第3話 訪れた流民と「竜骨村」の誕生
竜骨谷に来てから、しばらくの時が過ぎた。
最初の頃は、ただ生き延びるだけで精一杯だった。
だが――あの日。
ヴァグ・ウルフに襲われたことで目覚めた【万物解明・地脈操作】。
その力を使えば、アルスには大地の中が手に取るように分かった。
どこに水が流れているのか。
どこに岩盤があるのか。
土に何が含まれているのか。
どこを掘れば崩れ、どこを固めれば強固になるのか。
「……ここだ」
アルスは地面に手を触れた。
淡い光の筋が、地中を走っている。
「もう少し深く……」
意識を集中させる。
――ズズズズ……。
地面がゆっくりと動いた。
土の中に含まれていた不純物が押し出され、必要な成分だけが残っていく。
やがて。
アルスの目の前には、黄金色の土が広がった。
「……すごい」
アルスはしゃがみ込み、土を手に取った。
以前までの死んだような土とは違う。
柔らかく、温かい。
指の間から、さらさらとこぼれていく。
試しに種を植えてみると――
数日後。
小さな芽が顔を出した。
「……生えた」
アルスは目を輝かせた。
それからだった。
竜骨谷での生活が、少しずつ変わり始めた。
土を整え。
種を植え。
水を引く。
地中深くに眠っていた地下水脈を見つけ、地面を掘り進める。
やがて、透明な水が湧き出した。
「……水だ」
両手ですくって口にする。
冷たい。
そして――美味しかった。
「これなら……生きていける」
アルスは笑った。
それから毎日。
少しずつ。
少しずつ。
自分の住む場所を作っていった。
地脈操作によって岩盤を削り、壁を作る。
雨風を防ぐための屋根を作る。
最初は粗末な洞窟のような住居だった。
それでも。
「僕の家……」
アルスにとっては、初めて自分自身の手で作った家だった。
誰かに与えられた場所ではない。
追い出されることもない。
ここでは――誰もアルスを「無能」と呼ばない。
「……悪くないな」
小さな声で呟く。
竜骨谷。
死の谷。
そう呼ばれていた場所で。
アルスは少しずつ、自分の居場所を作り始めていた。
そんなある日のことだった。
「……ん?」
アルスが顔を上げる。
遠くから、何かが聞こえた。
――ザッ。
――ザッ。
複数の足音。
「……人?」
耳を澄ます。
風の音に混じって――
「……う……」
かすかな声。
そして。
「おかあさん……」
幼い子供の泣き声。
アルスは立ち上がった。
「……どうしたんだろう」
竜骨谷に、人が来る。
普通ならあり得ない。
ここは魔物が棲む死の谷だ。
人が好き好んで訪れる場所ではない。
それでも。
泣き声を聞いてしまった。
放っておくことはできなかった。
アルスは急いで谷の入口へ向かった。
そして――
「……!」
目の前の光景に、言葉を失った。
そこには、何人もの人間がいた。
男。
女。
老人。
そして――子供。
誰もがボロボロだった。
服は泥にまみれ、身体は痩せ細っている。
幼い子供を抱えた母親は、今にも倒れそうになっていた。
ひとりの男が、アルスに気づく。
「……人……?」
その声には、驚きよりも警戒が滲んでいた。
アルスはゆっくり近づいた。
「大丈夫ですか?」
「……食べ物……」
男の身体がぐらりと揺れる。
「食べ物を……」
そのまま地面へ倒れ込んだ。
「大丈夫です!」
アルスが駆け寄る。
男の身体は驚くほど軽かった。
「お腹が……空いているんですか?」
返事はない。
後ろにいる人々も、同じだった。
目が落ち窪んでいる。
足元がおぼつかない。
子供たちは泣く力すら残っていないのか、母親の服を握ったまま震えている。
「……どうして」
アルスは周囲を見た。
「どうして、こんなところに……」
ようやく、一人の女性が口を開いた。
「……逃げてきたんです」
「逃げて?」
「ヴァルハイト領から……」
その言葉に、アルスの胸がわずかに痛んだ。
「税が……重すぎて」
女性は俯いた。
「作物を作っても、ほとんど持っていかれる。働いても食べていけない……」
別の男が続ける。
「払えなかった家は、土地を取り上げられました」
「それでも逃げれば、追手が来る」
「だから……」
男は竜骨谷を振り返った。
「ここへ来るしかなかったんです」
アルスは黙った。
竜骨谷。
大人たちが恐れ。
騎士ですら近づきたがらない場所。
そんなところへ――
この人たちは逃げてきた。
つまり。
ここしか、逃げる場所がなかったのだ。
「……そうなんだ」
アルスは小さく呟いた。
そして。
顔を上げた。
「待っていてください」
「……え?」
「今、食べるものを持ってきます」
◇ ◇ ◇
アルスが戻ってきたとき。
両手には、大きな籠があった。
中には野菜。
保存していた干し肉。
そして、たっぷりの水。
「……食べてください」
最初。
流民たちは動かなかった。
目の前の食べ物が、信じられないのだ。
やがて。
ひとりの子供が、恐る恐る野菜に手を伸ばした。
ぱくり。
「…………」
目が大きくなる。
「……おいしい」
その一言が合図だった。
次々と人々が食べ始める。
「うまい……」
「水だ……水がこんなに……」
「……こんなもの、どこから……」
泣きながら食べる者もいた。
食べ物を口に運びながら、涙を流す。
子供たちは久しぶりの食事に夢中になっていた。
アルスは、その様子を黙って見つめていた。
そして思う。
――よかった。
それだけだった。
しばらくして。
最初に倒れた男が、アルスの前で頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「顔を上げてください」
「いえ……」
男は何度も頭を下げる。
「命を救っていただきました」
「そんな……僕は食べ物を渡しただけです」
「それでもです」
男はアルスを見る。
「ここで……何をされているのですか?」
「僕ですか?」
「はい」
アルスは少し考えた。
「……畑を作ったり、家を作ったり」
「おひとりで?」
「はい」
流民たちが顔を見合わせる。
やがて。
ひとりの女性が震える声で尋ねた。
「アルス様……と、お呼びしても?」
「様……?」
アルスは困ったような顔をした。
「僕はただの……」
その言葉が途中で止まる。
――無能な六男。
あの言葉が頭をよぎった。
けれど。
ここでは違う。
「……アルスでいいです」
そう言って笑った。
しかし。
男は首を横に振った。
「いいえ」
そして。
深々と頭を下げる。
「どうか、ここで働かせてください」
「え?」
「何でもします」
別の男も頭を下げた。
「畑仕事でも、家造りでも……」
「私たちもお願いします!」
女性たちも続く。
「もう追われるのは嫌なんです」
「子供たちを安心して育てられる場所が欲しい……」
「どうか……」
その声を聞きながら、アルスは考えた。
ひとりで作れることには限界がある。
畑を広げても。
家を作っても。
水を引いても。
自分ひとりでは、できることは限られている。
けれど――
この人たちと一緒なら。
「……分かりました」
アルスは頷いた。
「一緒に作りましょう」
「……え?」
「ここに、みんなが安心して暮らせる場所を」
アルスは竜骨谷を振り返った。
「この谷なら……きっとできます」
それからの日々は、忙しかった。
アルスは地脈操作を使い、岩盤を削った。
石を切り出し。
地面を整え。
地下水を引く。
そして、流民たちは自分たちの手で家を建てた。
アルスが地脈を操作して基礎を作り。
大人たちが石を積む。
女性たちは畑を耕し。
子供たちは小さな石を運んだ。
「アルス様! こっちは終わりました!」
「分かりました。次は水路を作ります!」
「はい!」
最初は数人だった。
それが十人になり。
二十人になり。
少しずつ、人の声が増えていった。
死の谷だった場所に。
笑い声が生まれた。
畑には緑が広がり。
家から煙が上がる。
夜になれば、小さな明かりが灯る。
誰かが食事を作り。
誰かが歌い。
子供たちが走り回る。
かつて。
誰も近づこうとしなかった場所。
魔物と毒に覆われた死の谷。
その一角に――
小さな集落が生まれた。
「名前……どうしましょう?」
ある日の夕暮れ。
住民のひとりが尋ねた。
アルスは少し考えた。
「名前……」
皆が見つめる。
アルスは谷の奥を振り返った。
そして。
「竜骨谷だから……」
少しだけ笑った。
「――竜骨村、でいいんじゃないかな」
「竜骨村……」
誰かが呟く。
「いいですね」
「俺も賛成です」
「私も」
次々と声が上がる。
アルスは頷いた。
こうして。
誰からも見捨てられた死の谷に――
「竜骨村」という名が与えられた。
まだ小さな村だった。
家も少ない。
畑も小さい。
住民も、ほんのわずか。
けれど。
そこには――
生きている人間の声があった。
そして誰も、まだ知らなかった。
この小さな村が。
やがて竜骨谷全域を覆い。
ヴァルハイト辺境伯領を揺るがし。
さらには――
世界そのものの運命を変えることになるとは。




