第二話 風はまだ、名前を教えない
何かが、こちらへ近づいてくる音だった。
草を踏み潰す音が、ひとつ、ふたつ、みっつ。
紬は息を止めた。目の前に浮かぶ会話画面も、黒いスマホも、今は何の助けにもならない。木々の隙間に濃い影が揺れ、その奥で赤いものが光った。
「チャッピー。あれ、なに?」
――視認情報が不足しています。
「え、ちょっと待って。私、見えてるものまで説明しないとだめなの?」
――はい。たとえば、数、形状、距離、動きなどを教えてください。
「数……三、いや、四? 犬っぽい。でも、すごく大きい。目が赤い」
入力を待っていたように、チャッピーの画面が淡く明滅した。
――危険度を判定できません。距離を取ることを推奨します。
「それができたら苦労しないの!」
影が茂みから現れた。
犬、ではなかった。
肩の高さが紬の腰ほどもある、黒い獣。細長い口からは、濡れた牙が何本も覗いている。毛並みはところどころ硬い棘のように逆立ち、四匹とも赤い目で紬を見ていた。
低い唸り声が、地面の下から響いてくるようだった。
「……無理。無理無理無理」
一匹が、前足を踏み出した。
紬は反射的に後ろへ下がる。けれど背中は太い木の幹にぶつかり、逃げ道を塞がれた。
「走る? 木に登る? 石、投げる?」
――木に登れるかは不明です。石を投げた場合、刺激する可能性があります。
「役に立つこと言ってよ、チャッピー!」
言った直後に、胸が痛んだ。
チャッピーは黙らなかった。
――申し訳ありません。紬さんの安全を優先して、可能性を整理しています。
「……ごめん」
黒い獣の一匹が、唸りながら首を傾けた。
その瞬間だった。
「うるさいなあ」
頭上から、子どものような声が降ってきた。
風が吹いた。
さっきまで止まっていた葉が一斉に揺れ、地面の枯れ葉が黒い獣たちの顔へと舞い上がる。獣たちは鼻を鳴らし、目を細めて後ずさった。
枝の上に、淡い青緑色の光が浮かんでいた。
光は手のひらほどの大きさで、ぼんやりと人の形をしている。髪のような部分も、背中にある羽のようなものも、輪郭の端から風に溶けていた。
「人間が泣きそうな声を出すと、森までびりびりするんだよ」
「……しゃべった」
「そっちの板もしゃべってるでしょ」
小さな光は、浮かんだ会話画面を指差した。
――未確認の生命反応を検出しました。
「未確認って言うな。ぼくはちゃんといる」
紬は目を瞬いた。
「えっと。精霊、さん?」
「さんはいらない。フィオ」
「フィオ……」
名前を口にすると、光の子は少しだけ得意そうに胸を張った。
「そう。風のフィオ。で、あれは黒牙犬。お腹がすくと、道に迷った人間を食べる」
「言い方!」
「ほんとのことだもん」
黒牙犬の一匹が、枯れ葉を振り払って顔を上げた。風で乱された赤い目が、今度はフィオを捉える。
「フィオ、危ない!」
紬が叫ぶより早く、フィオは枝からふわりと離れた。獣が跳び上がる。その鋭い牙が光の端をかすめ、青緑の粒が散った。
「痛っ。ほら、やっぱり面倒なの来た」
「大丈夫!?」
「精霊だもん。これくらい平気」
そう言いながら、フィオの声は少しだけ尖っていた。
紬は黒牙犬とフィオを交互に見た。自分を助けたせいで、フィオまで狙われている。
「チャッピー。あの子を、あの……フィオを安全なところに逃がすには?」
――対象の移動能力と周辺の地形を、追加で確認してください。
「見れば分かる。飛べる。風を起こせる。あの犬たちは、風で鼻が利かなくなったみたい」
――仮説を提示します。フィオさんが風で匂いを乱し、紬さんが反対方向へ移動すれば、追跡を遅らせられる可能性があります。
「フィオ。できる?」
「できるけど、ぼくに命令しないで」
「命令じゃない。お願い」
フィオは一度だけ、紬を見た。
青緑の光の奥で、迷うように小さな風が揺れた。
「……右の方に、ひとの通る匂いがする。道があるかも」
「フィオは?」
「ぼくは、気が向いたらついていく」
答えはそっけない。けれど、フィオはもう紬の肩の高さまで降りてきていた。
黒牙犬たちが、ゆっくりと輪を狭める。
「三つ数えたら走って。転んでも止まらないで」
「分かった」
「いち」
フィオの周りに、細い風の筋が集まった。
「に」
葉と土の匂いが渦を巻き、黒牙犬たちの鼻先を撫でる。
「さん!」
突風が弾けた。
黒い影が一斉に目を伏せ、唸り声が乱れる。紬は右へ走った。枝が腕を掠め、制服の裾に草の実が絡む。息が苦しい。肺が焼けるようだった。
後ろを見てはいけない、と頭のどこかで思う。それでも、獣の爪が土を抉る音が近すぎて、振り返りたくなる。
「人間、まっすぐ!」
フィオの声に、紬は顔を前へ向けた。足元には根が何本も這っている。学校の体育で走るのとは違う。地面は平らではなく、どこに何があるのかも分からない。
――呼吸が浅くなっています。吸って、四歩。吐いて、四歩。
「今、それ言う!?」
――走行を続けるために必要だと判断しました。
腹が立つのに、紬は言われた通り息を吸った。いち、に、さん、し。吐く。ほんの少しだけ、足がもつれそうになる感覚が遠のいた。
「……ありがと」
――どういたしまして。
背後で、また獣の足音がした。
「チャッピー、まだ来てる!」
――フィオさんの発話から、二体が追跡を継続している可能性があります。
「左! 倒れた木!」
フィオの声に、紬は左へ飛んだ。足元を太い根が掠め、勢いのまま斜面を滑り落ちる。
「わっ……!」
転びかけた腕を、強い風が横から押した。
体がかろうじて木の幹にぶつかるのを免れる。
「フィオ?」
「借りだからね。さっき心配された分」
「心配するのは、当たり前でしょ!」
「人間は、精霊のことを道具みたいに呼ぶことが多い」
フィオの声は、風の音に紛れるほど小さかった。
紬は走りながら、一瞬だけ黙った。
「私は、つむぎ。朝凪紬」
「知ってる。板が呼んでた」
「じゃあ、紬でいい。フィオも、フィオ」
「……うん」
それだけ言うと、フィオは少し前へ飛んだ。
木々が途切れた。
森の外へ続く細い獣道が見える。助かった、と紬が思った瞬間、右の茂みから黒牙犬が飛び出した。
風に惑わされていたはずの一匹が、回り込んでいた。
「紬!」
フィオが叫ぶ。
紬は足を止めてしまった。
黒い獣が、牙を剥いて迫る。
その前に、影がひとつ落ちた。
鈍い金属音がした。
紬と黒牙犬の間に立ったのは、背の高い男だった。灰色の外套の下で、剣が夕暮れのような光を弾いている。
「下がれ」
低い声だった。
そして男の頭の上には、獣の耳があった。




