第十四話 白い境界は、近づいてくる
翌朝、紬は鐘の音で目を覚ました。
宿の外から聞こえる鐘は、時間を知らせるものではなかった。
短く、間を置かずに、三度。
廊下を走る足音と、階下で交わされる低い声が続く。
紬はベッドの上で身を起こし、枕元の黒いスマホを握った。
何かが起きた。
そう分かっているのに、すぐには立ち上がれない。昨日、青いカップを見つめたフェル家の父親の顔が浮かんだ。
忘れたのか。
誰かを。何を。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
「……行こう、チャッピー」
スマホは答えない。
ただ、手の中で小さく震えた。
***
ギルドの一階は、朝だというのに人で埋まっていた。
受付の前には商人や冒険者だけでなく、荷運びらしい男や、南門近くに住んでいるのだろう町の人たちまで集まっている。
「門が閉まったって、本当か」
「外に出ていた弟がまだ戻らないんだ」
「白いのが、昨日より近いって――」
不安の声が重なり、いつもの依頼を受ける場所とはまるで違う空気になっていた。
「紬」
階段の脇から、カイルが呼んだ。
すでに盾を背負い、腰には剣を下げている。紬が近づくと、短く顎を上げて二階を示した。
「支部長室だ」
フィオはカイルの肩より少し上を飛んでいた。
いつもより光が薄い。
「南の風、帰ってこない」
紬は足を止めた。
「帰ってこないって……向こうへ行ったままってこと?」
「違う」
フィオは小さく首を振る。
「帰る場所が、なくなってるみたい」
意味を聞く前に、カイルが扉を開けた。
***
ディーンの執務室には、ミアとニア、それから南門の衛兵が二人いた。
机の上には地図と帳面が広げられ、南側の街道には赤い印がいくつも置かれている。
「来たか」
ディーンは紬を見ると、地図の一点を指した。
「今朝、南門外の白い境界が動いた」
「動いた……?」
「昨日の位置より、門側へ三十歩ほど近い」
紬は地図を見る。
赤い線は、街道をまっすぐなぞっているわけではなかった。
途中でわずかに膨らみ、何かを避けるように歪んでいる。
「広がったんじゃないんですか?」
「最初はそう見えた」
ニアが帳面から目を上げた。
「ですが、境界の端は一定の幅で迫っているわけではありません。南門の正面を避け、東の草地側へ寄っています」
昨日、紬が見張り台から見た白い境目。
あれは、ただ道を飲み込んでいるだけではない。
「何かを避けている……?」
「あるいは、何かへ向かっている」
ディーンの声は低かった。
部屋が静かになる。
ミアが、耳を伏せて続けた。
「門の外には、朝の見回りに出てた衛兵が一人いるの。境界より内側までは戻れたんだけど」
「ほかに何か見えた?」
紬が尋ねると、ミアは一度だけ頷いた。
「街道の脇に、倒れた荷馬車」
南門の衛兵が言った。
「積荷は散っている。馬は見えませんでした。御者も……」
言葉が止まる。
「中を確認できていないんですか?」
「境界が近すぎる。二人で近づくには危険だと判断しました」
その答えに、紬は頷いた。
無理に向かわなかったことを、責めるべきではない。
何がいるかも、何が起きるかも分からない場所へ、少人数で入るのは違う。
「南門は完全に閉鎖する」
ディーンが告げた。
「避難と門の維持は衛兵に任せる。荷馬車の確認は、カイルが行け」
「私も行きます」
言ってから、紬は息を吸った。
カイルがこちらを見る。
ディーンも、すぐには答えなかった。
紬は続ける。
「境界の動き方と、荷馬車の周りにあるものを確認したいです。昨日までの白い跡や、人影と同じなのか……チャッピーに聞くためにも」
助けたいから、だけではない。
自分が行って何をするのか。
怖くても、そこを曖昧にしたくなかった。
「境界の中へは入りません」
紬はカイルを見る。
「カイルさんと衛兵さんが安全だと判断した場所から、見えることを伝えます」
カイルは、少しだけ眉を寄せた。
「……危なくなれば、すぐ下がれ」
「うん」
ディーンは地図を畳んだ。
「いいだろう。だが、確認だけだ。救助が必要でも、手順を決める前に踏み込むな」
「分かりました」
***
南門の前には、人垣ができていた。
閉じられた門の向こうを見ようとする人々を、衛兵たちが押し戻している。
紬たちは門の脇にある小さな通用口から外へ出た。
朝の草地は静かだった。
風がない。
いや、空気は動いているのに、風だけがどこにも触れていないようだった。
「昨日より、近い」
紬は思わず呟く。
白い境界は、南門から見てもはっきり分かる距離まで来ていた。
光の壁ではない。
草地の色が薄くなり、遠くの景色だけがうまく焦点を結ばない。その曖昧な場所が、道の先からこちらへ伸びている。
けれど、街道の中央を進んでいるわけではなかった。
境界は倒れた荷馬車の手前で、大きく弧を描いている。
「……あれを避けてる」
紬が言う。
カイルは目を細めた。
「荷馬車をか」
「分からない。でも、境界の形が、そこだけ変」
フィオが前へ飛ぶ。
けれど、いつものように勢いよく進めない。見えない壁に押し返されるように、途中で止まった。
「風が、戻れない」
「フィオ、無茶しないで」
「分かってる」
そう言う声にも、少しだけ苛立ちが混じっていた。
「でも、あの辺り……風が、たくさんある。なのに、どれも帰ってこない」
カイルは衛兵へ手を上げる。
「ここで待て。俺と紬が近づく」
「ですが――」
「境界へは入らない。お前たちは退路を見ろ」
衛兵は一瞬迷い、それから頷いた。
カイルが先に進む。
紬はその少し後ろを歩いた。足元の草を踏む音だけが、やけに大きい。
倒れた荷馬車は、思っていたより近かった。
片方の車輪が外れ、木箱がいくつか草地へ転がっている。積荷は布地や乾燥した香草で、人の姿は見えない。
「誰か、いたよね?」
紬が言う。
「いた可能性は高い」
カイルは荷馬車から目を離さない。
「だが、どこへ行ったかは分からん」
白い境界は、荷馬車のすぐ向こうで揺れていた。
近づくほど、目の奥が痛くなる。
紬は黒いスマホを握り直した。
「チャッピー。あの境界と、この荷馬車の位置関係を見て。境界は、荷馬車を避けてるの? それとも、荷馬車の周りで止まってるの?」
空中に淡い画面が開く。
――観測情報を比較します。
数秒が、長かった。
――境界領域の形状は、荷馬車周辺で不規則に変化しています。
――原因:特定不能。
紬は表示を見つめた。
避けているように見える。
でも、それが正しいとは、まだ言えない。
そのとき、荷馬車の向こうで何かが動いた。
白い境界の手前。
人の形に見える、細い影。
見張り台で見たものと同じように、顔も服も分からない。ただ、こちらへ背を向けて立っている。
「カイル」
「見えている」
カイルは剣に手をかけたが、抜かなかった。
影が、ゆっくり振り返る。
その瞬間、フィオが息を呑んだ。
「……違う」
「何が?」
「人じゃない」
影は、白い境界の中へ一歩下がった。
消えたわけではない。
けれど、その姿だけが、白の向こうで何重にもぶれて見えた。
黒いスマホが、強く震える。
空中の画面が、紬の目の前で切り替わった。
――境界領域内に、複数の生命反応に類する観測情報。
――ただし、個体識別不能。
紬は息を止めた。
荷馬車の向こうには、誰かがいる。
いるのに、誰なのかは分からない。
「戻る」
カイルの声が鋭く落ちた。
「今すぐだ」
紬は頷いた。
助けなければならない。
でも、今の自分たちには、助けるための道がまだない。
白い境界の向こうで、細い影がもう一度だけ揺れた。
助けを求める声は、聞こえなかった。
それでも紬には、あの影が自分たちを見失わないように立っている気がした。




