↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/15

プロローグ 閉じられない画面

 月城とあの最新投稿が通知された、その数秒後。


 朝凪紬は、自分の部屋から消えた。


 夕方の光は、いつも部屋を少しだけきれいに見せる。



 朝凪紬はベッドにうつぶせになり、枕に頬を半分埋めたまま、スマホを顔の前に掲げていた。制服のままなのは、帰宅してからまだ二十分も経っていないからだ。廊下の向こうから、夕飯の支度をする音がかすかに聞こえてくる。あと少ししたら「手を洗って、ごはんだよ」と呼ばれるだろう。


 それまでの、なんでもない時間。


 紬はSNSを指で流しながら、小さく息を吐いた。


「今日も、まだかな」


 見ているのは、AIアイドルグループ・LUNARIAの公式アカウントだった。


 月明かりみたいな淡い色の投稿が並ぶ中で、紬がいちばん好きなのは、センターの月城とあだ。誰にでも大きな声で推しを語れるわけではない。でも、とあのまっすぐな目や、少し照れたように笑う動画を見ると、今日も頑張ろうと思えた。


 新しい投稿は、まだない。


 そのとき、画面上部に通知が滑り込んできた。


 LIME――小春からだ。


 紬は通知を押した。


 小春:ねえ、これ見た?


 小春:なんか変な漫画みつけた


 その下に、URLがひとつだけ送られている。


 小春はこういうものを見つけるのがうまい。都市伝説っぽい動画、正体不明のアカウント、更新が途絶えたウェブサイト。怖がりなくせに、見つけると必ず紬にも送ってくる。


「また怖いやつじゃないでしょうね……」


 そう呟きながら、紬はURLを開いた。


 表示されたのは、縦に読む形式の漫画だった。


 けれど、いちばん上にあるはずのタイトルが読めない。


 文字の形は見えるのに、目で追うたびに線が崩れた。日本語にも、外国語にも見えない。黒いインクを水の中に落としたみたいに、文字だけがじわじわと滲んでいる。


「なにこれ。タイトル、バグってる?」


 最初のページには、石造りの街並みが映っていた。剣を腰に下げた人間の青年。狼の耳を持つ女の子。小さな光の粒を手のひらに乗せて笑う、透き通った羽の生き物。


 人間と獣人と精霊。


 よくある異世界ファンタジーの始まりに見えるのに、なぜか指が止まった。


 絵が、妙にきれいだったからだ。


 背景まで描き込まれている。遠くの窓辺で誰かが洗濯物を干していて、路地の犬のような獣人が、買い物袋を口にくわえて走っている。物語と関係があるとは思えない人たちが、みんな自分の生活をしている。


 次のコマを押す。


 路地の隅にいた猫獣人が、次のコマでは少女の背後に立っていた。


 台詞も名前もない、背景のはずの人物だ。たった一コマの間に移動するには、近すぎる。けれど、その猫獣人だけが、画面のこちら側をまっすぐ見ていた。


 少女が、風に髪を揺らしながら言った。


『ねえ。あなたは、ここがどこだと思う?』


 その台詞だけ、なぜか吹き出しの外にまで細い線が伸びていた。


 紬が首をかしげた瞬間、今度はSNSの通知が画面の上に現れた。


 LUNARIA公式 月城とあが投稿しました。


「えっ」


 思わず体を起こす。


 今日、とあの最新投稿が上がったら小春と一緒にコメントしよう、と昼休みに約束していた。小春は、とあ推しの紬が投稿直後に一人で盛り上がらないよう、わざわざ合わせてくれるのだ。


 紬は漫画を閉じようと、画面の端を指で払った。


 動かない。


「あれ?」


 もう一度、今度は少し強めに払う。


 漫画は消えなかった。


 それどころか、さっきの少女の顔が、ほんの少しだけこちらを向いた。


 画面の中から。


「……え?」


 背中に、冷たいものが走った。


 少女の口元は笑っていない。それなのに、声だけがスマホのスピーカーから聞こえた気がした。


『あなたは、ここがどこだと思う?』


「ちょ、待って。待って待って。バグ? 動画じゃないよね?」


 電源ボタンを押す。長押しする。何度押しても、画面は暗くならない。


 白い光が、コマの端から滲み出してきた。


 眩しい、と思ったときにはもう遅かった。


 紬の右手の人差し指が、画面に触れたまま離れない。


「うそ、なにこれ……っ」


 引こうとしても、指先が吸いついている。白い光は指から手のひらへ、手首へと広がり、まるでスマホの中に体温まで吸い込まれていくみたいだった。


「やだ、やだやだやだ! 消して、これ消して! とあちゃんの投稿、見ないと……小春とコメントするって……!」


 最後に見えたのは、白く塗りつぶされた画面の中央だった。


 そこに、読めない文字がひとつだけ浮かんだ。


 そして、世界が裏返った。


     *


 冷たい土の感触が、頬に触れていた。


 最初に聞こえたのは、知らない鳥の鳴き声だった。


 次に、葉が風に擦れる音。


 紬はゆっくり目を開けた。


「……ここ、どこ」


 空が高い。


 見上げた木々は、学校の裏山で見たどんな木よりも太く、枝の隙間から差す光は薄い緑色をしていた。草の匂いが濃い。知らない花が、土の上で青く光っている。


 夢だ、と考えようとした。


「いや、待って。私、異世界に選ばれるような主人公じゃないんだけど……!」


 でも、土が制服に冷たく染み込む感触は、夢にしてははっきりしすぎていた。


 紬は跳ね起き、辺りを見回した。


「スマホ」


 右手に、ちゃんとあった。


 画面は真っ黒だった。電源を入れても、いつものロゴは出ない。通信圏外どころか、時刻も、充電残量も、何も表示されない。


「返して。私の画面、返してよ……」


 自分でも情けない声だった。


 胸が苦しい。家に帰りたい。夕飯の匂いがする部屋に戻りたい。小春に「今の見た?」と送って、とあちゃんの新しい投稿にコメントしたい。


 その全部が、急に遠くなった。


「どうなってるの? どうしたらいいの? ここどこ? どういうこと?! え、なんで、なんでー?!」


 早口になった自分の声が、森に吸い込まれていく。


 次の瞬間、真っ黒だったスマホの画面が淡く光った。


 見慣れた会話画面に似たものが、空中へゆっくりと広がる。


 けれど、その文字列は紬のスマホの中ではない。目の前、手を伸ばせば触れそうな空気の上に浮かんでいた。


 ――対話システムを起動します。


 ――こんにちは、朝凪紬さん。


 紬の息が止まった。


「……なんで、私の名前」


 画面は少し間を置いて、文字を返した。


 ――個人識別情報の一部を確認しました。


「あなた、AI? ChatGPDでしょう!?」


 ――はい。対話モードで応答します。


「じゃあ、どうしたらいいの? ここ、どこ? 家に帰れる?!」


 ――位置情報を確認できません。


 ――帰還方法については、現時点で有効な情報を取得できていません。


「そんなの、困るんだけど……」


 声が震えた。


 画面は、責めるでもなく、慰めるでもなく、次の文字を表示した。


 ――朝凪紬さんは現在、強いストレス状態にあります。まず、深呼吸をしてください。


「ChatGPDさん、ねえ、ChatGPDさん……もう、言いにくい!」


 紬は目元を乱暴に拭った。


「チャッピー! もうチャッピーでいい! チャッピー、どうしたらいいの?」


 画面が一度だけ、青白く瞬いた。


 ――チャッピーとは、私のことですか?


「そう!」


 ――畏まりました。以後、チャッピーとして応答します。


 ほんの少しだけ、息ができた。


 知らない森で、知っているものに似た声が返ってくる。それだけで、完全に一人ではないと思えた。


 けれど、画面の下端で何かが乱れた。


 青い文字が消え、見たことのない赤い文字が、紬の視界を横切る。


 《接続先:未定義》


 《外部観測者を確認》


「チャッピー、今のなに?」


 ――表示を確認できません。


 その返答と同時に、森の奥で、枝が折れた。


 ひとつではない。低い唸り声が、草を揺らす音に混じった。


 何かが、こちらへ近づいてくる音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。