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第十一話 ユナが消えた夜

 南門が見えたとき、紬はようやく息を吐いた。


 戻ってきたはずなのに、街道の風はまだ背中にまとわりついている気がする。


 門の内側では、革鎧姿の夜番が二人、普段より少し厳しい顔で通行人を見ていた。


「戻ったか」


 カイルが頷く。


「支部長に話す」


 それだけで、夜番の一人が門の脇へ置いていた木札を裏返した。


 紬には文字が読めない。


 けれど、南門の外へ出ようとしていた荷車が止まり、御者が不満そうに肩をすくめるのを見て、何かが変わったのだと分かった。


 門番は御者へ、紙に書かれた内容を指でなぞりながら説明している。紬にはその文字を読めない。ただ、御者が何度も南の街道を振り返り、やがて荷車の向きを町の中へ戻したことだけは見えた。


 異常を知っているのは、まだほんの少しの人だけだ。


 それでも、町はもう昨日までと同じではない。


 ***


「南門外の通行は、当面、日中の近距離に限る」


 ディーンは報告を聞き終えると、机の上の地図へ赤い印を置いた。


「荷車は二人以上で。徒歩の通行は、門番の視界に収まる範囲に限る。異常の境目には近づかせるな」


「それで、止められるんですか?」


 紬が聞くと、ディーンは地図から目を上げた。


「止められるかは分からん。だが、何もしないよりはいい」


 答えは、少しだけ苦かった。


 カイルが壁際で腕を組む。


「南へ向かう荷車の帳面も見直せ。あの轍が、いつのものか確認できる」


「ニアに任せる」


 ディーンは、すでに次の紙を手に取っていた。


「紬。ユナ・フェルの失踪について、もう一度確認したい」


 紬の指先が冷える。


「私がですか…?」


「君が無理に聞く必要はない。ただ、地下倉庫と南門外を見た者として、気づくことがあるかもしれん」


 ディーンは声を少しだけ和らげた。


「両親には、話を聞かせてほしいと頼んである」


 ***


 フェル家は、南通りの端にあった。


 薄い茶色の石壁に、青い扉。窓辺には小さな鉢植えが並び、昨日の夜、ユナが父親に抱き上げられて帰っていった家だとすぐに分かった。


 中へ通されると、母親が何度も「狭くてすみません」と言った。


 けれど部屋は、狭いというより温かかった。使い込まれた卓と、壁に掛けられた布。料理の匂いが、まだ少し残っている。


 紬は椅子へ座る前に、フィオを見た。


 フィオは窓枠に降り、外の風を確かめるように目を細めている。


「ユナがいなくなったのは、昨日の夕食前です」


 父親が、ゆっくり言った。


「いつもなら、妻が呼べばすぐに下りてくるんです。絵を描いていたから、少し遅いのかなと思っていて」


 母親は、膝の上で指を組んだ。


「何度呼んでも返事がなくて。部屋へ行ったら……ユナがいませんでした」


「窓は?」


 カイルが聞く。


「閉まっていました。閂も、そのまま。扉は内側から鍵をかけるようなものではありませんし、壊れたところもなくて」


「外へ出た音は」


「聞いていません」


 父親は首を振った。


「家の外も探しました。近所にも声をかけた。でも、あの子が出ていったところを見た人はいなくて」


「靴も、部屋にありました」


 母親が続ける。


「外へ行くなら必ず履いていく靴です。だから、勝手に出ていったんじゃないって……分かっていたのに」


 最後の言葉は、少しだけ震えた。


 父親の手が、母親の手の上に重なる。


 紬は、言葉を挟めなかった。


 誰かに連れ出されたなら、探せる。


 けれど、部屋からいなくなっただけなら、どこを探せばいいのだろう。


「あの、部屋を見てもいいですか」


 紬が言うと、母親はすぐに頷いた。


「もちろんです」


 ユナの部屋は、廊下の奥にあった。


 小さなベッド。低い机。色鉛筆が何本か転がっている。窓には、父親の言った通り閂がかかっていた。


 机の端に、昨日見たものと似た食卓の絵が置かれている。


 丸い卓と、四つの椅子。


 三つには人がいる。


 最後の一脚だけが、やはり白い。


 紬は、絵に触れなかった。


「ここです」


 母親が、ベッドの脇を指さす。


 床板の隙間に沿って、細い白い擦れ跡が残っていた。


 粉をこぼして拭き損ねたようにも見える。けれど白は木目の上に乗っているのではなく、そこだけ色が薄くなったみたいに沈んでいた。


 紬は手を伸ばしかけて、止めた。


 地下倉庫で見た白い影の爪が、カイルの盾を引っ掻いたときの音を思い出す。触れれば、何かを忘れてしまうのではないかという感覚が、指先に残っていた。


「最初は、絵の粉かと思ったんです」


 母親の声が小さくなる。


「でも、拭いても落ちなくて。今朝になったら、少し薄くなっていました」


 フィオが、紬の肩の近くまで降りてきた。


「ここ、風が途切れてる」


「風が?」


 父親が、戸惑ったようにフィオを見る。


「部屋の中にも風は残る。窓を開けたときのとか、人が動いたときのとか」


 フィオは白い擦れ跡の上で、指先ほどの光を揺らした。


「でも、ここだけない。最初から、なかったみたい」


 母親が息を呑む。


 紬は、絵と擦れ跡を交互に見た。


「ユナちゃん、いなくなる前に何か変わったことを言っていませんでしたか」


 聞き方を、何度も頭の中で選んだ。


 お姉ちゃんのことは聞かない。


 分からないものを、家族の前で形にしてはいけない気がした。


「変わったこと……」


 母親は、少し考える。


「最近、よく眠る前に、誰かに席を取っておくみたいなことを言っていました」


「席?」


「『ここ、あけておく』って。食事のときに、空いた椅子を見て」


 父親が困ったように眉を寄せる。


「子どもの遊びだと思っていました。三人で食べるには椅子が四つあっても、おかしくありませんから」


 誰も、何かを思い出した顔はしていない。


 紬は小さく頷いた。


「ありがとうございます。今は、それだけで大丈夫です」


 母親が、少しだけ安心したように息を吐いた。


 それ以上を聞けば、ユナがいない誰かを待っていたことまで、両親に突きつけてしまう。


 まだ、紬にはその資格がない。


 ***


 家を出たあと、カイルはしばらく黙っていた。


 南通りには昼の光が戻り、店先では誰かが果物を並べている。


 昨日までと同じ町の景色だった。


「ベッド脇。地下倉庫。南門の外」


 紬が言う。


「どれも、白いものがある」


「それだけじゃない」


 カイルが答えた。


「人が消えた場所と、人の痕跡が消えた場所だ」


 フィオは、紬の前を飛びながら言った。


「全部、風が通れない」


 黒いスマホが震える。


 紬の手の上に、空中の会話画面が開いた。


 ――異常地点を比較します。


 ――フェル家寝室/地下倉庫/グラナート南門外。


 ――共通点:物理的移動経路を伴わない、接続の痕跡。


 ――接続先:特定不能。


 紬は、最後の一行を見つめた。


 ユナは、どこかへ連れ去られたのではないかもしれない。


 地図にも道にもない場所を通って、ここへ移された可能性がある。

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