↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/15

第十四話 白い境界は、近づいてくる

 翌朝、紬は鐘の音で目を覚ました。


 宿の外から聞こえる鐘は、時間を知らせるものではなかった。


 短く、間を置かずに、三度。


 廊下を走る足音と、階下で交わされる低い声が続く。


 紬はベッドの上で身を起こし、枕元の黒いスマホを握った。


 何かが起きた。


 そう分かっているのに、すぐには立ち上がれない。昨日、青いカップを見つめたフェル家の父親の顔が浮かんだ。


 忘れたのか。


 誰かを。何を。


 胸の奥が、ゆっくり冷えていく。


「……行こう、チャッピー」


 スマホは答えない。


 ただ、手の中で小さく震えた。


 ***


 ギルドの一階は、朝だというのに人で埋まっていた。


 受付の前には商人や冒険者だけでなく、荷運びらしい男や、南門近くに住んでいるのだろう町の人たちまで集まっている。


「門が閉まったって、本当か」


「外に出ていた弟がまだ戻らないんだ」


「白いのが、昨日より近いって――」


 不安の声が重なり、いつもの依頼を受ける場所とはまるで違う空気になっていた。


「紬」


 階段の脇から、カイルが呼んだ。


 すでに盾を背負い、腰には剣を下げている。紬が近づくと、短く顎を上げて二階を示した。


「支部長室だ」


 フィオはカイルの肩より少し上を飛んでいた。


 いつもより光が薄い。


「南の風、帰ってこない」


 紬は足を止めた。


「帰ってこないって……向こうへ行ったままってこと?」


「違う」


 フィオは小さく首を振る。


「帰る場所が、なくなってるみたい」


 意味を聞く前に、カイルが扉を開けた。


 ***


 ディーンの執務室には、ミアとニア、それから南門の衛兵が二人いた。


 机の上には地図と帳面が広げられ、南側の街道には赤い印がいくつも置かれている。


「来たか」


 ディーンは紬を見ると、地図の一点を指した。


「今朝、南門外の白い境界が動いた」


「動いた……?」


「昨日の位置より、門側へ三十歩ほど近い」


 紬は地図を見る。


 赤い線は、街道をまっすぐなぞっているわけではなかった。


 途中でわずかに膨らみ、何かを避けるように歪んでいる。


「広がったんじゃないんですか?」


「最初はそう見えた」


 ニアが帳面から目を上げた。


「ですが、境界の端は一定の幅で迫っているわけではありません。南門の正面を避け、東の草地側へ寄っています」


 昨日、紬が見張り台から見た白い境目。


 あれは、ただ道を飲み込んでいるだけではない。


「何かを避けている……?」


「あるいは、何かへ向かっている」


 ディーンの声は低かった。


 部屋が静かになる。


 ミアが、耳を伏せて続けた。


「門の外には、朝の見回りに出てた衛兵が一人いるの。境界より内側までは戻れたんだけど」


「ほかに何か見えた?」


 紬が尋ねると、ミアは一度だけ頷いた。


「街道の脇に、倒れた荷馬車」


 南門の衛兵が言った。


「積荷は散っている。馬は見えませんでした。御者も……」


 言葉が止まる。


「中を確認できていないんですか?」


「境界が近すぎる。二人で近づくには危険だと判断しました」


 その答えに、紬は頷いた。


 無理に向かわなかったことを、責めるべきではない。


 何がいるかも、何が起きるかも分からない場所へ、少人数で入るのは違う。


「南門は完全に閉鎖する」


 ディーンが告げた。


「避難と門の維持は衛兵に任せる。荷馬車の確認は、カイルが行け」


「私も行きます」


 言ってから、紬は息を吸った。


 カイルがこちらを見る。


 ディーンも、すぐには答えなかった。


 紬は続ける。


「境界の動き方と、荷馬車の周りにあるものを確認したいです。昨日までの白い跡や、人影と同じなのか……チャッピーに聞くためにも」


 助けたいから、だけではない。


 自分が行って何をするのか。


 怖くても、そこを曖昧にしたくなかった。


「境界の中へは入りません」


 紬はカイルを見る。


「カイルさんと衛兵さんが安全だと判断した場所から、見えることを伝えます」


 カイルは、少しだけ眉を寄せた。


「……危なくなれば、すぐ下がれ」


「うん」


 ディーンは地図を畳んだ。


「いいだろう。だが、確認だけだ。救助が必要でも、手順を決める前に踏み込むな」


「分かりました」


 ***


 南門の前には、人垣ができていた。


 閉じられた門の向こうを見ようとする人々を、衛兵たちが押し戻している。


 紬たちは門の脇にある小さな通用口から外へ出た。


 朝の草地は静かだった。


 風がない。


 いや、空気は動いているのに、風だけがどこにも触れていないようだった。


「昨日より、近い」


 紬は思わず呟く。


 白い境界は、南門から見てもはっきり分かる距離まで来ていた。


 光の壁ではない。


 草地の色が薄くなり、遠くの景色だけがうまく焦点を結ばない。その曖昧な場所が、道の先からこちらへ伸びている。


 けれど、街道の中央を進んでいるわけではなかった。


 境界は倒れた荷馬車の手前で、大きく弧を描いている。


「……あれを避けてる」


 紬が言う。


 カイルは目を細めた。


「荷馬車をか」


「分からない。でも、境界の形が、そこだけ変」


 フィオが前へ飛ぶ。


 けれど、いつものように勢いよく進めない。見えない壁に押し返されるように、途中で止まった。


「風が、戻れない」


「フィオ、無茶しないで」


「分かってる」


 そう言う声にも、少しだけ苛立ちが混じっていた。


「でも、あの辺り……風が、たくさんある。なのに、どれも帰ってこない」


 カイルは衛兵へ手を上げる。


「ここで待て。俺と紬が近づく」


「ですが――」


「境界へは入らない。お前たちは退路を見ろ」


 衛兵は一瞬迷い、それから頷いた。


 カイルが先に進む。


 紬はその少し後ろを歩いた。足元の草を踏む音だけが、やけに大きい。


 倒れた荷馬車は、思っていたより近かった。


 片方の車輪が外れ、木箱がいくつか草地へ転がっている。積荷は布地や乾燥した香草で、人の姿は見えない。


「誰か、いたよね?」


 紬が言う。


「いた可能性は高い」


 カイルは荷馬車から目を離さない。


「だが、どこへ行ったかは分からん」


 白い境界は、荷馬車のすぐ向こうで揺れていた。


 近づくほど、目の奥が痛くなる。


 紬は黒いスマホを握り直した。


「チャッピー。あの境界と、この荷馬車の位置関係を見て。境界は、荷馬車を避けてるの? それとも、荷馬車の周りで止まってるの?」


 空中に淡い画面が開く。


 ――観測情報を比較します。


 数秒が、長かった。


 ――境界領域の形状は、荷馬車周辺で不規則に変化しています。


 ――原因:特定不能。


 紬は表示を見つめた。


 避けているように見える。


 でも、それが正しいとは、まだ言えない。


 そのとき、荷馬車の向こうで何かが動いた。


 白い境界の手前。


 人の形に見える、細い影。


 見張り台で見たものと同じように、顔も服も分からない。ただ、こちらへ背を向けて立っている。


「カイル」


「見えている」


 カイルは剣に手をかけたが、抜かなかった。


 影が、ゆっくり振り返る。


 その瞬間、フィオが息を呑んだ。


「……違う」


「何が?」


「人じゃない」


 影は、白い境界の中へ一歩下がった。


 消えたわけではない。


 けれど、その姿だけが、白の向こうで何重にもぶれて見えた。


 黒いスマホが、強く震える。


 空中の画面が、紬の目の前で切り替わった。


 ――境界領域内に、複数の生命反応に類する観測情報。


 ――ただし、個体識別不能。


 紬は息を止めた。


 荷馬車の向こうには、誰かがいる。


 いるのに、誰なのかは分からない。


「戻る」


 カイルの声が鋭く落ちた。


「今すぐだ」


 紬は頷いた。


 助けなければならない。


 でも、今の自分たちには、助けるための道がまだない。


 白い境界の向こうで、細い影がもう一度だけ揺れた。


 助けを求める声は、聞こえなかった。


 それでも紬には、あの影が自分たちを見失わないように立っている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。