第7話 測れない剣
その日の夕食は、久しぶりに家族全員が揃っていた。
父が不在なのは、小さい頃から変わらない。
だからこそ、こうして全員が揃う時間は、それだけで少し特別だった。
長い食卓に並ぶのは、いつもと変わらぬ料理。
焼いた肉、温野菜、白いパンに、香草の香るスープ。
派手ではないが、よく知った味だ。
「カイル、学校はどうだ?」
父――ラインハルトが、ワインを口に運びながら尋ねる。
今は一人の父として、声色が柔らかい。
「問題ありません」
カイルは簡潔に答えた。
嘘ではない。
少なくとも、この場で話せる問題はない。
「相変わらず真面目だな」
長男のアレンが笑い、骨付き肉をかじる。
「お前、学校で堅物って言われてないか?」
「僕は、兄上と違って、落ち着いてますから」
「何だと!?」
軽口が飛び、食卓は笑いに包まれる。
母エレナはその様子を満足そうに眺め、息子たちに声をかけた。
「今日は風もいいわ。食後はまた、庭に出るの?」
兄たちの目が、同時に輝いた。
「お、いいな」
「今日もやるか?」
言わずとも分かる。
木剣を使った手合わせの話だ。
グランツ家には、警備の者たちが訓練する場所がある。
屋敷が抱える私兵たちのためのものだ。
幼い頃は、カイルや兄たちもそこで剣を学んだ。
「……ほどほどにしてくださいよ」
カイルは肩をすくめた。
兄たちとの手合わせは、ほぼ毎週の恒例行事だった。
夜の庭にはいくつもの松明が灯され、その炎は風にあおられるたびに柔らかく揺れる。
芝の上に長く伸びた影までも、ゆらゆらと不規則に歪めていた。
そんな落ち着かない明かりの中にあっても、木剣を静かに構えたカイルの姿だけは妙に整いすぎていて、年相応の少年らしさよりも、張りつめた線の細さと、どこか熱を抑え込んだような静けさのほうが、かえって強く目についた。
その視線は、目の前に立つ兄をまっすぐ捉えているようでいて、実際に見ているのは剣そのものではない。
その剣がどんな理屈で振るわれ、どんな思想の上に組み上がっているのかという、もっと奥にある“在り方”へと意識が向いていた。
その場にはラインハルトも立ち合い、これから始まる息子たちの手合わせを静かに見守っていた。
アレンもレオンも、同じ騎士団で日々剣を合わせている。
だからこそこの場では、自然と組み合わせは決まる。
可愛い弟の成長を見たいという思いもあり、相手は自然と兄たちのどちらかになる。
「じゃあ、俺からいくぞ」
荒く木剣を一振りし、アレンが正面から踏み込んだ。
重く、迷いがなく、まっすぐで、正面から押し切ることを疑わないその一撃は、いかにもアレンらしい剣だった。
風を裂いて迫ってくるその軌道を見た瞬間、カイルの内心には、ごく薄く、けれど確かに皮肉の混じった笑みが浮かぶ。
(……お手本通りで、読みやすいな)
カイルは木剣を構え、その一撃を避けも流しもせず、あえて正面から受ける。
木と木がぶつかる乾いた音が夜気に響き、力と力が噛み合ったまま押し合いになるその感触。
体格差を生かしたアレンの得意な形そのものだ。
普通ならそこから崩される側は受け流しや間合いの切り直しを選ぶ。
なのに、カイルはまずその流れを壊さない。
まるで相手の望む舞台を整えてやるかのように、教本通りの端正な受けで応じてみせる。
(……ほら、こういう形の方がやりやすいだろ)
そう心の中でぼんやりと思った次の瞬間、ほんのわずかに返った手首から力が逃げ、押し合いの均衡が一瞬だけ崩れる。
すると、アレンの上体がわずかに浮き、その足元に小さな綻びが生まれた。
「……っ」
それでもアレンは、すぐに踏み直し、崩れかけた体勢を立て直す。
だが、その足の運びを見たカイルは、そこで初めてほんの少しだけ目を細めた。
先週まで何度も何度もしつこいくらいに突いた箇所を、今度はきちんと潰してきている。
受けた後に体が流れないよう、次の一手を受けられる位置へしっかり修正しているのだと分かったからだ。
(直してきたか)
その事実に、ほんの少しだけ心が動く。
嫌いではない。むしろ、こうして変えてくるところは好ましい。
前回ここが甘かった、だから今週はそこを埋めてきた――そういう積み重ねを、剣のぶつかり合いの中で拾い上げるのは、言葉で褒めるよりもよほど面白い。
(いいな、それ)
ただ嫌なところを突くだけなら、誰にでも出来る。
だがカイルの剣は、そこへ至るまでの動きまで妙に整いすぎていて、まるで手本をそのままなぞって見せているように、端麗で、正確で、少しも乱れない。
その動きはあまりにも整っていて、無駄も崩れもなく、式典の場で振るわれる儀礼剣にすら見えるほどだった。
――だからこそ、自分を自分で笑ってしまう。
分かっている。
今やっているのは、目の前の剣に合わせて、同じ“型の中”でなぞっているだけだ。
綺麗に見せることはいくらでも出来る。
相手がその形を望むなら、なおさらだ。
型を使って剣を振る騎士には、同じように型に嵌めた方がやりやすいのだ。
流れが揃えば、間も呼吸も自然と噛み合う。
無理に崩すより、そのまま乗せた方が早い。
あとは――どこを崩すか。
あるいは、どこに足すか。
そのわずかな差で、結果は変わる。
けれど、こんなものは実戦では真っ先に壊れる。
魔物相手ならなおさらだ。
型をなぞること自体は間違いじゃない。だが、それだけで終わるなら――そこが限界だと、カイルは内心で冷ややかに思う。
少し離れた場所で、それを見ていたラインハルトは、大きくため息を吐く。
久しぶりに見たカイルの剣は、さらに滑らかになっていた。
ラインハルトにも、それは否定できない。
年齢など関係なく、三兄弟の中でも群を抜いている。
足運びも、受けも、返しも、どれも非の打ち所がないほど整っていて、教本に書かれた理想形をここまで淀みなくなぞれる者が、果たしてどれほどいるだろうと思うほどだった。
だが、手合わせというものは本来もっと荒れるものだ。
呼吸が乱れ、力みが入り、焦りが生まれ、どこかで必ず人間の癖が顔を出す。
完璧なまま終わるほうが、むしろ不自然だ。
なのに、あの子は崩れない。
いや――
(崩していない、のか)
その認識が胸に落ちた瞬間、ラインハルトの眉がわずかに寄る。
カイルは綺麗なまま戦っているのではない。
綺麗でい続けることを、意図して選んでいる。
相手の癖だけを拾い上げ、そこを何度もなぞるように突きながら、自分は最後まで乱れないようにしているのだ。
本来ならそれは称賛されるべき技量だ。
だが――
(……あの顔だ)
わずかに緩んだ口元が、どうにも気に食わない。
余裕があるというより、面白がっている。
もっとも、それは目の前の兄を軽んじているというよりも、剣そのものではなく、騎士という存在の在り方――型に収まり、流れをなぞることを正しさとする、その戦い方そのものを小さく鼻で笑っているように感じられた。
(……あの子は、昔からそうだ)
ふと、幼い頃の記憶がよぎる。
剣の才能はあった。
反応は早く、刃の角度も鋭い。
だがそれ以上に、あの子は“見る目”が良すぎた。
人の動きをじっと観察し、どこに力が乗り、どこで抜けるのかを、言葉にされる前に見抜いてしまう。
まるで品定めでもするかのように、無駄を削ぎ落とし、本質だけを拾い上げるような視線だった。
そしてそれを、そのままなぞるように真似る。
だからこそ、型を教えればあっさりと出来ると思っていた。
――だが、それは間違いだった。
目の前の動きをなぞること自体は出来ていた。
だが、決められた形に収めようとすると、どこかで微妙にズレる。
独特の間合いを持ち、剣筋もやや変わっていた。
それでは駄目だと、何度も騎士の型を叩き込んだ。
だが、あの子の剣にはどこか“引っかかり”が残り続けた。
まるで、形に収まることそのものを、どこかで拒んでいるかのように。
ようやく身についたのか、それとも観念したのか――教えた通りに振るようにはなった。
だがそれでも、どこか違う。
ただ従っているふりをしながら、その内側では別の何かを見ているような顔で。
(……騎士様は、これで満足か?)
そう言われている気がした。
口に出したわけではない。
だが、その剣が、その目が、そう語っているように見えたのだ。
それからというもの、カイルは教えられた型を崩さず、むしろ必要以上に綺麗に使うようになった。
手合わせでも、その形をなぞることをやめず、まるで見せつけるかのように整った剣を振るう。
正しく、端正で、非の打ち所がない。
――だからこそ、どこか引っかかる。
(……性格が悪いな)
ラインハルトは小さく息を吐く。
騎士としてではなく、父としての感想だった。
真っ直ぐに育ってくれれば、それに越したことはなかったのにと思う。
だがその性格の悪さが、ただのひねくれでは済まないところまで育っていることもまた、こうして見せつけられてしまう。
そして、次の瞬間だった。
カイルが、ほんのわずかに足を止めた。
踏み込めば取れる間合いだった。
アレンの呼吸が乱れ、重心が寄り、今なら確実に取れる。
ラインハルトにもそれが分かった。
なのに、カイルは動かない。
いや――
(……待っているのか?)
その直後、アレンの木剣が弾く。
カイルの木剣が宙を舞い、地に落ち、乾いた音を立てる。
「……参りました」
見事な敗北だった。
流れも、形も、終わり方までもがあまりに自然で、誰が見ても違和感はない。
兄が押し切り、弟が一本取られた――ただそれだけに見える。
だが。
(……今のも)
ラインハルトの目が、わずかに細くなる。
踏み込めたはずだ。取れたはずだ。
それでも動かなかった。いや、動かないことを選んだのだ。
(……選んだな)
勝たないことを。
この場を壊さないことを。
兄の一撃で終わる、その形を。
(……そこまで含めて、か)
背筋の奥を、ひやりとした感覚が撫でていく。
あの子は、どこまで見ている。
どこまで分かっていて、どこまで――抑えている。
その答えは、この後のレオンとの手合わせでも、さらに濃く滲み出てくることになる。
次男のレオンの剣は、アレンとはまるで違っていた。
踏み込まない。崩れない。
相手の間合いを測り続け、無理をしないことを強さだと信じている慎重な剣だ。
だからこそ、そんな相手にカイルが選ぶのは、正反対の攻めになる。
間合いを、固定させない。
半歩、入る。だが、打たずにすぐに引く。
そしてまた入る。今度は振り、だが、途中で止める。
そのたびに、レオンの足が止まり、呼吸がわずかに乱れ、踏み込むべきか待つべきか、その判断だけがじわじわと遅れていく。
(……どうする?)
カイルは何も言わない。
ただ位置だけを変える。
ほんの僅かに。それだけで距離が変わり、間がズレる。
(測れないだろ、これ)
慎重なのは悪いことではない。
だが、考えすぎる者は止まる。
そして複数がいる戦場で、止まった者はただの的だと、カイルは内心で冷たく思う。
(そんなに考えてると――やられるぞ)
その言葉を胸の内に押し込めたまま、また同じように動く。
入る。引く。揺らす。迷わせる。
その繰り返しの中で、レオンの剣は少しずつ遅れていく。
「……っ」
ついに痺れを切らしたレオンが踏み込んだ。
その瞬間を、カイルは静かに迎える。
ひらりと体を返し、流れるように位置を変えれば、気づけばもう背後を取れる場所にいた。
(取れる)
一撃で終わる。
そういう位置。
だが――
カイルはそこで止める。
振る。浅く。あえて届ききらない位置で。
「……!」
レオンの木剣が弾き、カランと乾いた音が響く。
カイルの木剣が地面に転がる。
「……参りました」
静かに膝をつくその姿には、やはり何の違和感もない。
流れとしては完璧な敗北だった。
だが、ラインハルトの胸の中には、またあの苛立ちが滲む。
(……今のは)
取れた。確実に。それを、あえて捨てた。
(……またか)
小さく漏れた息には、今度はわずかな苛立ちがはっきり混じっていた。
綺麗に負ける。場を崩さない。兄に花を持たせる。
それは分かる。
家族だからという理屈も理解できる。
だが、勝てるのに勝たない、出せるのに出さない、その在り方がどうにも癇に障る。
(……気に入らん)
どう見ても、これが全力とも思えない。
ただ関係を壊したくないのか、それとも別に――何かを隠しているような気配が、どうしても拭えない。
ラインハルトはゆっくりと息を吐き、そして静かに前へ出た。
「……私もいいか」
その声は低く穏やかだったが、その一言が落ちた瞬間、庭の空気は確かに変わった。
カイルの口元が自然と緩む。
それは笑みというにはあまりにも小さく、だが確かに、隠しきれない何かが滲んでいた。
(……来たな)
騎士の頂点が。
積み上げられた技と経験、そのすべてを背負った存在。
試されるのではない。
――試せる。
その事実に、胸の奥が静かに熱を帯びていく。
カイルは、その感情を表に出すことなく、ただ木剣を握り直した。




