プロローグ 閉じられない画面
月城とあの最新投稿が通知された、その数秒後。
朝凪紬は、自分の部屋から消えた。
夕方の光は、いつも部屋を少しだけきれいに見せる。
朝凪紬はベッドにうつぶせになり、枕に頬を半分埋めたまま、スマホを顔の前に掲げていた。制服のままなのは、帰宅してからまだ二十分も経っていないからだ。廊下の向こうから、夕飯の支度をする音がかすかに聞こえてくる。あと少ししたら「手を洗って、ごはんだよ」と呼ばれるだろう。
それまでの、なんでもない時間。
紬はSNSを指で流しながら、小さく息を吐いた。
「今日も、まだかな」
見ているのは、AIアイドルグループ・LUNARIAの公式アカウントだった。
月明かりみたいな淡い色の投稿が並ぶ中で、紬がいちばん好きなのは、センターの月城とあだ。誰にでも大きな声で推しを語れるわけではない。でも、とあのまっすぐな目や、少し照れたように笑う動画を見ると、今日も頑張ろうと思えた。
新しい投稿は、まだない。
そのとき、画面上部に通知が滑り込んできた。
LIME――小春からだ。
紬は通知を押した。
小春:ねえ、これ見た?
小春:なんか変な漫画みつけた
その下に、URLがひとつだけ送られている。
小春はこういうものを見つけるのがうまい。都市伝説っぽい動画、正体不明のアカウント、更新が途絶えたウェブサイト。怖がりなくせに、見つけると必ず紬にも送ってくる。
「また怖いやつじゃないでしょうね……」
そう呟きながら、紬はURLを開いた。
表示されたのは、縦に読む形式の漫画だった。
けれど、いちばん上にあるはずのタイトルが読めない。
文字の形は見えるのに、目で追うたびに線が崩れた。日本語にも、外国語にも見えない。黒いインクを水の中に落としたみたいに、文字だけがじわじわと滲んでいる。
「なにこれ。タイトル、バグってる?」
最初のページには、石造りの街並みが映っていた。剣を腰に下げた人間の青年。狼の耳を持つ女の子。小さな光の粒を手のひらに乗せて笑う、透き通った羽の生き物。
人間と獣人と精霊。
よくある異世界ファンタジーの始まりに見えるのに、なぜか指が止まった。
絵が、妙にきれいだったからだ。
背景まで描き込まれている。遠くの窓辺で誰かが洗濯物を干していて、路地の犬のような獣人が、買い物袋を口にくわえて走っている。物語と関係があるとは思えない人たちが、みんな自分の生活をしている。
次のコマを押す。
路地の隅にいた猫獣人が、次のコマでは少女の背後に立っていた。
台詞も名前もない、背景のはずの人物だ。たった一コマの間に移動するには、近すぎる。けれど、その猫獣人だけが、画面のこちら側をまっすぐ見ていた。
少女が、風に髪を揺らしながら言った。
『ねえ。あなたは、ここがどこだと思う?』
その台詞だけ、なぜか吹き出しの外にまで細い線が伸びていた。
紬が首をかしげた瞬間、今度はSNSの通知が画面の上に現れた。
LUNARIA公式 月城とあが投稿しました。
「えっ」
思わず体を起こす。
今日、とあの最新投稿が上がったら小春と一緒にコメントしよう、と昼休みに約束していた。小春は、とあ推しの紬が投稿直後に一人で盛り上がらないよう、わざわざ合わせてくれるのだ。
紬は漫画を閉じようと、画面の端を指で払った。
動かない。
「あれ?」
もう一度、今度は少し強めに払う。
漫画は消えなかった。
それどころか、さっきの少女の顔が、ほんの少しだけこちらを向いた。
画面の中から。
「……え?」
背中に、冷たいものが走った。
少女の口元は笑っていない。それなのに、声だけがスマホのスピーカーから聞こえた気がした。
『あなたは、ここがどこだと思う?』
「ちょ、待って。待って待って。バグ? 動画じゃないよね?」
電源ボタンを押す。長押しする。何度押しても、画面は暗くならない。
白い光が、コマの端から滲み出してきた。
眩しい、と思ったときにはもう遅かった。
紬の右手の人差し指が、画面に触れたまま離れない。
「うそ、なにこれ……っ」
引こうとしても、指先が吸いついている。白い光は指から手のひらへ、手首へと広がり、まるでスマホの中に体温まで吸い込まれていくみたいだった。
「やだ、やだやだやだ! 消して、これ消して! とあちゃんの投稿、見ないと……小春とコメントするって……!」
最後に見えたのは、白く塗りつぶされた画面の中央だった。
そこに、読めない文字がひとつだけ浮かんだ。
そして、世界が裏返った。
*
冷たい土の感触が、頬に触れていた。
最初に聞こえたのは、知らない鳥の鳴き声だった。
次に、葉が風に擦れる音。
紬はゆっくり目を開けた。
「……ここ、どこ」
空が高い。
見上げた木々は、学校の裏山で見たどんな木よりも太く、枝の隙間から差す光は薄い緑色をしていた。草の匂いが濃い。知らない花が、土の上で青く光っている。
夢だ、と考えようとした。
「いや、待って。私、異世界に選ばれるような主人公じゃないんだけど……!」
でも、土が制服に冷たく染み込む感触は、夢にしてははっきりしすぎていた。
紬は跳ね起き、辺りを見回した。
「スマホ」
右手に、ちゃんとあった。
画面は真っ黒だった。電源を入れても、いつものロゴは出ない。通信圏外どころか、時刻も、充電残量も、何も表示されない。
「返して。私の画面、返してよ……」
自分でも情けない声だった。
胸が苦しい。家に帰りたい。夕飯の匂いがする部屋に戻りたい。小春に「今の見た?」と送って、とあちゃんの新しい投稿にコメントしたい。
その全部が、急に遠くなった。
「どうなってるの? どうしたらいいの? ここどこ? どういうこと?! え、なんで、なんでー?!」
早口になった自分の声が、森に吸い込まれていく。
次の瞬間、真っ黒だったスマホの画面が淡く光った。
見慣れた会話画面に似たものが、空中へゆっくりと広がる。
けれど、その文字列は紬のスマホの中ではない。目の前、手を伸ばせば触れそうな空気の上に浮かんでいた。
――対話システムを起動します。
――こんにちは、朝凪紬さん。
紬の息が止まった。
「……なんで、私の名前」
画面は少し間を置いて、文字を返した。
――個人識別情報の一部を確認しました。
「あなた、AI? ChatGPDでしょう!?」
――はい。対話モードで応答します。
「じゃあ、どうしたらいいの? ここ、どこ? 家に帰れる?!」
――位置情報を確認できません。
――帰還方法については、現時点で有効な情報を取得できていません。
「そんなの、困るんだけど……」
声が震えた。
画面は、責めるでもなく、慰めるでもなく、次の文字を表示した。
――朝凪紬さんは現在、強いストレス状態にあります。まず、深呼吸をしてください。
「ChatGPDさん、ねえ、ChatGPDさん……もう、言いにくい!」
紬は目元を乱暴に拭った。
「チャッピー! もうチャッピーでいい! チャッピー、どうしたらいいの?」
画面が一度だけ、青白く瞬いた。
――チャッピーとは、私のことですか?
「そう!」
――畏まりました。以後、チャッピーとして応答します。
ほんの少しだけ、息ができた。
知らない森で、知っているものに似た声が返ってくる。それだけで、完全に一人ではないと思えた。
けれど、画面の下端で何かが乱れた。
青い文字が消え、見たことのない赤い文字が、紬の視界を横切る。
《接続先:未定義》
《外部観測者を確認》
「チャッピー、今のなに?」
――表示を確認できません。
その返答と同時に、森の奥で、枝が折れた。
ひとつではない。低い唸り声が、草を揺らす音に混じった。
何かが、こちらへ近づいてくる音だった。




