第4話 押し返す者達
魔物が、森の奥へと消えていった。
――後ろに控えていた者たちを含めても、その数は十人にも満たない。自警団の男たちは、肩で息をしていた。
倒したわけではない。
ただ押し返しただけであり、それは勝利とは呼べない何かだった。
それでも誰もすぐには動けなかった。
夕暮れはすでに夜の入口へと足を踏み入れていて、空は重たく色を失い、森の影はさっきまでよりもずっと濃い。
まるでこちら側へ滲み出してくるみたいに広がっている。
――そして、夜はこれからだ。
ここからが、本番だと誰もが分かっていた。
足が動かないのは疲労だけのせいではなく、ほんの少しでも気を抜いた瞬間、今しがた森へ消えていったものがまた飛び出してくる気がして、誰もすぐには背中を向けられなかったからだ。
「……引いたな」
誰かがそう言ったが、その声には安堵も達成感もなかった。
ただ、もうこれ以上は来るなと祈るような響きだけがあった。
「……おい」
別の声が飛ぶ。
振り向くと、まだ若い男が地面に膝をついており、太腿のあたりから血が滲んでいた。
黒くなりかけた布の隙間から、ぬめった赤がじわじわと広がっていく。
「歩けるか?」
「……はい」
そう答えたものの、その声は震えていて、立ち上がろうとした身体はすぐにふらついた。
特に脇腹をやられた男は、冷や汗が止まらず、傷口を強く押さえ、息を切らす。
後一歩で、致命傷だったかもしれない。
「これは縫ったがいいな」
「マジかよ……痛ぇ」
年上の団員が肩を貸し、もう一人が反対側へ回って腕を支える。
一度、木の幹のそばへ運び、応急処置だけを施す。
だが、ここでは限界だ。
「……先に村に戻すぞ」
誰かがそう言った。
とはいえ、その足はすぐには動かなかった。
全員が、同じ方向を見ていたからだ。
地面に横たわっている、動かない魔物の死体。
黒ずんだ皮膚の下で筋肉が硬く縮み、口の端から泡混じりの液がこぼれている。
他の魔物が食ったのか、元が何だったかまでは判断出来ない。
しかし、動物と違い、ハエの1匹も寄ってこないのが、この死体の不気味さを、より際立たせていた。
「……やっぱり、この臭いに釣られて、さっきのはこんな手前まで来たんだな」
「だろうな。森の奥で負けたやつが、ここまで逃げて息絶えたか」
「全く、死ぬなら森の奥で死ねよ」
吐き捨てるような言葉だったが、それは冷酷だからではなく、ただただ疲れていたからだった。
「先に焼かないと、また来るかもな」
早く負傷者を家に戻したいが、こちらを先に片付ける必要がある。
ただでさえ今日を生き残るだけで精一杯なのに、また一つ“仕事”が増えたのである。
誰かが油壺を持ってきて、魔物の死体へざばりとぶちまけた。
次の瞬間、火がつけられ、乾いた音とともに炎が走る。
黒煙が立ち上り、鼻の奥を刺す焦げた匂いがあたりに広がった。
それは肉の匂いでも獣の匂いでもなく、もっと嫌な、喉の奥に張りつくような臭いだった。
「……こんな用無しの処理まで俺たちかよ」
「放っといたら、また寄ってくるからな」
「……これ、何かに使えねぇのか?」
「そんな話聞いたこともねぇよ」
焼く。ただそれだけだ。
どこが使えるか、何が残せるか、どう扱えば価値になるかなど、最初から誰も考えない。
処理するにも人手を奪い、残しておけば新たな災いを呼ぶ。
炎に包まれていくその姿を見つめながら、若い団員が小さく呟いた。
「……きつかったな」
「最近、数増えてるよな」
「森の奥に押し返したはずなんだが……」
「そりゃ俺たちが倒せねぇんだから、また来るに決まってるだろ」
誰も答えない。
答えられるわけがなかった。
森の奥で何が起きているのか、誰も知らないし、知ろうとする者もいない。
知ったところで、どうにも出来ないからだ。
誰かが戦い方を教えてくれるわけでもない。
武具の正しい使い方も、手入れの仕方すら、まともに知らされていない。
見よう見まねで扱い、時折この地を通る兵士から断片的に教わることもあるが、それだけでは到底足りない。
最も深刻なのは、動物なのか魔物なのか、その違いすら曖昧なまま、目の前に出てきたものへ槍を向けるしかないことだ。
毒を持つ魔物かどうかも、噛まれて初めて知る。
体に異変が出て、ようやく理解する。
治療師にかかる金なんてない。
その日を生き残っても、明日にはぽっくり逝っていることもある。
火の始末を終えたあと、ようやく動き出す。
「怪我人を、先に村へ戻すぞ!」
数名の負傷者を支え、男達は急ぐ。
やがて家族の待つ村が見えてくる。
暗くなりかけた中で、ぽつぽつと灯りが浮かんでいた。
その小さな光の一つ一つに、帰りを待つ人がいる。
村に着いた瞬間、扉が開いた。
「怪我したの!?」
女の声が響く。
血の匂いに気付いたのか、顔色を変えて駆け寄ってくる。
「ちょっと噛まれただけだ……」
強がりだった。
だが、その言葉に、女は涙を滲ませながら布を押し当てる。
「無理しないでって言ってるでしょ!」
震える手で傷口を押さえる。
別の家でも同じ光景が繰り返されていた。
泣きながら手当てをする者。
黙って歯を食いしばる者。
子どもが怯えた目でそれを見ている。
「……戻るか」
男たちは立ち上がり、休む時間はない。
負傷者を預け、動ける者達は、再び森へ出る。
すると、幼い息子が足にしがみついてきた。
「父ちゃん!もう行かないで!!」
その光景に、皆の胸が締め付けられた。
自警団の者たちは、自分の意思で森に立っているわけではない。
招集されるのだ。
この地を管轄する貴族から領地を守るために「人数が足りない」と言われれば、村は人を出す。
断ることは出来ない。
断れば、どうなるかを皆が知っているからだ。
畑の割り当てを削られる。
仕事を回してもらえなくなる。
最悪、この土地に住むことすら許されなくなる。
自分だけの問題ではない。
家族がいる。子どもがいる。年老いた親がいる。
だから、行くしかない。
誰かが死ねば、次は別の誰かが出される。
逃げ場は、最初から用意されていない。
男は跪き、息子と目を合わせると、頭を撫でた。
「俺たちの仕事なんだ。お前は、母さんをここで守ってくれ。いいな?」
息子は首を横に振った。
「なんで父ちゃんがやらなきゃいけないの!?貴族や金持ちは、森からずっと離れた場所で安全に暮らしてるのに。なんで……なんで!?」
男は、困ったように眉をひそめた。
庶民は森に近い場所に住まされ、魔物との盾に使われていた。
その時、自警団の一人が小さく吐き捨てた。
「本当な。何で、俺たちなんだ?」
誰に向けた言葉でもない。風に溶けるような呟きだった。
「何で、魔物と戦うのが俺たちなんだ?」
騎士は来ない。
貴族は出ない。
だから押し付けられる。
とはいっても、それを変えられるだけの立場も、力もない。
息子の頭をもう一度荒く撫で、男は立ち上がった。
「いいから戻るぞ。自分達の村は自分達で守るんだ」
男達は夜の訪れに松明を持ち、また森に戻っていった。
誰も言葉を交わさず、頭の中ではこの苦しい暮らしの終わりが来るのか考えていた。
その時、若い男がふと思い出したように口を開いた。
「……そういや、さっき見たあの馬車……」
遠くの街道には、数台の馬車があった。
その中でも一つだけ、やけに目立つ馬車。
「王国騎士団団長の家のやつだったな」
白地に盾の紋章。
庶民でも知っている。
知らない方がおかしいくらい有名な家だ。
「……見てたんだな」
「見てたけど、止まらなかった」
「多分息子だろう。団長じゃなかった。目が合った気がする」
「あそこの家は皆、騎士になってるもんな」
「あぁ、多分俺らより剣の腕があるぞ」
「それでも手を貸す気はねぇってか」
責めるような声ではなかった。
魔物の相手は自警団が担う。
それがこの国の常識だ。
「……まぁ、そうだよな」
誰かが力なく笑う。
「期待する方が、馬鹿だ。あの子だって、ただ心の中では、俺たちを見て“無様だな”って思ってるだろうよ」
その言葉には、諦めが染みついていた。
悔しいとか、腹が立つとか、そういう感情すらもう擦り減っていた。
ただ“そういうものだ”という事実だけが残っている声だった。
けれど、その沈んだ空気を少しだけ切り裂くように、別の男がぽつりと口を開く。
「……それでも」
首元に手をやり、小さな布袋をつまんだ。
擦り切れた紐で吊るされた、それはもう色も形もくたびれていたが、それでも大事そうに指先で撫でられる。
「これがあるだけで、生きて帰れる確率が上がるんだ」
匂い袋だった。
魔物が近づくと、ほんのわずかに距離を取る。
きっと魔物が嫌う匂いなのだろう。
運悪く嗅覚が鈍い魔物に当たれば、効果はない。
完全に防げるわけではないし、噛みつかれるし、爪も届く。
それでも、“最初の一撃”を避けられる可能性が上がる。
それだけでも、生きて帰れるかどうかが違ってくる。
「なかったらさっきの戦いで、誰か死んでたな」
「……ああ」
「……どこの誰かは知らねぇがな。作ってくれた奴に礼を言いたいな」
被害はなくならない。怪我も出るし、血も流れる。
それでも、死なずに帰れる確率は上がった。
それだけでも、彼らには十分すぎるほどの救いだった。
「国も珍しくいいもん配ったな、しかも無償で」
「そりゃ金取られるなら、俺たちは買えねぇよ。壊れた装備も、給金から引かれてんだし」
そこで何人かが笑った。
笑うしかなかった、と言った方が正しいかもしれない。
武具は支給品ではあるが、壊せば引かれる。
弓を折れば引かれる。槍を潰せば引かれる。
防具に傷が増えても文句を言われ、手当てに使う布や薬すら供給は少ない。
だから、自腹で揃えることもある。
魔物と戦って得る報酬など、最初から“生き延びるために消える金”でしかなかった。
生活はいつもギリギリだ。
こんな毎日でも、今日の報告書には「被害は抑えられた」と書かれる。
誰かが数字を削り、誰かが言葉を整え、誰も嘘は書いていないと胸を張る。
死んでいない者は“被害に含めなくていい”とされ、歩ける怪我は“軽傷”にされる。
――こうして、この地獄は“問題のない日常”として、今日も報告される。
押し返すだけの戦いが、また続く。
夜はまだ始まったばかりだ。
その明日を願うには、まだ早すぎるまま、闇が深くなっていくのだった。




