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第5話  国の盾を背負う者

その報告書は、あまりにも整いすぎていた。


王城内、王国騎士団の詰め所にある執務室で、団長ラインハルト・フォン・グランツは、肘を机についたまま静かに紙面を追っていた。


白髪混じりのブラウンの髪を品よく整え、年齢を感じさせながらも威厳を失わないその姿は、静かに座っているだけで場の空気を引き締める。


重厚な木製の机には、几帳面に積み上げられた書類の束が並び、磨き込まれた机面には夕暮れの赤い光が薄く差し込んでいた。


訓練所に近いはずのこの場所でも、執務室だけは不自然なほど静かだ。


紙をめくる音と、時折ペン先が机に触れる小さな音だけが、やけに鮮明に耳へ残る。


自警団管轄地域、魔物被害報告。


その見出しの下に並ぶ文章は簡潔で、余計な感情を一切削ぎ落としたように乾いており、数字は過不足なく整えられ、結びには必ず似たような文言が添えられていた。


「被害は概ね想定の範囲内」

「自警団の尽力により、事態は収束」


見事な文だ、とラインハルトは思う。


無駄がなく、責任の所在を曖昧にし、自分の顔も立てたもの。


肝心なものだけを紙の外へ押し出している。


あまりによく出来ているからこそ、そこに嘘ではなく“削り方”の技術があることが分かる。


彼はわずかに眉を寄せ、報告書の端を指先で押さえた。


その紙の重みはほんの僅かなもののはずなのに、現場で押し潰された悲鳴や、記録から零れ落ちた血の匂いまで染みついているような錯覚を覚える。


この書類を書いたのは、自警団ではない。


正確には、現場から上がってきた報告を、この地を管轄する貴族が整えたものだった。


被害が大きければ、責任を問われる。

だからこそ、数字は削られ、言葉は整えられる。


そこにあったはずの悲鳴や怒りは、紙の上で丁寧に消されていく。


国に届くのは、「深刻ではない現状」だけだ。


それを前提にして、国が本気で動くはずがない。


危機は、いつも報告書の中で“解決済み”として処理される。


「……よく出来ている」


皮肉とも感嘆ともつかない声が、低く漏れる。


魔物の目撃情報は、近年変化していた。


街道を歩く者が襲われる例は減っている。


とはいえ、森の中では依然として増加傾向にある。

ただ、一部の魔物は明らかに数を減らしていた。


これまで増えるばかりだったものが減る。

それは、妙な話だった。


もっとも、全体として見れば、魔物の数はまだ多い。


自警団では押し返しているだけに過ぎず、脅威そのものが消えたわけではない。

人の手の届く場所まで現れる以上、本来であれば対処の仕方を見直すべき状況にあった。


それでも、この国では騎士はその現場に立たない。


制度で禁じられているわけではない。


剣を抜こうと思えば抜ける。


それでも、誰も狩ろうとはしない。


正確には、魔物を狩ることが恥なのだ。


人と戦うための剣こそが騎士の剣であり、魔物に向ける剣は、いつの間にか“落ちた行為”として扱われるようになっていた。


騎士は、貴族の家の生まれであること。


それは長い歴史の中で受け継がれてきた誇りであり、同時に枷でもあった。


貴族の子として生まれ、礼法を学び、剣を学び、家の名を背負う者たちにとって、森に入り、血と泥にまみれ、魔物の死体を踏み越えることは、野蛮な行いと見なされた。


それは下賎の者の仕事とされ、“自警団がやること”であって、騎士が関わるべき領分ではない。


もし騎士がその領域に足を踏み入れれば、あれは騎士道から外れている。そういう目で見られる。


どれだけ剣の腕があろうと、どれだけ人を救おうと関係ない。


評価が下がり、家の名に泥を塗ったと見なされ、やがて静かに居場所を失っていく。


だから、誰も踏み込まない。


出来ないのではない。


やらないのでもない。


やれば、すべてを失うと分かっているからだ。


本来、騎士の任は明確だった。


戦においては前線で剣を振るい、平時においては主君とその民を守る盾となる。


課せられた護衛対象を守り抜くことが、何より優先されるべき使命だった。


だからこそ、目の前で別の誰かが襲われていようと、護衛対象を危険に晒してまで手を出すな。そう教えられてきた。


その理屈は、正しかったはずだった。


けれど、いつしか、それは都合のいい免罪符に変わった。


守る対象がいようがいまいが、関係ない。


任ではないものには関わるな。


余計なことはするな。


騎士としての誇りを守ることこそが正しいとされた。


そんな価値観を、はっきりと思い知らされた出来事がある。


街道で魔物に襲われた商人がいた。


護衛任務を終えた帰路の騎士が、それを見た。


助けられる距離だった。


剣を抜けば、間に合った。


それでも、騎士は馬を止めなかった。


視線だけを向け、何事もなかったかのように通り過ぎた。


後に、その行動は咎められなかった。


己の剣を“正しい相手”にのみ向けること。


それこそが騎士の在り方だと、そう教えられ、信じられていた。


ラインハルトは若い頃、その常識に真正面から噛みついた男だった。


騎士もまた、民を守る盾であるべきだと。

魔物から人を守らずして、何が騎士かと。


まだ今ほどの立場もなく、ただ剣の腕と真っ直ぐな怒りだけを持ち、何度もそう叫んだ。


自警団の実態を知り、命を落とす者の多さを見て、黙っていられなかった。


あれを見て、騎士は関係ないとは思えなかった。


思えなかったからこそ、声を上げ、訴えた。


けれど、何も変わらなかった。


様々なところから圧力が入り、その口は押さえ込まれた。


誰も耳を貸さず、力を貸してくれる者もいなかった。


そこでようやく分かった。


自分一人の正しさで国が動くほど、現実は優しくも単純でもないと。


あの日流した涙は、今も忘れない。


仲間から向けられる視線は冷たく、自分の騎士としての人生は終わったとさえ感じた。


それから後、家の地位と、騎士であった父の力、そして現王アロン陛下との、幼少より続く縁によって、表立って排除されることはなかった。


彼らが守ってくれたから、今の自分がある。


それでも、あの時の想いは心の奥底で、今なお燻っている。


前線に立てとまでは言わない。


騎士すべてに、魔物を狩れと強いるつもりもない。


せめて、目の前で魔物に襲われている者がいれば、剣を抜いて助けに入ることすら否定されるこの歪んだ常識だけは変えたい。


けれど、団長となった今でさえ、それすら変えることができていない。


むしろ上に立ったからこそ、どこにどんな力が絡み合い、どこで誰が利益を得て、誰が損を押し付けられているのかが見えてしまう。


風習は動かない。


国は変わらない。


「……それでも、か」


ラインハルトは、机の脇に置かれた報告の写しへと視線を移す。


王へ直接届けられた、もう五年前のものだ。


それでも、時折、心が折れそうな時、胸の奥の火を消さぬよう支えてくれる気がして、眺めてしまう。


そこに書かれているのは、魔物避けの匂い袋に関することだった。


国が正式に採用するよりも前から、すでに現場では使われ始めていたという。


小さな布袋に過ぎないはずなのに、それがあるだけで魔物の最初の踏み込みが鈍り、生きて帰れる者が増える。


その匂いで魔物が逃げたという報告もある。


たったそれだけの変化が、現場では生死を分ける。


発案者の名が、そこにあった。


カイリスとルーカス。


発明品を手がける兄弟だという。


分かっているのは、それだけだ。


この名で商会を当たっても、学術院を洗っても、記録は繋がらない。


その不自然さは偶然ではなく、意図的に痕跡を消している者のやり方だと分かる。


掴めそうで掴めない。知れそうで知れない。


それでも、成果だけは確かに残る。


そして、この匂い袋について、ごく一部の者だけが知る真実がある。


これは、ただの香り袋ではない。


魔物の素材が使われている。


その事実を知る者は、王と、その周辺、そして限られた技術官僚のみだ。


「……どうやって、その知識を得た?」


魔物素材は扱えない。


この国では、そう教えられてきた。


それを、形にした。


しかも、無償でこの匂い袋の作り方を差し出し、見返りすら求めなかった。


「不思議な兄弟だ……」


理解できない。


けれど、軽んじる気にもなれない。


むしろ、その在り方は、かつて自分が理想として掲げたものにどこか似ている気さえした。


剣を振るわず、命令もせず、それでも人を救っている。


そういう存在が、この国のどこかにいる。


それはラインハルトにとって救いであると同時に、少しだけ悔しくもあった。


自分は正面から声を上げ、剣を振るい、それでも国を変えられなかった。


名もない誰かは、静かに結果だけを置いている。


その事実が、痛いほど胸に刺さる。


同時に、そんな者がいるのなら、自分の代で何も変えられなくとも、その先に繋がる火だけは残せるのかもしれないとも思えた。


窓の外から、夕暮れの光が差し込む。


赤く染まった王城の石壁が、長い影を執務室へ落としていた。


「……今日は、週末か」


カイルが全寮制の騎士学校に入ってから、屋敷は平日の方が静かになった。


上の二人の息子も同じ道を辿り、幼い頃から家を空けることが多かった。


騎士の家に生まれた子が、騎士として育つのは自然な流れだ。


そうやって、グランツ家の男たちは代々剣を継いできた。


「カイルは……少し違う」


その名を口にすると、自然と口元がわずかに緩んだ。


小さい頃は、一番やんちゃで問題ばかり起こす、目の離せない息子だった。


兄たちがまっすぐに剣を追い、騎士として育っていく中で、あの子だけは最初から視線の向きが違っていた。


屋敷に置かれた調度品の細工に興味を示し、街へ出れば工房へ入り込み、仕組みを覗き込み、帰れば目を輝かせて語る。


ものづくりが好きだった。


それも、ただ眺めるのではなく、分解し、組み替え、仕組みを理解せずにはいられない類の執着。


まるで、その先に本当に作りたいものがあるかのように、夢中だった。


あの子だけは常に“剣の外側”を見ていた。


騎士として育てているはずの息子が、騎士とは別の何かを見据えているように思えてならなかった。


目が離せない理由は、そこにあった。


外では模範生を演じているようだが、ルークとのやり取りを聞いていると、口は悪く、妙にずる賢い。


礼節も弁えている。


頭も回る。


ただ、その使い方がどうにも真っ直ぐではない。


本人はうまく隠せているつもりなのだろうが、執事長から上がってくる報告は、いつもどこか可笑しく、時に頭を抱えたくなるものばかりだった。


ある時、ラインハルトの不在時に屋敷で異臭騒ぎが起きたことがある。


戻ると、執事長は怒った顔で報告してきた。

カイルが妙に臭う実を持ち帰り、屋敷は一時混乱に陥ったのだという。


捨てるよう命じたところ、ルークに任せ、自分は他にも持ち帰った草木や虫を図鑑と見比べると言って部屋へ戻ったらしい。


だが、騒ぎはここで終わらなかった。


その後、屋敷のあちこちで草木や虫が見つかり、今度はそちらで大騒ぎとなった。


ばら撒いたのかと問い詰めると、あれ?ととぼけた声で「袋に穴が空いていたようです」と、もっともらしい顔で答えたという。


直後に戻ってきたルークも、「捨ててきました」と報告したが、どこか引きつっていたらしい。


時間を稼ぎ、どこかへ隠させたのでは――そう疑ったが、匂いはその後消え、それ以上は追えなかった。


一応、反省文は書かせた。


内容は、袋の穴に気づかなかったこと、その原因の推測、今後は確認を徹底すること――肝心の実には一切触れていない。


書き直させると、今度は「鼻が詰まっていて臭いと気づかなかった」と言い出した。


さらに、「世の中には臭いが強くとも美味い料理や調味料もある」と続き、挙げ句の果てには、「今後は、きちんと鼻をかんでから森に行きます」と締められていた。


そこまで聞いたところで、ラインハルトは思わず息を漏らした。


小さく、笑いがこぼれる。


「……そうか」


少なくとも、まともに反省しているとは到底思えなかった。


そして、あの実がどこへ消えたのかを知る者はいない。


ああいうところだ。


常識から外れた発想と、目的のために手段を選ばないやり方。


騎士にするには、少しひねくれている。


それでも、期待してしまう自分がいる。


あの子なら、この凝り固まった騎士の価値観に、風穴を開けるのではないかと。


正しさだけで歩いてきた人間には見えないものを、あの子は見ている気がするのだ。


「……少しでも、この国を良くしてくれ」


それは命令ではなく、願いに近い言葉だった。


ラインハルトは報告書を閉じる。


あと数件、片付ければ戻れる。


家族全員で食事ができるのも、久しぶりだ。


息子たちが揃い、妻が笑い、屋敷に人の気配が満ちるあの時間を思い浮かべながら、それでも彼の手は迷わず次の書類へ伸びていく。


立場を得れば、声は届く。


けれど、それだけでは何も動かせない。


その現実を、誰よりも痛いほど知っている男が、王の盾としてこの国を背負っている。


――そして、別の形で同じ問いに答えようと動く者がいる。


変革をもたらすその“発明家兄弟”が、すぐ近くにいることを、彼はまだ知らない。

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