第3話 振るえない剣
カイル達を乗せた馬車は、騎士学校を離れるにつれ、景色が少しずつ変わっていった。
整えられた石畳は次第に荒くなり、道の脇に広がる畑はやがて林へと変わる。
その先には濃い影を抱え込んだ森が、口を開けたままこちらを待ち構えているように広がっている。
昼と夜の境目に差し掛かった空は、まだわずかに明るさを残してはいるものの、その色は確実に沈みはじめている。
すると、日常では聞きなれない音が耳を掠める。
「……あれ」
窓の外を眺めていたルークが、いつもの軽さを消した声でぽつりと呟いた。
その声音に引かれるように、カイルも視線を外へ向ける。
森の手前、街道からそう離れていない場所で、人影が慌ただしく動いていた。
金属がぶつかる乾いた音、怒鳴り声、そして獣とも違う、喉の奥を擦るような低い唸りが風に乗ってこちらまで届いている。
「自警団っすね」
ルークがそう言うと、カイルは腕を組んだ。
「……この時間で、ここまで出てくるか」
魔物が夜に活発に動くことは、この国に生きる者なら誰でも知っている常識だ。
昼間でも森の奥に“いる”こと自体は珍しくないし、痕跡だけなら街道近くで見つかることもある。
それでも通常であれば、人の生活圏にここまで近づいてくることは少ない。
普通ではない。何か原因があるはずだ。
馬車の窓から目を凝らすカイルは、辺りを確認する。
「餌になるようなもんでも、あんのか?」
「……ですかね」
ルークも同じ違和感を抱いている顔で頷く。
御者はすでに状況を察しているのか、わずかに手綱を引き、馬車の速度を落としていた。
完全に止まることはしないが、いつでも距離を取れるよう構えている。
後続の馬車も同じように間合いを取り始めていた。
見ようと思えば見える速度ではあるのに、誰もそちらに目を向けないという雰囲気が、この国の日常だった。
その瞬間、森の影が弾けた。
黒い塊が、地面を抉るように飛び出してくる。
猪に似た魔物だった。
分厚い皮膚、歪に伸びた牙、一直線の突進。
地面を蹴るたびに土が跳ね、その勢いのまま人へと迫る。
それを迎え撃つように矢が放たれ、槍が突き出され、火をつけた布が地面へ転がる。
自警団の攻撃は確かに当たっている。
だが――効いてはいない。
「……倒す気はないな」
カイルが低く言う。
「そりゃそうっすよ。まともに武器も使えないんすから」
ルークの声も、自然と低くなっていた。
自警団の動きは洗練されていない。
連携も粗く、武具も揃っていない。
それでも前に出すぎず、深追いもしない。
その動きには、技術ではなく“慣れ”だけがあった。
何度も同じことを繰り返し、何度も怖い思いをして、それでもやめられずに続けてきた者の動きだった。
目的は一つ。
森の奥へ押し戻すこと。
倒すことが出来ないなら、そうするしかない。
魔物が一歩下がれば人が一歩前に出る。
その単純な押し引きが、何度も繰り返される。
どう見ても、手に負える相手ではない。
カイルは、その光景を見つめたままぽつりと呟く。
「……あんな状況でも、自警団に任せるのがこの国のやり方だ」
その声は静かだった。
ルークは視線を外さず、小さく頷いた。
「……それが普通っすからね」
カイルは、わずかに鼻で笑った。
「普通、な」
その声には、押し殺した苛立ちが滲んでいた。
視線は外に向いたまま、微動だにしない。
この距離なら、助けに行ける。
しかし、行けない。
その境界が、これ以上ないほどはっきりと存在していた。
騎士学校では、まず距離を取れと叩き込まれる。
善意であろうと何であろうと、魔物や自警団に手を出すことは、騎士としての格を落とすと見なされるからだ。
関わった時点で、問題になる。
……それが、生徒を守るためでもあるのは分かっている。
無用な危険を避け、そして余計な噂や評価の低下を招かせないためだ。
それでも、納得はできない。
腕はある。きっと彼らよりは、上手く立ち回れる自信もある。
十八歳の成人を迎えるまでは、持てるのは木剣だけだ。それでも打ちどころを選べば、十分に役には立つ。
ただ、商売の噂が出た今、これ以上問題は重ねられない。
ルークは、その横顔を見た。
分かっている。
この少年が、今すぐにでも飛び出したいと思っていると。
戦いはまだ続いていた。
魔物が跳び、一人が弾き飛ばされる。
仲間がすぐに引きずり、後ろへ下げ、その隙に別の者が前に出る。
ただ、自分が退いたら後ろが喰われると知っているから前にいる、それだけの必死さで立っている。
カイルの拳が、ギリ、と膝の上で無意識に握られる。
それは、白くなるほど力が入り、指先がわずかに震えている。
また別の一人が、突進を受けて後方へ弾き飛ばされた。
受け止めきれなかった槍が宙を舞い、地面に転がる。
「下がれ! 無理に前に出るな!」
怒鳴り声が飛ぶ。
しかし、その声に応じる余裕は、すでにない。
陣形が崩れている。
押し込まれた、その一歩が致命的になる距離だった。
別の男が無理に踏み込み、横から槍を突き出す。
浅い。皮膚をかすめただけだ。
次の瞬間、猪のような魔物が首を振った。
しかし、男は咄嗟に槍を引き、体をひねって直撃を避ける。
重い衝撃が腕に伝わり、足が地面を削るように後ろへ滑るが、それでも踏みとどまった。
空気が、一瞬だけ張り詰める。
押し返す力が、明らかに足りていない。
それでも、まだ崩れてはいない。
カイルの喉が、わずかに鳴った。
呼吸が浅くなる。視界が狭まる。
次の瞬間、魔物が体を低く沈めた。
嫌な予感が走る。
来る――!
一直線に、その男へ突進する。
間に合わない。
誰も、届かない。
「――っ!」
男は咄嗟に槍を構え直す。
しかし、遅い。
鈍い音が響いた。
分厚い牙が、男の脇腹を抉る。
肉が裂ける音とともに、鮮やかな血が弾けた。
そのまま体が宙に浮き、地面へ叩きつけられる。
(あのままじゃ、マズイ)
カイルの体が、先に動いた。
頭ではなく、心が体を突き動かす。
「ダメっす」
しかし、立ち上がろうとした瞬間、ルークがその肩を強く押さえつける。
低い声だった。
迷いはない。
「離せ」
「ダメっすよ!」
「離せって言ってんだろ!」
カイルが振り払おうとするが、ルークは一歩も引かない。
「いいえ、分かってないっすよ。
ここで出たら――坊ちゃん、本当に退学させられます!後ろにも馬車がいる。今度こそ言い逃れできないっすよ!」
それでも、カイルの視線は外から逸れない。
「だからって、あんな素人達に任せておけるか……!」
歯を食いしばる。
「死んでからじゃ遅いんだぞ!」
ルークの手に力がこもる。
(分かってるっすよ)
内心で舌打ちする。
(でも――ここで出したら終わりだ)
坊ちゃんは、ここで終わる。
それだけはさせられない。
「……分かってますよ」
ルークは低く、押し殺した声で吐き出す。
「でも――どっち取るんすか」
カイルの動きが止まる。
「今、目の前の一人を助けるのと、この先で大勢を助けるの。坊ちゃんなら、どっちが“得”か、分かるでしょ」
ルークの拳が震える。
「商売やってるんすから、分かるはずっす」
その言葉が、深く突き刺さる。
秤にかけてしまう自分が、たまらなく嫌だった。
それでも。
カイルは奥歯を噛みしめたまま、ゆっくりと腰を下ろした。
納得したわけではない。視線だけは、どうしても外から剥がせなかった。
ルークはそっと手を離した。
今は無事を祈りながら、見守るしか道はない。
やがて自警団は追加の火を起こし、それに押されるように魔物が後退する。
そして、森の奥へと消えていった。
歓声はない。勝利の声もない。ただ、生きている。
それだけだった。
地面に倒れていた者たちが、仲間に肩を貸されながらゆっくりと起き上がる。
血を流してはいるが、致命傷ではなかったようだ。
誰もが満身創痍のまま、それでも立っていた。
その光景を見た瞬間、カイルの喉の奥に詰まっていたものが、ようやく落ちた。
張り詰めていた力が、わずかに抜ける。
ほんの一瞬だけ、安堵が胸をかすめた。
馬車はその横を通り過ぎる。
一瞬、自警団の男と目が合った。
だが、その目には助けを求める色も、逆恨みも、期待もない。
ただ「そういうものだ」と最初から分かっている者の静かな諦めだけがあった。
その目が、カイルの胸を嫌な形で刺した。
沈黙が落ちる。
重く、言い訳のしようもない沈黙。
それを破ったのは、ルークだった。
「……やっぱり……坊ちゃんは、何としても騎士になってください。絶対にっす」
はっきりと断言する。
慰めではない。理想論でもない。そうするべきだと、現実を見たうえで言っている声だった。
「口では、金だの何だの言ってますけど――」
ルークは、まだ森の方を見たまま続ける。
「あれ、無くしたいんすよね」
カイルの指先が、わずかに動く。
「自警団って仕組み、そのものを」
その言葉は、沈黙の中に静かに落ちた。
ルークは知っている。
坊ちゃんがなぜここまで騎士に執着しているのかを。
カイルは、ゆっくりと息を吐く。
「……そうだ」
短く、それだけ言う。
立場がなければ、発言はただの口出しで終わる。
立場がなければ、善意は出しゃばりに変わる。
立場がなければ、たとえ正しくても押し潰される。
「騎士は国からの信頼が厚い。現場で剣を握ってる連中の判断は、止められにくいからな。官僚みたいに書類回してる間に、何人死ぬと思ってる」
そう言いながら、カイルは窓の外から目を逸らさなかった。
「それに俺の家柄なら、王族に直接話を通す道もあるはずだ」
街道の警備に口を出せる。
自警団への物資に手を回せる。
森際の防衛に予算をつけろと意見できる。
そういう“当たり前のこと”を通すためにさえ、この国では立場がいる。
思い描く未来は、魔物の相手を自警団ではなく、夢で見たような冒険者と呼ばれる奴らみたいな、専門の者達に任せたい。
必要なのは、ああいう場で戦う“ため”にいる連中だ。
この世界にないなら、作るしかない。
「だから――今は耐えるしかねぇ」
その声は静かだったが、重かった。
ただの我慢ではない。
自分を押さえ込むための言葉だった。
今、飛び出しても何も変わらない。
変わらないどころか、自分が騎士になる道を失えば、もう二度と手が届かなくなる。
それだけは許せない。
金だって必要だ。
物を動かすにも、人を守るにも、何かを始めるにも、金がいる。
それを知らないほど子どもではない。
だからこれまでトリニティ・クロスで稼いだ金は全部、手を組む商会に預けたまま。
今のまま、寄付をしたとして、決して現場には金が回らないことは知ってる。
国が変わらないなら、立場を持って変わる仕組みを作るしかない。
騎士の地位も、金も、人の繋がりも――そのために使う。
もう目の前で削られていく命を、次もそのまま見送るのは嫌だ。
馬車は、夕暮れの道を進み続ける。
カイルは窓の外を見つめたまま、わずかに目を細める。
(……あと二年)
その言葉は、胸の奥に静かに沈んだ。
(それまで――どうか、生き残ってくれ)
誰に向けたものなのかは、自分でも分からない。
あの場にいた自警団にか。
これから削られていくであろう、まだ顔も知らない誰かにか。
しかしそれは、無事に卒業できればの話だ。
「学校に商売のことを隠し続けるためにも、エルマーのところへ話に行こう」
カイルは短く言い切る。
「あいつなら――この状況の“抜け道”を、知ってるはずだ」
その声音には、迷いがなかった。
ルークは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑う。
「……っすね。あの人なら、何かしら用意してそうっす」
馬車は、沈みゆく光の中を進み続ける。
揺れる車内で、カイルはもう一度だけ窓の外へ視線を向けた。
だが、その瞳はもう迷っていない。
――立場も、商売も、奪わせてたまるか。




