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第6話 別の扉

カイルたちを乗せた馬車が門をくぐると、ほどなくしてグランツ家の屋敷が姿を現した。


高位貴族の名に恥じぬ広さを持つ敷地には、手入れの行き届いた庭園が広がり、夕暮れの光を受けた噴水が静かに水音を響かせている。


整えられた芝、白い石畳、そのどれもが、グランツ家の歴史と財力を感じさせる。


しかし、この屋敷を本当にこの家らしくしているものは、その奥にあった。


屋敷の背に寄り添うように、広大な森が広がっている。


王都の外縁に位置するこの地は、貴族の屋敷としては珍しく自然と隣り合わせだが、それは単なる景観ではない。


この森にも魔物は出る。

グランツ家に生まれた者なら、幼い頃から当然のように教え込まれる事実であり、川と高い城壁で屋敷を囲う造りも、見栄ではなく必要に迫られたものだった。


カイルは、その森を見て育った。


屋敷のすぐ隣にあるそこは、最初から特別な場所だった。


兄たちは護衛を伴って浅い場所で狩猟を学んでいたが、幼いカイルにはまだ許しが出なかった。


なら、自然観察だと嘘をついて許可を取り、中へ入っていった。


やがて森へ続く跳ね橋の下ろし方を覚えると、ルークを連れてこっそりと、自分たちだけで入り込むようになった。


夢の中で見たあの光景を、確かめるために。


森があり、魔物がいて、手を伸ばせば届く距離にある。


この場所は、夢を現実に重ねるにはあまりにも都合がよかったのだ。


「……着いたっすね」


ルークが小さく息を吐く。


馬車が止まると同時に、屋敷の扉がすぐさま開いた。


本来なら中で迎えるはずの出迎えを、待ちきれなかったのだろう。


「おかえりなさい、カイル」


迎えに出たのは、母――エレナ・フォン・グランツだった。


艶のある黒髪と、変わらぬ穏やかな微笑み。

名家のご令嬢として育ち、その気品は今も微塵も揺らいでいない。

美しい、という言葉だけでは足りない、どこか凛とした佇まいがそこにあった。


「……ただいま戻りました、母上」


抱き寄せられ、軽く頭を撫でられる。


変わらない温もりに、カイルは一瞬だけ目を伏せた。


そこへ背後から、重なる声が混じる。


「おう、怪我はないな」

「おかえり、カイル」


長男のアレンと次男のレオンだった。


すでに王国騎士団に名を連ねる、正真正銘の騎士だ。


二人は父親似で、揃ってブラウンの髪に、服の上からでも分かるほどのがっしりとした体格をしている。


アレンはカイルより七つ年上で、父のような鋭い目つきをしており、一見すると近寄りがたい雰囲気を持っている。性格もそれに違わず荒っぽいが、面倒見のいい、いわゆるガキ大将タイプだ。


対照的にレオンは五つ上で、ルークと同い年だ。母のように穏やかな目をしており、性格も優しい。昔からルークとも仲がよく、カイルのイタズラや、やらかしについてルークが愚痴をこぼす相手がレオンであることを、カイルは密かに知っている。


二人は、週末になるとこうして当たり前のように早番へ回り、この弟を迎えるのが半ば習慣になっている。


そんな兄たちに挟まれれば、ほどよく筋肉のつくカイルでも、どこか線の細い印象が際立つ。


「相変わらず細ぇな」

「ちゃんと食べてるのか?」


軽口のような言葉だが、その目には弟を気にかける色がある。


頭をぐしゃりと撫でられ、カイルは顔をしかめる。


やめて下さいよ!と返すカイルに、兄たちは笑い、母もまた困ったように笑った。


そんな当たり前のやり取りが、この家では今もちゃんと残っている。


とはいえ、今日はそれどころではない。


商売を隠すためにも、知恵を借りに行く必要がある。


「……すみません。夕食までには戻ります。少し用事があって、街に出てもいいですか?」


視線が集まる。


「用事?」

「学校関係か?」


「ええ。必要なものがあって」


あまりにも自然な返答だった。母は疑わず、微笑む。


「気をつけて行ってらっしゃい」


その優しい声に見送られながら、カイルは一礼し、すぐに部屋へ戻って街用の服に着替える。


嘘をつくことへの罪悪感はあるものの、必要なことだから仕方ない。


ルークと共に再び馬車へ乗り込むと、今度は王都の中心へと向かった。


日の沈む街は、まだ活気を残していた。


人の流れ、荷馬車の音、呼び込みの声。


そのすべてを横目に流しながらも、カイルの意識は別の場所に向いている。


今はまだ“商売しているらしい”で済んでいる。


だとしても、そこから掘られれば、ブランド、資金、流通、魔物素材、狩りの手法、そのどれか一つでも辿られた時点で面倒は一気に膨らむ。


やがて大通りの先に、巨大な建物が見えてきた。


ヴァルディア商会。


石造りの外壁は王都のどの商会よりも規模が大きく、出入りする人の数も、その質も違う。


商人、職人、貴族の使いまでが行き交い、そのすべてがここを中心に動いているかのようだった。


ただの商会ではない。


国の流通、その“中枢”とも呼べる場所だ。


「行くぞ」


短く告げ、扉をくぐる。


「――坊ちゃんだ」

「カイル様が来たぞ」


小さなざわめきが走り、自然と道が開いた。


ここでは、カイルの正体を知っていても外に漏らさない。


それが、この商会の絶対のルールだ。


奥の扉が開く。


「おお、来たか。発明家兄弟」


ヴァルディア商会、会頭――エルマー・ヴァルディア。


カイルの父と同年代であり、整えられた髭と落ち着いた佇まいが、街にいる商人たちとは一線を画していた。

その振る舞いには自然と品が滲み、上流階級の客を相手にしていることが一目で分かる。


人脈は他国にまで広がっており、王国の内外に名を知られる、大物だった。


「……だから兄弟は設定だって、言ってんだろ」


カイルはどかりとソファへ腰を下ろす。


「いいじゃないか。私には、お前達が使うカイリスとルーカスという偽名の方が馴染み深い」


エルマーはそう言って笑うが、その視線は鋭い。


「で? 今日は何を持ってきた?」


「……持ってきてねぇ。むしろ、厄介な話だ」


一瞬の間を置いて、エルマーはすぐに察した。


「学校か」


「……ああ。噂になってる。俺が“商売してる”ってな」


次の瞬間、エルマーは肩を揺らして笑った。


「はっはっは! 今まで隠せてた方が奇跡だ」


「笑い事じゃねぇよ!」


「分かってる。それで? どこまで来てる?」


「まだ噂だ。だが時間の問題だな」


エルマーは、あの魔物避けの匂い袋を国へ献上した時のことを思い出していた。


あの時も、カイルとルークの素性を隠し、成果だけを表へ出すために余計な手間がかかった。


今回もまた同じだ。


トントン、と一定のリズムで肘掛けを叩きながら、その頭の中では思考が回っている。


「……騎士はもう諦めろ。官僚に回れ。私が口を利く。席くらいは用意できる」


しかし、カイルは即座に返した。


「それじゃあ、剣は持てねぇだろ」


あまりに迷いがなく、エルマーは小さく笑う。


「やはりな」


この少年の答えなど、分かっている。

その先に何を描いているかも。


「ならどうする?」


問いは、静かに落ちた。


カイルはすぐには答えなかったが、それは迷っているからではなかった。


むしろ逆だ。


こういう状況になった時の答えは――とっくに用意してある。


ただ、それを口にするタイミングを測るように、わずかに息を吐いただけだった。


やがて視線を上げると、その目には、最初から揺らぎなどなかった。


「騎士になれないなら――他国に行く」


静かな声だった。


「家の名を汚すわけにはいかねぇからな。全部バレる前に消えた方がマシだ」


貴族は、一度でもやらかせば終わりだ。噂は勝手に膨らんで広がる。


それを理解したうえで、迷いなく切り捨てるその判断に、エルマーはわずかに目を細めた。


「それは困るな。お前は、金の卵を産む鶏だ」


その言葉は軽く放たれたようでいて、実際にはこれまで積み上げてきた価値のすべてを見抜いたうえでの断定だった。


カイルの持つ技術、狩りの方法、そして“それを商品に変える力”――そのどれもが異常だった。


現在、ヴァルディア商会に所属する猟師たちは、トリニティ・クロスの商品に使う素材を、カイルの考えたやり方や罠を用いて狩っている。


それは単なる効率の改善ではなく、地形と魔物の癖を読み、危険を抑えながら仕留めることで、素材の調達そのものを安定させていた。


さらに、魔物素材を“使えるもの”に変える技術――それはこの国に存在しなかった領域であり、カイルが試行錯誤の果てに築き上げたものだった。


用無しと捨てていたものが、金に変わるのだ。


トリニティ・クロスという形で職人を抱え込むことでその可能性を一気に広げ、そのうえで商会と繋がったことで改良と研究はさらに進んだ。


今では加工できる素材も増え、どこまで到達するのか予測すらつかない段階に入っている。


「ここまで育てて、手放すと思うか?」


問いの形をしていながら、そこに選択肢は存在していなかった。


「……逃がすわけがない」


カイルは顔色一つ変えず、ただわずかに目を細めただけで受け止めると、間を置かずに短く問い返す。


「ならどうする?」


同じ言葉で聞き返し、試すような響きがわずかに混じっていたが、エルマーはそれを受けてほんの僅かに口元を歪め、すでに用意していた答えを、あえて軽い調子で落とす。


「簡単な話だ。“別の扉”を用意すればいい」


静かな声音だったが、その一言には流れを変えるだけの重さが含まれていた。


「別の扉?」


「あぁそうだ。まぁ、それは私が用意しよう」


軽く言ったその言葉の裏にある意味の重さに、カイルは眉を寄せる。


「……そんな簡単な話じゃねぇだろ」


「簡単じゃないさ。だが、出来る奴がやれば話は変わる」


その“出来る奴”が誰なのかをあえて明言せず、しかし確実に理解させたうえで、一拍置いてから声を落とす。


「とりあえず今は――少し学校と距離を取れ」


これは、提案でありながら、すでに次の一手として置かれた指示でもあったが、カイルは間髪入れずに返す。


「……それじゃあ、時間稼ぎにしかならねぇだろ」


エルマーはそれを否定せず、むしろ小さく笑いながら肯定する。


「そうだな、時間稼ぎだ。けれど、その“時間”で出来ることがある」


視線がまっすぐにカイルを射抜く。


「止まるか、動くかで、先は変わる」


その言葉を境に空気がわずかに緩み、エルマーは流れを切り替えるように、あえて軽い口調で次を投げる。


「――息抜きに、旅にでも出ないか?」


あまりにも唐突な提案に、カイルの眉がわずかに動き、横で聞いていたルークも思わず「は?」と声を漏らす。


しかし、エルマーはその反応すら計算に入れているかのように楽しげに腕を組み、言葉を続ける。


「ちょうどいい機会だ。剣の生産で有名な街がある。そこを、視察に行かないか?」


静かな提案に、カイルはわずかに眉をひそめた。


――こんな時に、お気楽なもんだな。


そう思いながらも、剣、という言葉が耳に残る。


夢の影響なのか、自身の家柄なのか、カイルは剣に強く惹かれ、飽きることなく学び続けている。


そのせいか騎士学校の噂も、これから起こり得る面倒も、一瞬だけ意識の外へ弾かれた。


見たことのない技術、触れたことのない素材、そしてまだ知らない“先”。


胸の奥が、わずかに熱を帯びる。


行きたい。


理由なんて、もうそれで十分だった。


「学びのためと言えば、お前の父も許すはずだ」


その一言に、カイルはわずかに目を細める。


「……それ、ただの視察か?」


低く問い返すと、エルマーは楽しげに笑い、ほんの一拍だけ間を置いてから肩をすくめた。


「どうだろうな」


軽く濁すような口調だったが、その目だけは愉快そうに細められている。


カイルはわずかに眉をひそめたものの、それ以上は追及しなかった。


「……分かった。頼んだぞ」


短く言い、立ち上がる。


ルークも無言で一礼し、二人はそのまま部屋を後にした。


バタン、と扉が閉まる音が、やけに乾いて響いた。


その音が消えた瞬間、エルマーの表情から楽しげな色がすっと消え落ちる。


「……ついに、この切り札を使う時が来たか」


低く呟き、机へ向き直る。


そこに迷いはなかった。


エルマーはすぐに紙を引き寄せ、筆を取る。


宛名は――ラインハルト・フォン・グランツ。


流れるように筆が走り、無駄を削ぎ落とした文面が淡々と形になっていく。


旅の許可を求める文面は、まるで最初から完成形が頭の中にあったかのように、整えられていった。


書き終えると封を施し、静かに脇へ置く。


――それで終わりではない。


エルマーはもう一枚、紙を引き寄せた。


先ほどと同等の上質さを持ちながらも、わずかに格の違う一枚だった。


今度は、すぐには筆を走らせない。


ほんの一瞬だけ呼吸を整え、静寂の中で思考を研ぎ澄ませてから、慎重に文字を刻み始める。


わずかな歪みすら許さないその文字は、見えない相手との距離を測っているかのようでもある。


やがて最後の一文字を書き終えると、エルマーはふっと小さく息を吐いた。


張り詰めていた空気が、わずかにほどける。


筆を置き、ゆっくりと封を施す。


「これで――別の扉は、作られるはずだ」


口元が、ほんのわずかに緩む。


(だが、鍵が掛かっているだろうな)


そう思いながら、エルマーはその先を思い描いた。


「開けられるかどうかは、カイル次第だ」


机の隅に置かれたベルを、指先で軽く鳴らす。


澄んだ音が短く響き、ほどなくして部下が部屋へ入ってきた。


「こちらを届けろ」


まず一通を差し出す。


「ラインハルト様へだ」


部下は迷いなく受け取り、深く頷いた。


続けて、もう一通を差し出す。


その宛名を見た瞬間、部下の表情にほんのわずかな緊張が走った。


そこに記された名が、それだけの重みを持っていたからだ。


エルマーはその反応を見て、小さく口元を歪める。


「そちらは――早馬を使え。乗り継いででも、最短で届けろ」


さらに声を落とす。


「……返事があれば、すぐに持ち帰れ」


それは命令だった。


選択肢など、最初から存在しない。


部下は深く頭を下げる。


「かしこまりました」


二通の手紙を抱え、足早に部屋を出ていく。


扉が閉まり、再び静寂が戻った。


エルマーは椅子に深く腰を沈め、ゆっくりと背もたれへ体を預ける。


すでに盤は動いている。


あとは――どう転がるか。


その先を思い、エルマーはほんのわずかに目を細めた。

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