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第十五話 帰れない風

 白い境界の手前から戻るなり、カイルは南門の衛兵へ叫んだ。


「支部長に伝えろ。中に人がいる」


 紬たちは、閉じた南門をくぐってギルドへ戻った。


 倒れた荷馬車。白の向こうに残った人影。チャッピーが示した、複数の生命反応に類する観測情報。


 報告を聞いたディーンは、しばらく地図を見下ろしていた。


「……確認は終わりだ。次は救助する」


 その声に、部屋の空気がわずかに張る。


「ただし、境界の内側へ深入りはさせん。南門から綱を伸ばし、退路を確保する。救助できる者だけを連れ帰れ」


「中に、何人いるかは分からないんですよね」


 紬が言うと、ニアが帳面を閉じた。


「荷馬車の記録には、御者一名とあります。ですが、荷の確認書には別の筆跡が残っていました。誰のものかは、まだ」


「一人とは限らない」


 カイルが短く言う。


 ディーンは頷いた。


「だからこそ、全員を助けようとして全員が戻れなくなるのは避ける。救助の優先は、こちらで判断する」


 紬は息を吸った。


 助けたい。


 昨日からずっと、そう思っている。


 でも、助けたいだけで動いて、誰かを危険にさらしていいわけではない。


「私も行きます」


 ディーンの視線が向く。


「チャッピーに、境界の変化を見てもらうためです。もし中で何か起きたら、見えていることを全部伝えます」


「戦えるのか」


「……戦えません」


 言ってから、紬は視線を逸らさずに続けた。


「でも、見えたことを整理して伝えることはできます。カイルや衛兵さんが、何を危険だと判断したのかも、ちゃんと聞きます」


 ディーンは、すぐには答えなかった。


「想定外のことが起きたら、どうする」


「カイルか、現場の衛兵さんの指示に従って、すぐ戻ります」


「よし」


 ディーンは地図を畳んだ。


「紬は観測役だ。救助の判断にも、戦いにも割り込むな。見えたものを伝えろ」


「分かりました」


 カイルは何も言わなかった。


 ただ、紬の言葉を聞いたあとで、盾の留め具を確かめた。


 ***


 南門の外には、太い綱が一本伸ばされていた。


 城壁の内側で衛兵たちが持ち、外へ出るカイルの腰にも結ばれている。紬にも、少し細い綱が渡された。


「絶対に離すな」


 衛兵が言う。


「白に呑まれそうになったら、声より先に綱を頼れ。引かれたら戻れ」


「はい」


 紬は結び目を見つめた。


 これがあれば大丈夫、とは思えない。


 それでも、何もないまま踏み出すよりはいい。


 フィオは、紬の肩の近くで浮かんでいた。


「……ぼくも、行く」


「無理はしないでね」


「それ、ぼくの台詞」


 小さく言い返した声は、いつもより硬い。


 倒れた荷馬車は、さっきと同じ場所にあった。


 けれど、白い境界はさらに近く、車体の半分を曖昧な光の中へ沈めていた。


 綱は確かに、外へ続いている。


 けれど白の近くまで進むと、それが帰れる道だと信じることさえ難しくなっていった。


 紬は手を強く握り込む。


「チャッピー。荷馬車の周りで、動いているものがあるか見て」


 黒いスマホが震える。


 空中に淡い画面が開いた。


 その瞬間だった。


 白の奥にいた影が、揺れた。


 こちらを見つけたように。


 紬の背筋を、冷たいものが走る。


 ――荷馬車周辺に、人型の観測情報を検出。


 ――個体識別不能。


「カイル」


「分かってる」


 カイルは盾を前へ出し、荷馬車の横へ回り込んだ。


 そこで、低いうめき声が聞こえた。


「……っ、誰か」


「人がいる!」


 紬が声を上げる。


 外れた車輪の下に、中年の男が倒れていた。片脚を押さえ、顔を土と血で汚している。


 カイルがすぐに車輪へ肩を入れる。


「紬、荷台の下を見ろ。ほかにいるか」


「うん」


 紬は震える息を抑え、荷馬車の陰を覗き込んだ。


 木箱。散らばった布。白くぼやけた地面。


 人の姿は見えない。


「チャッピー、近くに――」


 言いかけたとき、白の中から細い影が伸びた。


 腕のように見えた。


 けれど、指の数も、形も、うまく数えられない。


 それが紬の手首に触れた。


「……っ」


 冷たい、とは違った。


 自分の何かが、少し遠くなる。


 朝凪紬。


 それが自分の名前だったはずなのに、誰かに呼ばれた言葉を思い出すみたいに、輪郭が薄くなる。


 空中の画面が激しく明滅した。


 ――警告。


 ――観測対象・朝凪紬の連続性が低下しています。


 ――対象から離れてください。


「紬!」


 カイルが男の肩を担いだまま、こちらへ手を伸ばす。


 白い影が、今度はその腕にも絡みつこうとした。


 だめだ。


 ここでカイルまでいなくなったら、助けに戻る人もいなくなる。


「カイル、戻って!」


「まだだ。荷台に――」


「カイルまで持っていかれたら、助けに戻れなくなる!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。


「今は戻る! 戻って、助ける方法を作る!」


 カイルの目が、紬を見る。


 一瞬だけ。


 それから彼は、迷いを切るように紬の腕を掴んだ。


「フィオ!」


「分かってる!」


 フィオが白い影へ飛び込む。


 青緑の光が、風の形を作った。


 紬の手首に絡んだ白が、わずかに剥がれる。


「走って! ぼくの風じゃ、一度にこれしか助けられない!」


 カイルが御者を担ぎ上げる。


 紬は綱を握ったまま、後ろを振り返らずに走った。


 白い境界の手前で、風が途切れた。


 その瞬間、綱が強く引かれる。


 衛兵たちが、外から引き戻している。


 紬たちは草地へ転がるように戻った。


 境界の向こうから、白い影は出てこなかった。


 ***


 救助された男は、南門の内側で治療を受けた。


 意識が戻ったのは、陽が傾き始めたころだった。


「荷台に……手を、握ってた」


 寝台の上で、男が掠れた声を出す。


 紬は息を止めた。


「誰の手ですか?」


「分からない」


 男は目を閉じた。


「分からないのに……離したらだめだった」


 その言葉だけが、何度も喉の奥でつかえたように聞こえた。


「振り返ったら、白くて。誰がいたのかも、何を運んでいたのかも……思い出せない」


 救えたのは、一人だけだった。


 荷馬車の周りにあったはずの、ほかの気配は置いてきた。


 紬は黒いスマホを握ったまま、隣にいる二人を見た。


「カイル。さっき、ありがとう」


 カイルは答えず、紬の手首に残った薄い白を一度だけ見た。


「礼は、全部終わってから言え」


「……うん」


 紬はフィオにも顔を向ける。


「フィオも。助けてくれて、ありがとう」


「別に。ぼくの風を、あんなのに取られたくなかっただけ」


 言い方はいつも通りだった。


 けれど、フィオの青緑の光は、さっきより少しだけ弱い。


「さっき、私を戻してくれた風。あれを、もっと長く続けることはできない?」


 フィオはすぐには答えなかった。


 青緑の光が、疲れたように小さく揺れる。


「今のぼくじゃ、無理」


「……そうだよね」


「でも」


 フィオは、紬を見た。


「紬となら、できるかもしれない」


 紬は顔を上げる。


「どういうこと?」


「ぼく一人じゃ作れない。人間の中に、つないでおくものがいる」


 紬が尋ねるより先に、カイルが低く言った。


「精霊契約の話か」


 フィオは、すぐには頷かなかった。


「人間の言い方なら、そう」


 青緑の光が、紬と白い境界のあった南の方角との間で揺れる。


「ぼくの風を紬につなぐ。紬の中に、白の外へ戻る場所を結ぶ。そうすれば、ぼくは白の中でも、その場所を辿って風を返せる」


 契約。


 その言葉が、紬の胸に重く落ちた。


 白いものに触れられたとき、自分の名前さえ遠くなった。


 そんな自分が、フィオの帰る場所になれるのだろうか。


「……私で、いいの?」


 フィオは、すぐには答えなかった。


 青緑の光が、小さく揺れる。


「ぼくが、紬がいいと思ったから言ってる」


 いつもの軽い言い方ではなかった。


 怖くないわけではない。


 それでも紬は、フィオから目を逸らさなかった。


「……私にできるのか、まだ分からない」


 白の向こうに残った気配と、荷台で握っていたという誰かの手を思い出す。


「でも、置いてきたままにはしたくない」


 黒いスマホが、紬の掌で震える。


 ――救出対象:一名を確保。


 ――未回収の観測情報:継続。


 ――現在の手段では、追加救助の成功率を算出できません。

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