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第四話 灯りのある街へ

 夕暮れの道を、三人で歩いた。


 正確には、歩いているのは紬とカイルだけ。フィオは紬の少し前を、気まぐれな蝶みたいにふわふわ飛んでいる。


 森を出てから、カイルは一度も急げとは言わなかった。


 それでも彼の背中は、早く歩けと言っているように見える。紬は遅れないように足を動かした。けれど制服のスカートには草の実がつき、腕の傷は布を巻いていても時々じんと痛んだ。


「無理なら言え」


 不意に、前から声がした。


「だ、大丈夫」


「聞いてない」


 言い方はやっぱり冷たい。


 けれどカイルの歩幅は、その直後にほんの少しだけ狭くなった。


 紬はそれに気づかないふりをした。気づいてしまうと、助けてもらっていることが急に重くなりそうだったからだ。


 道の両側には背の低い草原が続いている。空は紫に近い青へ変わり、さっきまで眩しかった夕日が、遠い丘の向こうに沈みかけていた。


 そして、聞こえる。


 馬の蹄。車輪の軋み。誰かが笑う声。


「……あの」


 紬は、前を行くカイルに尋ねた。


「私、カイルと普通に話せてますよね」


「今さら何を言ってる」


「いや、そうじゃなくて。私、こっちの言葉を習ったことがないんです」


 カイルが足を止めた。


 金色の目が、振り返った紬を静かに見た。


「……意味が分からない」


「私もです」


 紬はスマホを握り直した。


「チャッピー、どういうこと?」


 ――仮説を提示します。紬さんの言語理解に、何らかの補助が加えられている可能性があります。


「誰が?」


 ――不明です。この世界の環境、転移の過程、あるいは外部観測者という表示との関連が考えられます。


 その言葉に、背中が少し冷えた。


 外部観測者。


 自分は、ここにいるのに。ここではない何かとして、扱われている。


「また分からないこと増えたね」


 フィオが、紬の肩の高さまで降りてきた。


「でも、話せるならいいじゃん。話せない人間なんて、もっと面倒」


「フィオは言葉が通じなかったら、どうしてたの?」


「風で言う」


「風で?」


「分かる相手には分かる」


「分からない相手には?」


「置いてく」


 フィオは何でもないことのように答えた。


 カイルが、小さく息を吐く。


「精霊は自分で決める。人間の都合で考えるな」


「別に、都合で考えたわけじゃ……」


「紬はぼくを置いてかないよ」


 フィオが割り込んだ。


「そうでしょ?」


 問いかけというより、確かめる声だった。


 紬は少し迷ってから頷く。


「フィオが自分で帰りたいって言わないなら。一緒にいてくれたら、私は助かる」


 フィオの光が、ふっと明るくなった。


「……今は、ついてく。街がどうなってるか、見たいだけ」


「見たいだけ、なんだ」


「気が変わるかもしれないから」


 そう言うと、フィオは少しだけ前へ出た。紬の隣ではなく、風の流れる方を見ながら飛んでいる。


 しばらく歩くと、風向きが変わった。


 草の匂いに混じって、焼いたパンの香りがした。木を燃やす煙。干した布。どこかで煮込まれている、知らない香辛料の匂い。


 その全部が、紬の胸をぎゅっと掴んだ。


 生きている。


 スマホで見た漫画の中の人たちは、ページを閉じれば消える絵だった。それなのにこの世界には、夕飯を作る匂いがある。


「見えてきた」


 カイルの声に、紬は顔を上げた。


 丘を越えた先に、街があった。


 なだらかな高台を囲む、灰白色の石壁。壁の上には見張り塔がいくつも並び、夕暮れの光を受けて長い影を落としている。大きな門の手前には荷車が列をつくり、旅装の人々と、耳や尻尾を持つ獣人たちが行き交っていた。


 石壁の内側には赤い屋根が幾重にも重なり、そのあいだに細い尖塔が見える。


 やがて、ひとつ、またひとつと灯りが点いた。


 橙色の小さな光が、街の輪郭をゆっくり浮かび上がらせる。


「……すごい」


 声が、勝手に漏れた。


「グラナートだ」


 カイルはそれだけ言った。


「城塞都市。商人も冒険者も集まる。お前が今夜を越すなら、ここが一番ましだ」


「今夜……」


 紬の足が止まりかける。


 そうだ。帰る場所がないなら、寝る場所もない。スマホの充電がどうなるかも、お金が使えるのかも分からない。


「私、お金……持ってない」


 制服のポケットには、現実世界の小銭が少し入っているだけだった。ここで使えるとは思えない。


「身分を証明できるものも、たぶんないです」


「分かってる」


 カイルは門へ目を向けたまま答えた。


「ギルドに行く」


「……私も、入れてもらえるんですか?」


「身元も金もないなら、先にそこで事情を話せ。宿を探すのはその後だ」


「俺は、森で拾ったと伝える」


 それ以上は言わない。


 それでも紬は、急に泣きそうになった。


 自分が何者かも分からないのに。カイルは、門の外に置いていくという一番簡単な選択をしなかった。


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い」


 ぶっきらぼうな声に、フィオがくすりと笑う。


「怖い狼だけど、悪い狼じゃないね」


「黙れ」


「聞こえてるなら、もっと優しくすればいいのに」


 前にも聞いたような台詞に、紬は思わず笑ってしまった。


 笑えたことに、自分で少し驚く。


 門が近づくにつれ、街の声ははっきりしていった。


 荷車を引く男の声。子どもを呼ぶ女の声。鎧の擦れる音。門番らしい人が、入る者へ何かを確認している。


 けれど、その掲げられた木札を見た瞬間、紬の笑顔が消えた。


 文字が読めない。


 曲線と角ばった線が並んでいる。日本語でも英語でもない。さっきまで気にしていなかっただけで、この世界の文字は、紬にとってただの模様だった。


「チャッピー。あれ、読める?」


 ――簡易翻訳を試みます。


 画面が淡く光った。


 ――《グラナート西門》


「読めるんだ」


 ――音声情報と周辺状況からの推定です。誤りを含む可能性があります。


 助かる、と言おうとして、紬は飲み込んだ。


 この世界には、分からないことが多すぎる。


 けれど今は、目の前に灯りのある街がある。


 カイルが門番に近づき、短く名を告げた。


 門番の視線が、紬の制服と、その肩の横で揺れるフィオへ移る。


「その子は?」


 紬の喉が、きゅっと鳴った。


 カイルは迷わなかった。


「森で保護した。ギルドへ連れていく」


 重い門が、ゆっくりと開いた。


 石畳の向こうから、暖かな光と、人の暮らす音が溢れ出してくる。


 紬は一度だけ、暗くなっていく森を振り返った。


 もう、自分の部屋には戻れないのかもしれない。


 その思いを胸の奥へ押し込めて、紬はグラナートの中へ足を踏み入れた。


 石畳を踏んだ瞬間、手の中のスマホが小さく震えた。


 ――《観測範囲を更新しました》


 ――《警告:対象区域に、記録外の構造を検出》

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