第十三話 空席がある家
見張り台から戻ったころには、日が西へ傾き始めていた。
ギルドの一階は、昼間より少しだけ騒がしい。
依頼を終えた冒険者たちの声に混じって、南門の通行制限について尋ねる商人の声が聞こえる。
まだ、誰かが叫んだり、逃げ出したりしているわけではない。
けれど、いつものざわめきとは違った。
誰もが、少しだけ外の様子を気にしている。
「……見張り台の壁に、新しい手の跡」
ディーンは紬たちの報告を最後まで聞くと、短く息を吐いた。
机の前にはミアとニアも立っている。
「今朝の巡回ではなかった、と衛兵本人が証言しているんだね?」
「ああ」
同行した衛兵の青年が答えた。
「鍵を開けたのも俺です。塔の中に、俺たち以外が入った形跡はありません」
ミアが、耳を少し伏せた。
「人影が消えた直後に、壁の跡が増えた……ってこと?」
「そうなります」
紬が答える。
自分で口にすると、さっき見た光景が急に現実味を失う。
遠くにいた、黒い人影。
壁を内側から押すように増えた、細い手の跡。
どちらも見たはずなのに、夢の途中で思い出したものみたいだった。
「ニア」
ディーンが呼ぶ。
「南門の帳面と、見張り台の点検記録を照合しろ。近くの住民から、家の中や物の記憶に関する聞き取りも始める」
「分かりました」
「ミアは、南門周辺で不安を煽るような話が広がっていないか見てくれ。必要なら、通行制限の説明を手伝え」
「うん。行ってくる」
双子はすぐに動き出した。
ニアは書類を抱え、ミアは受付の外へ出る前に、紬へ小さく手を振る。
似た顔なのに、今はそれぞれ別の場所へ向かっていく。
「紬」
ディーンが視線を向けた。
「ユナは無事に両親の元へ帰っている。だが、最初の失踪が起きた家でもある。今夜は、様子を見に行ってくれ」
「私、ですか?」
「カイルと一緒にな。あの子が何かを思い出したり、変わったものを見つけたりしていないか、話を聞け」
「分かりました」
***
フェル家の青い扉を叩くと、すぐにユナが顔を出した。
「つむぎちゃん!」
その声を聞いて、紬は少しだけ息を吐く。
ユナはちゃんと、ここにいる。
父親に抱き上げられて家へ帰ったときと同じように、少し大きめの服の袖を握っていた。
「今日は、どうしたの?」
「ユナちゃんの様子を見に来たの。困ってることはない?」
ユナはすぐには答えなかった。
それから、家の中を振り返る。
「……へんなの、ある」
母親が奥から出てきた。
「食卓のことです」
声は落ち着いている。でも、その表情には昼間にはなかった疲れが浮かんでいた。
「ユナが、棚から出したんです。自分のじゃないって」
丸い卓の上には、三人分の食器が置かれていた。
父親と母親と、ユナの分。
その隣に、もう一つだけ。
淡い青色の小さなカップと、小さな銀のスプーン。
「これ」
ユナがカップを指さす。
「わたしのじゃない」
「誰のものか、分かる?」
紬が尋ねると、ユナは首を振った。
「でも、前からあった気がする」
母親は、卓の端へ手を添えた。
「棚の奥に、ずっと置いてあったんだと思います。でも、どうして今まで気づかなかったのか……」
カップは使い込まれていた。
持ち手の内側だけ、指が何度も触れたように少し滑らかだ。
新しいものには見えない。
けれど、この家の三人の誰のものでもない。
「りんごは、皮をむいてって言っていた気がするの」
母親が、ふいに言った。
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
「ユナは、そのまま食べるのに」
父親が顔を上げる。
「……何の話だ?」
「分からない」
母親は首を振った。
「誰のことか、分からない。でも、りんごの皮が嫌いで。小さく切らないと食べなくて……」
途中から、母親の声は泣きそうになっていた。
ユナは、青いカップを見つめている。
「おかあさん、その子もいたの?」
父親の表情が固まった。
「誰のことだ、ユナ」
「わかんない。でも、おかあさん、さっきからその子のこと、さがしてるみたい」
誰も、すぐには答えられなかった。
紬は、食卓の四つ目の場所を見つめた。
名前も、顔も、姿もない。
それでも、この家の中には、誰かがいた時間だけが残っている。
「風は?」
紬が小さく尋ねると、フィオは食卓の上をゆっくり回った。
「ユナの部屋より、ある」
「あるの?」
「うん。でも、変」
フィオは青いカップのすぐ上で止まる。
「ここだけ、風が重なってる。三人分じゃない」
父親が顔を上げた。
「三人分?」
「この家にいる人の風。今は、四つある」
フィオの言葉に、部屋の空気が固まった。
カイルが紬の前へ半歩出る。
「触るな」
紬は頷いた。
カップに触れて確かめたくなる。
でも、ユナの部屋の白い跡も、見張り台の壁も、触れていいものではなかった。
「チャッピー」
紬はスマホを握り直した。
何を知りたいのか、今度はすぐに言葉にできた。
「このカップとスプーンが、今日この家に増えたのか。それとも、前からあったのに、私たちが気づけなかったのか。分かる?」
黒いスマホが震える。
空中の画面が、淡い光を映した。
――観測情報が不足しています。
紬は息を止める。
けれど、表示はすぐに続いた。
――ただし、対象物には長期間の使用痕が確認されます。
――本日初めて存在した物体である可能性は低いと推定します。
「前から、あった……」
紬が呟く。
「なのに、誰も気づけなかった」
カイルが言った。
父親は青いカップを見つめたまま、ゆっくり椅子へ座り込んだ。
「俺たちは……忘れたのか。誰かを、何を……」
答えられる人はいなかった。
***
フェル家を出たあと、紬たちは南通りを歩いた。
空はもう薄暗い。
店じまいを始める人たちの間を、荷車がゆっくり通っていく。
「あの、お客さん」
果物屋の店主が、店先から声をかけてきた。
紬たちの顔を覚えていたらしい。
「南門のことで調べてる人たちだろ? 少し、聞いてもいいか」
「どうしましたか?」
「今日届くはずの荷が、来なかったんだ。いつもの荷車で……いつもの、ええと」
店主は眉間に皺を寄せた。
「何を頼んでいたんだっけな」
店先には、赤い果実も、青い果実も並んでいる。
けれど、店主は帳面を開いたまま、そこに書かれた文字を何度も指でなぞっていた。
「代金は払った。届け先もここだ。なのに、荷の中身だけが思い出せない」
紬は帳面を覗き込みかけて、止めた。
文字は読めない。
でも、店主が指を置いている場所だけ、紙の色が少し薄いように見えた。
「……ニアさんに、帳面を見てもらえますか」
「ああ。そうする」
店主はそれ以上、何も言えなかった。
カイルが歩き出す。
「一件目は、物が残って記憶が抜けた」
「二件目は、記録が残って中身が抜けた」
紬は、さっきの青いカップを思い出した。
どちらも、何かが消えたあとに残った形なのかもしれない。
黒いスマホが震える。
紬は表示を見下ろした。
――新規の観測情報を記録しました。
――フェル家の対象物、南通りの帳面、見張り台の接触痕。
――共通項目:存在または記録の不連続。
「不連続……」
紬は、その言葉を小さく繰り返した。
カイルは足を止めずに言う。
「今日は戻る。続きは明日だ」
「うん」
不安は消えない。
青いカップを使っていた誰かのことも、南門の外にいた人影が何だったのかも、まだ分からない。
それでも紬は、さっきより少しだけはっきりと分かっていた。
この町には、忘れられた何かがある。
そしてそれは、ただ消えたままではないのかもしれない。




