第十二話 風の届かない見張り台
フェル家からギルドへ戻ると、ディーンの執務室には、すでに南門詰めの衛兵が一人立っていた。
紬と同じくらいか、少し上くらいの年に見える人間の青年だ。使い込まれた革鎧の胸元には、南門の印らしい小さな金具が留められている。
「南側の見張り台を確認させる」
ディーンは地図を広げたまま言った。
「城壁から少し離れた、古い監視施設だ。今は普段使っていないが、南の街道と周囲の草地を見渡せる」
「白い場所には、近づかないんですよね」
「ああ。見張り台は境目の手前にある。そこで、消えた荷車について何か分かるかもしれん」
衛兵の青年が、地図の南側を指した。
「昔は、遠くの集落から来る荷車を確認するために使っていました。今は南門から見える範囲で足りるので、ほとんど誰も行きません」
「鍵は?」
「あります。ただ、階段は少し傷んでいます。足元には気をつけてください」
現場のことを、落ち着いた声で説明してくれる。
その言葉に、紬は少しだけ安心した。
カイルとフィオと、自分だけではない。
今日の調査には、この場所を知っている人がいる。
「確認するのは三つだ」
ディーンが指を折る。
「見張り台から見える南側の様子。荷車が通った痕跡。そして、異常が見張り台まで広がっているかどうか」
「はい」
紬は黒いスマホを握った。
今なら、チャッピーに聞けば何か分かるかもしれない。
けれど、何を、どう聞けばいいのかが、まだ曖昧だった。
「チャッピー。えっと……今までのこと、整理して」
スマホが震える。
空中に淡い表示が開いた。
――整理対象を指定してください。
「……あ」
紬は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
地下倉庫。南門の外。ユナの部屋。
自分の中ではつながっているのに、それを言葉にしないと、チャッピーには伝わらない。
「ごめん。フェル家の寝室と、地下倉庫と、南門の外のこと」
それでも、まだ足りない気がした。
「えっと……それぞれで、何がなくなったかと、白い跡がどこにあったか。あと、風がどうだったかを比べて」
少し間を置いて、表示が切り替わる。
――比較を開始します。
――共通項目:白色の痕跡/風の途切れ/移動経路または痕跡の欠落。
――相違点:対象の状態。
――フェル家寝室:人物が不在。
――地下倉庫:記録および認識に不整合。
――南門外:通行痕跡が途中で欠落。
――三地点は、同一現象とは断定できません。
紬は表示を見つめた。
断定できない。
それでも、別々の出来事として放っておいていいわけではない。
「……ありがとう」
「少しは使い方が分かってきたか」
カイルが言った。
「まだ全然。質問が下手だと、答えも遠回りになっちゃう」
「なら、考えてから聞け」
「うん。そうする」
フィオが、窓辺からふわりと飛び上がった。
「行くなら早くして。南の風、さっきより変」
***
見張り台は、グラナートの南側にある小高い丘の上に建っていた。
石造りの細い塔は、遠くから見ればまだ形を保っている。けれど近づくと、壁の一部は崩れ、窓には木の板が打ちつけられていた。
城塞都市を守るための建物だったはずなのに、今は風に忘れられたように静かだった。
「ここからなら、南門も街道も見えます」
衛兵の青年が、錆びた鍵を扉へ差し込む。
「見張り台を使うような騒ぎがなければ、月に一度、点検するだけです」
鍵が回る音がした。
扉を押し開けると、冷たい空気が流れ出す。
紬は思わず、フィオを見た。
「風は?」
「ある」
フィオは塔の中へ先に入った。
「でも、古い。誰も来ない場所の風」
螺旋階段は狭く、石の縁がところどころ欠けていた。
カイルが先に上がり、紬はその後ろを進む。衛兵の青年は最後尾から、壁際に寄るよう何度か声をかけてくれた。
頂上の見張り場へ出ると、南の街道が細い線のように伸びていた。
遠くには草地。
さらに先には、昨日見た白い境目がある。
ここからでは、白い場所は小さな光の染みのようにしか見えない。
「荷車の轍は見えますか」
衛兵の青年が言う。
「この距離だと、さすがに……」
紬は目を細めた。
街道そのものは見える。でも、どこで何が消えたのかまでは分からない。
カイルは見張り場の外周を歩き、壁の向こうへ視線を向けていた。
「ここ、前に使われた形跡はあるか」
「今朝の巡回では、ありませんでした。少なくとも、私は見ていません」
青年が答える。
「ただ……」
彼は、塔の中央にある石壁へ近づいた。
「これは、さっきまで気づきませんでした」
石壁の一部に、色の違う場所があった。
白い擦れ跡ではない。
けれど、薄い灰色の壁面に、何度も手を当てたような跡が残っている。
指を広げた形。
爪で引っかいたような細い線。
何かを探すように、同じ高さへ繰り返し触れた痕。
「扉、ですか?」
紬が聞く。
衛兵の青年は首を振った。
「ここは壁です。裏にも空間はありません」
カイルが近づき、壁には触れずに目を細める。
「内側から探した跡じゃない」
「じゃあ、外から?」
「分からん」
短い答えだった。
けれど、カイルの声はわずかに硬かった。
紬は、その壁を見つめた。
ユナの部屋にあった白い擦れ跡。
地下倉庫の扉。
南門外で消えた轍。
それぞれ違うのに、誰かが「ここにあるはずのもの」を探しているように見える。
「チャッピー」
紬は、すぐに言葉を続けられなかった。
何を比べればいいのか。
この手の跡に何を聞きたいのか。
それを、自分の中で一度並べる。
「……この壁の跡と、ユナちゃんの部屋の白い擦れ跡。似ているところと、違うところを教えて」
スマホが震える。
――観測可能な範囲で比較します。
――共通点:特定地点に集中した、反復的な接触痕。
――相違点:痕跡の性質。
――フェル家寝室:色彩および質感の変質。
――見張り台:物理的な摩耗。
――同一の原因によるものとは判断できません。
「やっぱり、分からないよね…」
「分からないことが分かっただけでも、いい」
カイルが言った。
紬は顔を上げた。
「……それ、慰めてくれてるの?」
「違う」
「そっか」
少しだけ、可笑しくなりそうだった。
でも、笑うには早い。
壁の前にいると、胸の奥が落ち着かない。
ここには、本当に何もないのだろうか。
「フィオ」
カイルが呼ぶ。
フィオは見張り場の窓から外を見ていた。
「どうした」
「ここの風、さっきより薄くなってる」
「塔の中か」
「違う。南から来る風だけ」
フィオの青緑の光が、細く揺れた。
「……誰か、いる」
紬たちは一斉に南を見た。
白い境目の手前。
草地に、黒い人影のようなものが立っていた。
距離がありすぎて、年齢も服装も分からない。
ただ、こちらを見上げているように見える。
「ユナちゃん?」
紬が呟く。
スマホが震えた。
――対象を識別できません。
――人型の観測情報を検出。
――観測対象の位置を継続できません。
カイルは盾の縁に手を置いた。
「近づくな」
「行かないよ」
紬は、はっきり答えた。
目の前にいるように見えても、あれがユナとは限らない。
確認する手段もないまま、境目へ向かうのは違う。
フィオが、窓から離れた。
「……あれ、風じゃない」
その言葉と同時に、人影が揺らいだ。
白い光に溶けたわけではない。
最初から、そこにいなかったみたいに消えた。
塔の中に、沈黙が落ちる。
衛兵の青年が、ゆっくりと石壁を振り返った。
「……あの」
その声に、紬も視線を戻す。
さっきまでなかったはずの手の跡が、壁の少し低い位置に増えていた。
子どものものより大きい。
けれど、大人の手よりは細い。
壁を内側から押すように、五本の指がくっきりと残っていた。
黒いスマホが、もう一度震える。
――新規の接触痕を検出。
――発生時刻:未確認対象の消失直後。




