第2話:古の地脈と覚醒の瞬間
冷たい雨が降り続いていた。
アルスは、巨大な岩壁の前に立っていた。
目の前に広がるのは――竜骨谷。
空を覆い隠すほど高くそびえ立つ岩肌は、どこか不気味な紫色に染まっている。
谷の奥から流れ出してくる霧は濁っており、鼻を突く腐臭が混じっていた。
その向こうから、ときおり獣の遠吠えが聞こえる。
「…………」
アルスは、無意識に息を止めた。
怖い。
足が動かない。
ここが、父に命じられた場所。
そして――自分が死ぬかもしれない場所。
一歩、足を踏み出す。
靴底が地面に沈んだ。
ぐにゃり。
「……え?」
アルスは足元を見た。
土は湿っているはずなのに、妙に硬い。
泥のように粘りつく一方で、石のような硬さもある。
しゃがみ込み、指先で触れてみる。
そこには草一本、生えていなかった。
周囲を見渡しても同じだ。
木もない。
花もない。
雑草すらない。
生命というものが、この場所だけ綺麗に切り取られている。
「……ここで」
アルスは小さく呟いた。
「ここで……生きていくしかないんだ」
逃げろ。
レイモンドはそう言ってくれた。
途中で逃げてもいい。
別の領地へ行ってもいい。
別の国へ行ってもいい。
けれど――行く当てなどない。
十歳の自分に、ひとりで生きていける場所なんてない。
だから。
アルスは前を向いた。
手の中にあるのは、レイモンドから渡された錆びかけたナイフ。
頼りになるとは、とても思えない。
それでも、今のアルスにとっては唯一の武器だった。
「……行こう」
一歩。
また一歩。
アルスは谷の中へ進んでいった。
どれくらい歩いただろう。
雨音以外、何も聞こえない。
自分の足音だけが、ぬかるんだ地面に響いている。
「…………」
アルスは何度も後ろを振り返った。
何もいない。
それでも、嫌な感じが消えなかった。
まるで――
誰かに見られているような。
「……気のせい、だよね」
そう呟いた、その瞬間。
――グルルルル……。
背後から。
低い唸り声が響いた。
アルスの身体が凍りつく。
ゆっくりと振り返る。
岩陰。
そこに、何かがいる。
「……なに……?」
黒い影が動いた。
次の瞬間。
――ドンッ!
巨大な獣が岩陰から飛び出してきた。
「うわっ!」
アルスは尻もちをついた。
目の前に現れたのは、狼だった。
だが――普通の狼ではない。
体長は二メートルを超えている。
筋肉の盛り上がった巨体。
異様に長い牙。
そして。
赤く濁った二つの眼。
「……ヴァグ・ウルフ……?」
以前、聞いたことがある。
魔物。
しかも、狂暴化した個体。
まともな武器を持たない大人でも、ひとりでは相手にできないと言われる魔物だ。
ヴァグ・ウルフが、ゆっくりと口を開いた。
唾液が糸を引く。
鋭い牙が覗く。
「……っ」
アルスの手が震えた。
ナイフを握りしめる。
けれど。
こんなもので――どうしろというのか。
ヴァグ・ウルフが一歩踏み出した。
ズシン。
地面が震える。
もう一歩。
ズシン。
逃げなければ。
そう思った。
けれど足が動かない。
「……嫌だ」
喉から声が漏れた。
「死にたく……ない」
ヴァグ・ウルフが身体を低くする。
次の瞬間。
「――ッ!」
飛びかかってきた。
アルスは反射的に腕で頭を庇った。
その瞬間だった。
――ピィィィィン。
聞いたことのない音が、頭の中で鳴り響いた。
『――警告』
「……え?」
世界が――変わった。
色が消えた。
いや。
正確には違う。
今まで見えていなかったものが、見えるようになった。
地面。
岩。
霧。
魔物。
そのすべてが、まるで透き通ったように見えている。
「な……に、これ……」
アルスの目の前に、無数の光が走っていた。
地面の中を流れる細い光。
岩盤の奥を巡る巨大な流れ。
土の中に含まれる様々な物質。
そして――魔力。
まるで大地そのものが、一つの巨大な生き物であるかのようだった。
ヴァグ・ウルフの身体さえも、透けて見える。
筋肉。
骨格。
魔力の流れ。
足元の地面。
そのすべてが、頭の中に情報として流れ込んでくる。
『条件を確認』
無機質な声が響いた。
『既定条件の充足を確認』
『隠しスキル――』
『【万物解明・地脈操作】を覚醒します』
「――っ!」
頭の中に、膨大な情報が流れ込んできた。
「う……あ……!」
頭が痛い。
理解できないはずのものが、理解できる。
知らないはずの構造が、分かる。
土の中に何が含まれているのか。
どこが脆いのか。
どこへ力を加えれば崩れるのか。
まるで――
最初から知っていたかのように。
「……ここ」
アルスの視線が、ヴァグ・ウルフの足元へ向く。
そこだけ。
地面の構造が違っていた。
「……崩せる」
何故そう思ったのか、自分でも分からない。
ただ。
できる。
そう確信した。
アルスは地面へ手をついた。
「土よ――」
言葉が勝手に口から出た。
「――崩れろ!」
――ズズズズズッ!
地面が動いた。
「……え?」
ヴァグ・ウルフの足元が、一瞬で崩れ落ちる。
「ギャウッ!?」
巨狼が悲鳴を上げた。
土が流砂のように沈み込み、巨体が地中へ引きずり込まれていく。
「グルァァァッ!」
必死に爪を立てる。
だが。
遅い。
アルスには分かっていた。
どこを崩せばいいのか。
どこを固めればいいのか。
「……固まれ!」
――ドゴンッ!
沈み込んだ地面が、一気に圧縮された。
土が岩のように硬くなる。
ヴァグ・ウルフの身体が、地中へと完全に封じ込められた。
「…………」
静寂。
雨音だけが戻ってきた。
アルスは、その場に立ち尽くしていた。
「…………今の」
自分の手を見る。
震えている。
「僕が……やったの?」
信じられなかった。
魔法適性――G。
魔法能力、ほぼ皆無。
そう判定された。
だから自分は捨てられた。
なのに。
今、自分は――魔物を倒した。
しかも。
魔法を使った感覚すらない。
「土魔法……なの?」
アルスは恐る恐る地面に手を触れた。
その瞬間。
再び。
見えた。
地中を流れる光。
大地の奥深くを、ゆっくりと巡る巨大な力。
「……違う」
アルスは呟いた。
「土を動かしたんじゃない……」
地面そのものが。
自分の意思に応えていた。
「……地面の中が、分かる」
それが何を意味するのか。
アルスには、まだ分からなかった。
ただ。
ひとつだけ確かなことがあった。
――自分の力は、普通の土魔法ではない。
そのとき。
「…………?」
アルスは顔を上げた。
地面の奥から――
何かが聞こえた。
最初は、気のせいだと思った。
けれど。
違う。
確かに聞こえる。
――ドクン。
アルスの足元が、わずかに震えた。
「……え?」
――ドクン。
今度は、はっきりと分かった。
地中から響いている。
まるで。
巨大な何かが、脈打っているような――。
――ドクン。
――ドクン。
その鼓動は、地面を伝わってアルスの身体へ届いてくる。
アルスはゆっくりと膝をついた。
そして。
両手を地面につけた。
その瞬間――
視界の遥か彼方。
地中深く。
深く。
人の手が決して届かない場所に。
巨大な光の流れが見えた。
それは、一本の川のようだった。
いや。
川などという言葉では足りない。
大陸そのものを巡る、巨大な力の奔流。
アルスは息を呑んだ。
「……これ……」
胸の奥が震える。
怖い。
なのに。
目を離せない。
まるで。
ずっと昔から知っていたものを、ようやく見つけたような感覚だった。
――ドクン。
大地が、また脈打つ。
そしてその奥から。
何千年、何万年という時間を超えて眠り続けていた何かが――
アルスを呼んでいるような気がした。
「……ここに、何かいる」
雨が降り続いている。
魔物の死骸が転がっている。
死の谷と呼ばれた場所。
けれど。
アルスには、もう違って見えていた。
この谷は――
死んでいるのではない。
むしろ。
何かを抱えたまま、長い眠りについている。
そして今。
その眠りが――
ほんの少しだけ、揺らぎ始めていた。




