第16話:黒い濁流と琥珀の森の悲鳴
最北の鉱山で悪魔の密約が交わされてから一週間後。秋の澄み渡る空が広がる竜骨伯爵領に、静かだが決定的な異変の手が伸ばされていた。
「アルス様! 大変です! 北方の『琥珀の森』および周辺の果樹園にて、大規模な異常が発生いたしました!」
執務室の扉が激しく開かれ、息を切らせたクラウスが飛び込んできた。その手には、現場から緊急搬送された一本の果樹の枝が握られていた。
「これは……!?」
アルスは息を呑んだ。クラウスの手にある枝は、昨日まで黄金色の甘い果実を実らせていたはずの『魔導リンゴ』の木だった。しかし今、その皮はドス黒く変色して壊死し、内部からはドロドロとした泥水のような不快な臭いを放つ腐濁液が滴り落ちていた。
「ただの病気ではありません。現場では広範囲にわたって土壌が腐敗し、植物が一夜にして枯れ果てております。急ぎ現場へ!」
アルス、ガルドック、レリア、そしてクラウスの四人は、即座に馬を走らせて北方の『琥珀の森』へと急行した。
現場に到着した一行を待ち受けていたのは、絶望的な光景だった。
かつて深い緑と澄んだ空気、そして豊かな精霊たちの歌声に満ちていた美麗な森林は姿を消し、樹木は黒く枯れ果てて不気味な鉤爪のように天を仰いでいた。足元の土壌は湿った黒泥へと変わり、踏みしめるたびに「グチャリ」と泡立つような嫌な音が響く。
「アルス……! 森の精霊たちが……精霊たちが悲鳴を上げているわ……! 苦しい、助けてって……泣いているの……!」
レリアが激しい頭痛に耐えるように胸を固く押さえ、膝をついた。彼女の尖った耳が激しく震え、目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。森と同調するエルフである彼女にとって、この土地の苦痛は自らの肉体を切り刻まれるに等しい拷問だった。
「レリア、しっかりして! ガルドックさん、レリアをお願い!」
「おうよ! 任せろアルス坊主! 一体全体、誰がこんな胸糞悪い真似をしやがったんだ……!?」
ガルドックが苛立ちを爆発させ、巨大な戦斧の柄を地面に叩きつけた。
アルスは前へ歩み出ると、黒く濁った地面に跪き、震える両手をそっと土へかざした。
「【万物解明】……大地の記憶を、僕に見せて……!」
視界が青い透過世界へと切り替わる。しかし、いつもなら美しく青く輝く地脈のグラデーションが、そこには存在しなかった。地下数千メートルを網の目のように走る地脈の太い幹線に、粘着質のドス黒い魔力が混ざり込み、まるで毒素が血管を駆け巡るように、凄まじい勢いで大地全体の生命力を削ぎ落としていたのだ。
(これは……病気や自然災害なんかじゃない! 誰かが意図的に、地脈の源流へ凄まじい『毒』を流し込んだんだ!)
アルスは【万物解明】の解析深度を極限まで引き上げ、毒素が注入された「源流の座標」を特定した。
「汚染の源は、この森の奥にある『北の結節点』の洞窟だ! そこに、誰かがいる……!」
「アルス様、お気をつけて! 敵の狙いは、あなたを誘い出すことかもしれません!」クラウスが警告を発する。
「行こう! これ以上、僕たちの土地を傷つけさせはしない!」
アルスたちは黒く枯れ果てた樹木の間を縫うように疾走し、地下深くへと続く古びた岩山洞窟の入口へと辿り着いた。
洞窟の内部は、地上以上に不快な紫色の霧が立ち込めていた。湿った岩壁を伝って奥へと進むと、開けた広間の中央にある青く輝く巨大な『地脈結晶』の前に、黒い覆面と漆黒の甲冑を纏った十数名の集団が立ち尽くしていた。
その足元には、空になった黒い小瓶が幾つも転がっている。
「そこまでだ!!」
アルスの叫びが洞窟内に木霊した。
漆黒の甲冑を身に纏った集団が一斉に振り返る。その中央に立っていた一際背の高い男——狼の鉄仮面をつけた黒狼隊の隊長が、不気味な低い笑い声を漏らした。
「ククク……首尾よく現れたな、アルス・ヴァルハイト。最北の鉱山にいたバルドら哀れな罪人どもを上手く利用して汚染薬を持ち込ませた甲斐があったというものだ」
「バルド兄さんたちを……利用したのだと……!?」アルスの瞳に激しい怒りの火が宿る。
「フハハ! 奴らなど元より我が帝国の捨て駒に過ぎん! 貴様の持つその不気味な【地脈操作】の力、そしてこの膨大な地脈資源……我がガルディア帝国がすべて奪い取ってくれるわ! 枯れ果てよ、竜骨領!」
隊長が手にした最後の小瓶を地脈結晶へ叩き割ると、ドズォォォン……!! と激しい衝撃音とともに、爆発的な不浄の魔力が噴出し、洞窟全体を狂気の暗黒が包み込んだ。




