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第三話 街まで、送る。それだけだ

 男の頭の上には、獣の耳があった。


 黒に近い灰色の耳が、ぴんと立っている。


 紬がそれを理解するより早く、男は左手の盾を前へ出した。黒牙犬の牙が、鈍い音を立てて盾の縁に噛みつく。


「下がれと言った」


 低い声と同時に、剣が走った。


 速すぎて、紬には何が起きたのか分からなかった。


 黒牙犬が地面に落ちる。さっきまで赤く光っていた目が、ゆっくりと閉じた。


「……っ」


 紬は口元を押さえた。怖い。けれど、血の気が引くのと同じくらい、目の前の男から視線を外せなかった。


 左からもう一匹が飛びかかる。


 男は振り向かない。盾を少しだけ傾け、獣の牙を受け流した。大きな体が横へ流れた、その一瞬。剣の柄が黒牙犬の顎を打ち、怯んだところへ刃が走る。


 今度も、ほんの二歩だった。


 紬は息を呑んだ。


 強いから、ただ斬っているわけじゃない。自分とフィオを背に置き、黒牙犬が同時に飛び込めない木と道の間へ、いつの間にか立ち位置を変えている。


「フィオ、右」


「分かってる」


 フィオが指を振る。風が黒牙犬たちの間を細く走り、残った二匹の目に土を散らした。獣たちは唸りながら後退し、仲間の倒れた方を一度だけ見てから、森の奥へ消えていった。


 静かになった森で、紬はようやく自分の呼吸が荒いことに気づいた。


 男は剣についた黒い血を一度振り払い、周囲を見渡す。外套の隙間から覗く髪と同じ色の尾が、地面すれすれで一度だけ揺れた。


「残りは?」


「二匹。まだ、森の中」


 フィオが答えた。


 男の金色の目が、空中の小さな精霊へ向く。


「風の精霊か」


「そうだけど。なに」


「別に」


 短い返事だった。


 その間にも、森の奥で枝が鳴った。男は紬の前へ半歩出て、盾を持つ腕をわずかに上げる。


「走れるか」


「え?」


「ここにいれば、また来る」


 紬は慌てて頷いた。


「走れます。たぶん」


「たぶんは困る」


 言い方は冷たいのに、男は紬の返事を待たず、森の外へ続く獣道を顎で示した。


「ついてこい。道まで出る」


 紬はフィオを見た。フィオは小さな腕を組み、男の背中をじっと睨んでいる。


「あの狼、怖い」


「聞こえてる」


 男は振り返らなかった。


 フィオの光が一瞬だけ跳ねる。


「聞こえてるなら、もっと優しくすればいいのに」


「余計なことを言うな」


「フィオ」


 紬が小声で呼ぶと、フィオは不満そうに紬の肩の上まで降りてきた。


「ぼくは、気が向いたからついていくだけ」


「うん。分かってる」


 男の背中を追って歩き出す。


 少し進むと、木々の間に土の道が見えた。獣道より広く、馬車の車輪らしい跡が、乾いた地面に何本も残っている。


 男はそこでようやく足を止めた。


 道の先には、森を離れていく馬車の跡が続いていた。遠くで鳥ではない何かが鳴き、風が運んできた匂いには、草や土のほかに煙のようなものが混じっている。


 人がいる。


 それだけで少し安心しかけて、紬は自分を止めた。人間と獣人と精霊がいる世界。漫画の背景の中でしか見たことのない場所。ここで出会う人が、みんな優しいとは限らない。


 けれど、カイルは黒牙犬から紬を守った。フィオも、気が向いたからだと言いながら、まだ肩の近くを飛んでいる。


 今は、その二人を信じるしかなかった。


「怪我は」


「えっと……腕に、少し」


 制服の袖を見ると、枝で擦ったらしい細い傷から血が滲んでいた。痛みは今になって気づいた。


 男は腰の革袋から、小さな布包みを取り出して紬へ差し出した。


「巻け」


「これ、もらっていいんですか?」


「使え。傷口が汚れる」


 無愛想なのに、手はすぐ引っ込めなかった。


「ありがとうございます」


 紬は受け取り、見よう見まねで傷に布を巻いた。うまく結べず、端が何度もほどける。


 男は小さく息を吐いた。


「貸せ」


「え」


「そのままでは落ちる」


 紬が腕を差し出すと、男の手が布を結び直した。指先は大きく、硬そうなのに、傷に触れないよう慎重だった。


「……これでいい」


「ありがとうございます」


 今度は、ちゃんと目を見て言えた。


 男の金色の目が、一瞬だけ紬を見返す。けれどすぐに、彼は森の方へ視線を戻した。


「お前たちは、なぜあの森にいた」


 胸が詰まった。


 スマホ。白い画面。自分の部屋。夕飯。とあちゃんの投稿。言葉にしようとすると、どれもここにはないものだと思い知らされる。


「……分かりません」


「分からない?」


「気づいたら、あの森にいて。帰る場所も、どこに行けばいいかも、分からなくて」


 男は疑うように眉を寄せた。けれど、嘘だと言うことはしなかった。


「その黒い板は」


 紬の手元のスマホと、空中に浮かぶ会話画面へ視線が落ちる。


「……えっと、チャッピー」


 ――こんにちは。


 男の目が細くなった。


「魔導具か」


「違う、と思います。ChatGPDっていう、対話する……えっと、AIで」


「聞いたことがない」


「私も、今はどう説明すればいいか……」


 言葉が続かなかった。


「武器は」


「ありません」


「魔法は」


「たぶん、できません」


 カイルの視線が、紬の制服と空っぽの手を順に見た。


「黒牙犬の森に、武器も魔法もなく入ったのか」


「入ったんじゃなくて、来ちゃったんです」


 少しだけ強い声になった。自分でも、そんなふうに言い返す余裕があったことに驚く。


 カイルは何も言わなかった。けれど、紬の前を歩く位置を、さっきよりほんの少しだけ近くした。


 男は紬を少し見たあと、肩にかけていた外套の襟を直した。


「街まで送る」


「え?」


「この先の街には、冒険者ギルドがある。魔物に襲われたなら、まず事情を話せ。身元が分からなくても、話を聞くやつはいる」


「冒険者ギルド……」


「俺が事情を話す。お前は、聞かれたことに答えろ」


「でも、私、知らない人なのに」


「だから街までだ。それ以上は面倒を見ない」


 フィオが紬の耳元で囁いた。


「やっぱり怖い狼」


 けれど紬には、その言葉の奥にあるものが分かった気がした。


 この人は、森に置いていけるはずの自分を、置いていかない。


「それでも、助かります。本当に」


 男は返事をしなかった。


 代わりに、剣を鞘へ収める音がした。


「カイル・ヴァルク」


「え?」


「俺の名前だ。ギルドで聞かれたら、俺が連れてきたと言え」


「カイルさん」


「さんはいらない」


 フィオが、くすりと笑った。


「フィオと同じこと言ってる」


 カイルは面倒そうに眉をひそめたが、否定はしなかった。


「じゃあ、カイル」


「……好きにしろ」


 紬が一歩を踏み出したとき、チャッピーの画面がかすかに乱れた。


 ――照会結果:カイル・ヴァルク


 ――記録の一部に欠損があります。


「チャッピー?」


 ――詳細を取得できません。


 前を歩き出したカイルの灰色の尾が、夕暮れの道を横切った。


 その背中が、ほんの少しだけ遠く見えた。

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