第15話:最北の暗雲と黒狼の囁き
王都地下での歴史的発見から数日。王室直属の遺跡調査官であったクラウスを新たな参謀として迎え入れたアルスたちは、新ヴァルハイト辺境伯となった三男レイモンドの護衛を受けながら、住み慣れた竜骨伯爵領へと帰還を果たしていた。
領主館の執務室。巨大な羊皮紙の地図と、クラウスが王都地下から持ち出した古代遺構の構造図が机いっぱいに広げられている。
「——アルス様、現在この竜骨谷を中心に構築している地脈障壁ですが、ガルドック殿の精錬した『地脈鋼』を基点とすることで、従来の三倍以上の強度を確保できます。ですが問題は北方の国境線です」
クラウスが右目の単眼鏡の位置を指先で微調整しながら、羊皮紙の北端を指し示した。
「北方のガルディア帝国領内にある『ネブラ・コア』が活性化した影響で、国境付近の地脈の流れが急速に歪み始めています。帝国軍がこの異常に気づかないはずがありません。早急に、領地全体の地脈データベースを再構築し、全域の監視網を完成させる必要があります」
「頼むぞ、クラウス」レイモンドが腕を組み、力強く頷いた。「我がヴァルハイト辺境伯軍二万も、アルスの指示があればいつでも動かせるよう再編を進めている。本家の過ちは二度と繰り返させん」
「ありがとう、レイモンド兄さん、クラウスさん。僕も【地脈操作】で領地の境界線を完璧に固めるよ」
アルスは頼もしい仲間の存在に胸を撫で下ろした。しかし、彼らが領地の防衛強化に追われていたその頃——王都から遥か北方に位置する、一年中凍てつく不快な吹雪が吹き荒れる「最北の黒鉄鉱山」。
そこは、王都の審問において国家反逆罪および領民殺傷の罪で爵位を剥奪され、生涯の強制労働に処された者たちが送られる絶望の極地であった。
「グッ……クソッ……! なんで俺が……このヴァルハイト家の長男であるバルド様が、こんな泥と鉄の臭いにまみれて石を運ばなきゃならねえんだ……!」
粗末なボロ布を纏い、太い鉄鎖で重い鉄球を足首に繋がれたバルドが、血の滲む手でツルハシを叩きつけながら唾を吐き捨てた。かつて羨望を集めた豪奢な貴族の面影は微塵もなく、頬は痩け落ち、目は暗い憎悪の炎で血走っている。
「ひぃ……ひぃ……兄上、もうやめましょう……。ツルハシを振るう手が千切れそうだ……。アルスのあの『流砂の大連動』を見たでしょう!? あの化け物には勝てっこないんだ……!」
隣でボロボロの衣服に身を包み、腰を抜かしかけながら石を運ぶ次男のジュリアスが、ガタガタと歯の根を鳴らして怯えていた。
「黙れ無能が!!」バルドが狂気じみた怒声を浴びせ、ジュリアスの胸ぐらを掴み上げた。「あの出来損ないの六男が……! 親の寄子として辺境に追い出してやったあのアルスが、竜骨伯爵だと!? レイモンドが辺境伯だと!? ふざけるな! 俺は絶対に認めん……! あいつらを八つ裂きにして、あの富と領地を俺の手に取り戻すまでは、死んでも死にきれるかぁっ!」
「——フフフ、実に素晴らしい執念だ。ヴァルハイト家の長男殿」
吹雪の音に紛れて、不気味な低い声が飯場の暗がりから響いた。
「誰だ! 看守か!?」
バルドが身構えると、影の中から漆黒の不気味な甲冑を身に纏い、顔を不気味な狼の鉄仮面で覆った男が滑り込んできた。胸元には、ガルディア帝国軍の最暗部『黒狼隊』の血塗られた紋様が刻まれている。
「声が大きいですよ、バルド殿。……私はガルディア帝国軍より遣わされた者。我が主は、あなた方のその深き怨嗟と復讐心を、大いに評価しておられます」
黒狼隊の男は懐から、ドス黒く濁った不気味な液体が満たされた小さな水晶の小瓶を取り出した。小瓶からは、正気を削り取るような禍々しい魔力の脈動が漏れ出している。
「な、なんだその不気味な薬は……!?」ジュリアスが悲鳴を上げて後ずさる。
「これは『地脈汚染薬』。帝国の錬金術の結晶にして、大地の脈動を完全に腐敗させる呪いの毒。これをアルス領の最も深い『地脈の結節点』へ注ぎ込めば、どれほど強固な結界も内側から崩壊し、アルスの持つ【地脈操作】の能力すらも狂わせ、封じ込めることが可能です」
使者は毒薬の小瓶をバルドの前に差し出した。その鉄仮面の奥で、細い目が悪魔のように妖しく光る。
「我が帝国軍は、アルスの防壁が崩壊した瞬間に三万の大軍をもって侵攻を開始します。アルスとレイモンドを処刑した暁には……あなたを『ヴァルハイト辺境伯』として、我が帝国の庇護のもとで再び君臨させて差し上げましょう」
「俺を……新しき辺境伯に……!?」
バルドの瞳に、爛々とした醜い欲望と邪悪な歓喜が燃え上がった。自分たちが帝国の捨て駒として利用されていることなど、狂気に囚われた彼の頭には露ほども浮かばなかった。
「くは……くはははは! いいぞ、やってやる! アルス、レイモンド……貴様らの誇るあの豊かな領地を、地獄の底へと叩き落としてやる!!」
暗闇の中、絶望の鉱山で最悪の悪魔の契約が交わされたのであった。




