第十話 風が帰らない道
――推定方向:グラナート南門外。
チャッピーの表示を見たまま、紬はしばらく息を止めていた。
朝の光は、窓の外の石畳を何事もなく照らしている。
南門へ向かう荷車も、門をくぐる旅人も、いつもと変わらない。
ただ、その先からだけ、風が戻ってこない。
「今すぐ行く気か」
後ろから聞こえたカイルの声に、紬は振り返った。
「……行きたい。でも、今すぐ一人で行くつもりじゃないよ」
「なら、支部長に話す」
カイルはそれだけ言って、二階への階段を顎で示した。
***
「調べるのは、境目までだ」
ディーンの声は、昨夜と変わらず低かった。
机の上には、南門の外へ延びる街道の地図が広げられている。紬には文字が読めない。それでも、城壁から南へ伸びる一本の太い線と、その左右に描かれた畑や小さな集落らしき印は分かった。
「異常の中へ入るな。原因を探る必要もない。風が止まる場所と、そこに何が起きているかを確認して戻れ」
「はい」
「カイル」
「分かってる」
壁際に立つカイルは、短く答えた。
「危険と判断したら、紬の意見を待たずに引き返せ」
「ああ」
その言葉に、紬は少しだけ肩の力を抜いた。
自分が見たものを伝えることはできる。けれど、何が危険で、どこまで進むべきかを一人で決める必要はない。
「私、記録します」
紬は地図を見ながら言った。
「歩いた時間と、風の向きと、変だったこと。あと、印も残したい」
「印?」
「戻るときに、道が同じか確かめられるように」
ディーンは、すぐには答えなかった。
代わりに、机の端に置かれていた細い革紐と、白い石をいくつか紬の前へ寄せる。
「南門の夜番が使う目印だ。十歩ごとに石を置き、紐でつなげ。石が見えなくなった時点で戻れ」
「分かりました」
「フィオは?」
窓の外に浮かんでいた青緑の光が、すっと室内へ入ってきた。
「風を見てる」
「見失うな」
「ぼくに指図するな、人間。帰る風くらい、ぼくが見つける」
ディーンは一度だけ頷く。
「なら、昼を越す前に戻れ」
***
南門の外は、思っていたよりずっと明るかった。
石造りの城壁を抜けると、街道の両側には低い石垣と畑が広がっていた。土を耕す人の背中。干された布。荷車を引く馬の蹄の音。
紬が最初にこの世界へ来た森とは、まるで別の場所に見える。
「普通、だね」
「普通だから、まだ門は閉めてない」
カイルは街道の先から目を離さずに答えた。
「通れなくなった、帰ってこない、そういう報告が出れば閉じる」
「まだ出てないんだ」
「今のところはな」
その言い方が、紬には少しだけ怖かった。
報告がないことは、安全だという意味ではないのかもしれない。
紬は革紐の端を、街道脇の背の低い杭へ結んだ。
「ここを一つ目にするね」
「俺が置く」
カイルが白い石を受け取る。
「紬は、見て覚えろ。迷ったら止まれ」
「うん」
十歩。
カイルが石を一つ置く。
さらに十歩。
紬は数を声に出し、革紐と石の位置を目で確かめた。
「チャッピー。歩数だけ、覚えてて」
――承知しました。
フィオは前へ飛んでは、戻ってきた。
「まだ、ある」
「風?」
「うん。でも、薄い」
畑はいつの間にか途切れ、背の低い草地が続いていた。
道の脇で鳴いていた虫の声が、ひとつ、またひとつと消えていく。
空は変わらず青い。
なのに、風だけが肌に触れなくなった。
「……ここから?」
紬が聞くと、フィオは首を振った。
「まだ。ここは、風が帰りたくないだけ」
「帰りたくない?」
「先で、ほどけてる」
フィオの声は、いつもより小さかった。
カイルが歩みを止める。
「石は」
「三つ。紐も、ちゃんとある」
紬が振り返る。
城壁はもう遠かったが、最初の杭と、その先の白い石が二つ見えた。
けれど三つ目だけが、見えない。
「……カイル」
紬は足元を指さした。
さっきカイルが置いたはずの石が、そこにはなかった。
革紐は、草の上をまっすぐ後ろへ伸びている。
その途中だけが、何かに噛み切られたように途切れていた。
「動くな」
カイルの声が低くなる。
彼は盾を前に出し、紬を半歩だけ後ろへ下げた。
「フィオ」
「分かってる」
青緑の光が、途切れた紐の上をなぞるように飛んでいく。
けれど、途中でふっと消えた。
消えたというより、前へ進んだ光が、戻る場所をなくしたように見えた。
「風が、戻れない」
フィオが、紬の肩のそばへ戻ってくる。
「ここから先」
街道の真ん中に、白いものがあった。
最初は、乾いた土が日に焼けているだけだと思った。
近づくと違うと分かる。
轍だった。
荷車が通った跡が、道の途中までくっきり続いている。
その先だけが、紙の上を白で塗り潰したように消えていた。
馬の蹄の跡も、人の足跡も、同じ場所で終わっている。
「行った荷車が、戻ってない……?」
「断定するな」
カイルはそう言いながらも、轍から目を離さなかった。
「ただ、行きと帰りの跡なら、ここで片方だけ消えるのはおかしい」
紬はスマホを握る指に力を入れた。
「チャッピー。この道の先、何があるか分かる?」
黒いスマホが掌で震え、その上に空中の会話画面が開く。
文字列が一度、白く明滅した。
――情報不足のため、目的地は特定できません。
――ただし、南方向の観測情報に、連続しない欠落を検出。
「観測できる情報が、途中で切れてる」
「それが何だ」
「分からない。けど……道が消えてるんじゃなくて、道の先を確認できなくなってるってこと?」
自分で言って、背筋が冷えた。
目の前には、ただの街道がある。
白い場所の先にも、草地は続いているように見える。
それなのに、そこから先だけ、何かが記録から外れている。
「戻る」
カイルが言った。
「え」
「境目は見た。これ以上は、支部長の許可の範囲じゃない」
紬は頷いた。
怖くなかったわけじゃない。
むしろ、もう少しだけ見れば何か分かるかもしれないと思ってしまった自分が、少し怖かった。
「うん。戻ろう」
カイルが紐へ手を伸ばす。
そのとき、フィオがぴたりと動きを止めた。
「待って」
「どうした」
フィオは白い轍の手前を指さした。
紬も目を凝らす。
土の上に、小さな裸足の跡があった。
子どものものに見える、細い足跡。
白い場所からこちらへ向かって、三歩だけ。
そこで、途切れている。
「……ユナちゃんくらいの子?」
「分からない」
フィオは、珍しくすぐに答えなかった。
「でも、この足跡。風が、覚えてない」
スマホが震える。
――通行痕跡を検出。
――対象の出現時点および移動経路を確認できません。
――三名の行動開始後に、未登録の足跡を検出。
紬は、画面から目を離せなかった。
白い場所の向こうからは、もう風が吹いていなかった。




