第1話:無能の烙印と寄子の爵位
第一話 最悪の適性
――ルヴィス王国暦四百二十一年。
「ヴァルハイト辺境伯家、六男――アルス・ヴァルハイト」
静まり返った儀式の間に、神官の声が響いた。
「十歳。適性鑑定の儀を執り行う」
大理石の床に敷かれた赤い絨毯。
その先に、青白い光を宿した巨大な水晶球が置かれている。
高い天井から吊るされた燭台の炎が揺れ、荘厳なパイプオルガンの音色が重々しく空間を満たしていた。
その中央に、ひとりの少年が立っている。
アルス・ヴァルハイト。
十歳になったばかりの少年だった。
細い肩。
まだ幼さの残る顔。
身にまとっているのは、仕立ての良い貴族服。
けれど、その服だけがアルスの身分を示していた。
周囲から向けられる視線は、冷たかった。
壇上の高座には、父であるヴァルハイト辺境伯。
その左右には、兄たちが並んでいる。
長男バルド。
次男ジュリアス。
四男ガルド。
五男エリック。
誰ひとり、アルスを見ようとはしていない。
いや――正確には違う。
彼らは見ている。
まるで、これから何かを値踏みするかのように。
ただひとり。
三男のレイモンドだけが、心配そうな目でアルスを見つめていた。
「アルス」
神官が淡々と告げる。
「水晶球に手を」
アルスは小さく息を吸った。
怖い。
けれど、ここで怯えているところを見せたくはなかった。
震えそうになる手を、ぎゅっと握る。
そして――水晶球へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間。
淡い光が、水晶球の中で弾けた。
赤。
青。
緑。
黄色。
いくつもの光が次々と生まれ、球体の中を駆け巡る。
「おお……」
誰かが小さく息を漏らした。
アルスも思わず目を見開いた。
もしかしたら――。
自分にも何か特別な力があるのかもしれない。
そんな期待が、ほんの一瞬だけ胸をよぎった。
だが。
光は次第に弱くなっていった。
そして最後に残ったのは――
濁った灰色。
神官が眉をひそめた。
水晶球の横に置かれた魔導陣へ視線を落とす。
数字を確認し、何度か目を細める。
やがて。
感情のない声が、儀式の間に響いた。
「属性――土」
そこで神官は一度言葉を切った。
「適性――G」
ざわり。
周囲の空気が揺れた。
神官は淡々と続ける。
「魔法能力、極めて低し。実用可能な魔法の発現は……困難でしょう」
その瞬間だった。
「――くはっ」
誰かが吹き出した。
「ははははは!」
笑い声が響く。
長男バルドだった。
「Gだと? 本当にGなのか?」
隣のジュリアスも堪えきれないといった様子で笑い始める。
「よりにもよって土属性でGとはな。魔法の才能がないどころか、最低の適性じゃないか」
「ヴァルハイトの血も、とうとうここまで落ちたか」
ガルドが吐き捨てる。
「恥さらしだな」
エリックも笑った。
アルスは黙っていた。
耳の奥が、じんじんする。
笑い声がやけに大きく聞こえた。
――恥さらし。
――最低。
――無能。
胸の奥に、ひとつひとつ突き刺さってくる。
アルスは俯いた。
そのとき。
「……無能か」
低い声が落ちた。
父だった。
ヴァルハイト辺境伯は、感情のない目で息子を見下ろしている。
「ヴァルハイト家は、武と魔をもって北東の地を守護する家だ」
淡々とした声だった。
「魔法適性Gの者に、何ができる?」
「父上!」
声を上げたのはレイモンドだった。
「お待ちください!」
レイモンドが一歩前へ出る。
「アルスはまだ十歳です! 確かに魔法適性は低いかもしれません。しかし――」
必死だった。
「剣術を学ばせることも、領地経営を学ばせることもできます。魔法だけが貴族の務めではありません!」
「黙れ、レイモンド」
ぴしゃり。
父の一言で、レイモンドの動きが止まった。
「……しかし、父上」
「これ以上、口を挟むな」
冷たい声だった。
「我が家には、無能を養う余裕などない」
アルスの胸が、きゅっと締めつけられた。
そして父は、アルスへ視線を向ける。
「アルス・ヴァルハイト」
「……はい」
声が震えそうになる。
それでもアルスは返事をした。
「本日をもって、お前をヴァルハイト家から外す」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
小さな声が漏れる。
父は表情を変えない。
「お前には、我が家の寄子――」
一度、言葉を切る。
「……いや。名ばかりの末端騎士に与えられている土地をひとつ与える」
そして。
「そこへ赴け」
アルスは顔を上げた。
父の視線は、北を向いているようだった。
「北の最果て――竜骨谷だ」
その名が出た瞬間。
儀式の間に、ざわめきが走った。
「竜骨谷……?」
アルスが呟く。
聞いたことがある。
子供の頃から、何度も聞かされてきた名前だった。
北の果てに広がる、死の谷。
強力な魔物が棲みつき。
毒の気が大地を蝕み。
草木すらまともに育たない。
かつて何人もの騎士が討伐に向かい――誰ひとり戻らなかった。
大人たちは、子供を叱るときにこう言った。
――悪いことをすると、竜骨谷に捨てられるぞ。
つまり。
「……父上」
レイモンドの声が震えた。
「それは……」
拳を握りしめる。
「それでは、アルスに死ねと言っているようなものです!」
「下がれ!」
父の怒声が響いた。
家臣たちが慌ててレイモンドを押さえる。
「離してください!」
「レイモンド様!」
その様子を見ながら、バルドたちは笑っていた。
アルスは、そんな兄たちを見た。
そして。
自分の父を見た。
誰も助けてくれない。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
「……僕が」
声が震えた。
「僕が、無能だから……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
目の奥が熱くなる。
泣きたかった。
怖かった。
逃げたかった。
けれど――。
ここで泣いたところで、何も変わらない。
アルスは小さな拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「……謹んで」
一度、息を吸う。
「言いつけに従います」
そして。
深々と頭を下げた。
「……そうか」
父の返事は、それだけだった。
「支度を済ませろ。直ちに出て行け」
――その瞬間。
アルス・ヴァルハイトの人生は、大きく変わった。
数刻後。
城の正門ではなく、勝手口。
そこからアルスは外へ出された。
「……これだけ?」
自分の足元を見る。
渡された荷物は、小さな革袋ひとつ。
中に入っていたのは、数日分の干し肉。
そして――錆びかけたナイフが一本。
十歳の少年が死の谷へ向かうには、あまりにも少なすぎる荷物だった。
肩には、薄い布切れのようなマント。
冷たい風が、その隙間から容赦なく入り込んでくる。
アルスは振り返った。
高くそびえるヴァルハイト家の城。
今まで自分が暮らしていた場所。
十年間、当たり前のように帰ってきた場所。
それが今は――遠い。
「アルス!」
突然、背後から声がした。
振り返る。
「レイモンド兄さん……?」
息を切らしたレイモンドが、こちらへ駆けてくる。
「……すまない」
レイモンドはアルスの前で立ち止まると、両肩を強く掴んだ。
「僕にもっと力があれば……お前を護ってやれたのに」
その目から涙が落ちる。
アルスは何も言えなかった。
レイモンドは周囲を確認すると、懐から小さな袋を取り出した。
「これを持っていけ」
アルスの手に握らせる。
「僕の小遣いだ。多くはないけど……ないよりはいい」
そして、もう一つ。
分厚い手帳。
「これは?」
「領地の地理や街道が書いてある。竜骨谷へ向かう途中で、役に立つかもしれない」
レイモンドは声を潜めた。
「……アルス。竜骨谷へ行ってはいけない」
「え?」
「途中で逃げるんだ」
レイモンドの顔は真剣だった。
「別の領地へ行け。別の国でもいい。とにかく生き延びろ」
アルスは手の中の手帳を見つめた。
そして、兄の顔を見る。
「兄さん……」
その瞬間。
我慢していたものが、とうとう溢れた。
涙が頬を伝う。
「ありがとう……」
自分を人間として扱ってくれた。
自分のために泣いてくれた。
それだけで――アルスには十分だった。
「生きろ」
レイモンドが言う。
「アルス。絶対に死ぬな」
遠くから怒鳴り声が聞こえた。
「レイモンド様! もうお戻りください!」
レイモンドは振り返る。
そして最後に、もう一度だけアルスを見た。
「……生きていれば、きっと何とかなる」
それだけを残して、城へ戻っていった。
アルスは、その背中を見送った。
ひとりになった。
冷たい風が吹く。
空を見上げる。
どんよりとした雲の隙間から、一滴の雨が落ちてきた。
ぽつり。
頬を濡らす。
アルスは小さな革袋を握りしめた。
そして――北を向いた。
その先にあるのは、死の谷。
竜骨谷。
最悪適性――土魔法G。
貴族としての身分も。
家族も。
居場所も。
何もかも失った。
十歳の少年に残されたのは、わずかな金と、錆びたナイフ。
そして――一冊の手帳だけ。
「……行こう」
誰もいない道に、アルスの小さな声が落ちた。
冷たい雨が降り始める。
少年はひとり、歩き出した。
北へ。
死の谷――竜骨谷へ。
それが。
後に世界の運命を変えることになる少年の――
最初の一歩だった。




