?」


「……変」


 小さな精霊は、扉の下の隙間をじっと見つめていた。


「風が、帰ってこない」


「地下倉庫です」


 ミアが答えた。


「古い書類と、使っていない魔導具を置いてます。今は閉めてるけど」


「違う。下から、風が来ない」


 フィオの声は、いつもの生意気さがなかった。


 紬も扉へ近づく。石の床越しに、かすかな震えが足裏へ伝わった気がした。


「チャッピー。今の、分かる?」


 ――入力を確認しました。


 黒いスマホの画面が、一度だけ白く明滅する。


 ――観測範囲内に、記録外の構造を再検出。


 ――推定位置:グラナート冒険者ギルド地下。


 ――警告。対象は、現在地と重なっています。


 紬の指先が、冷たくなった。


 今夜、自分が泊まることになった建物の下に。


 この世界の記録にない何かが、ある。

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