第68話 雨音と訪問者
工房の入口に立つ男を見た瞬間、ルークの顔色が変わった。
「だ、旦那様!?」
驚愕の声が工房へ響き、カイルの息が止まる。
見間違えるはずがない。
そこに立っていたのは――王都にいるはずの、自分の父。
ラインハルト・フォン・グランツだった。
「父上……?」
ラインハルトの視線は、真っ先にカイルへ向けられた。
頭から足元まで確かめるように視線を走らせると、険しい表情のまま口を開く。
「カイル、無事だったか?」
「えっ……? はい」
突然そんなことを聞かれ、カイルは戸惑いながらも頷いた。
何故、父がわざわざ自分の無事を確かめるのか分からない。
ラインハルトはなおも、何か異変がないか探るようにしばらく息子を見つめていたが、やがてその視線がカイルのさらに奥へと移った。
そして、そこにいたリューゲンの姿を捉えた瞬間――表情が一変した。
「……貴様」
低く押し殺した声が工房へ落ちる。
次の瞬間には、怒気を隠そうともせず声を張り上げていた。
「何のつもりだ!?」
そのまま腰の剣へ手を掛ける。
「父上!?」
カイルが制止するより早く、鞘走りの鋭い音とともに刃が抜き放たれた。
ラインハルトはリューゲンを真っ直ぐ睨み据えたまま、低く言い放つ。
「私が気に食わんのなら、好きにしろ。だが――」
切っ先が、まっすぐリューゲンへ向けられる。
「息子にまで手を出すというのなら、許さんぞ」
そこでようやく、カイルにも父の言動が少しだけ繋がった。
(……もしかして、何か勘違いしてる?)
自分がリューゲンから何か危害を加えられたとでも思っているのだろうか。
もちろん、そんな覚えはまったくない。
「団長! 落ち着いてください!」
その直後、ラインハルトを追ってきたバルドが工房へ飛び込み、背後から一気に羽交い締めにした。
「離せ、バルド!」
「離せません! 剣を下ろしてください!」
「うるさい!!」
「まず話を聞いてください!」
「話など後だ!」
「後じゃ駄目ですって!」
ずぶ濡れのまま剣を握るラインハルトを、バルドが必死になって押さえ込む。
ただならぬ騒ぎに、工房の空気は一瞬で張り詰めた。
それでも、当のリューゲンだけはまるで動じていない。
「ふん」
小さく鼻を鳴らすと、目の前で剣を向けられていることなど気にも留めていないような、落ち着き払った声で告げた。
「久しいな、ラインハルト」
その態度が、ただでさえ昂っていたラインハルトの怒りへさらに油を注ぐ。
「何故、今になってアルテの城へ来た! 私の息子がいると知ってのことか!?」
問い詰められても、リューゲンは僅かに口元を吊り上げただけだった。
「まあ、間違いではないな」
「何だと!?」
再び身を乗り出そうとするラインハルトを、バルドがさらに強く押さえ込む。
「団長! 剣を納めてください!!」
同席していたジーク達鍛冶師も、クラウスをはじめとする研究者達も、完全に言葉を失っていた。
無理もない。
ラインハルトは普段から声を荒らげるような男ではなく、どんな時でも冷静で、感情を表へ出すことも少ない。
その男が今は全身ずぶ濡れのまま剣まで抜き、工房中へ響き渡るほどの声で怒鳴っているのだ。
周囲が固まるのも当然だった。
そんな空気の中、カイルはちらりと後ろへ視線をやった。
すぐ近くには、鉄材を積んだ棚がある。
ならば――と、カイルは何食わぬ顔で踵をその脚へぶつけた。
ガンッ。
次の瞬間、積まれていた鉄材が派手な音を立てながら床へ崩れ落ちる。
ガシャンッ!
工房中の視線が一斉にそちらへ向き、当然、ラインハルトも反射的に顔を動かした。
「……何をしている、カイル」
ほんの一瞬とはいえ、リューゲンだけへ向けられていた意識が逸れる。
カイルはそこを逃さず、頭を掻きながらへらりと笑った。
「すみません。ぶつかっちゃって」
「…………」
明らかにわざとだった。
だが、この状況でそれを指摘する者など一人もいない。
カイルはそのまま何事もなかったように話題を変え、改めて父の全身を見た。
「それより父上、ずぶ濡れじゃないですか」
髪からはいまだ雨水が滴り、重厚な鎧もすっかり濡れている。
「拭くもの……何かなかったっけ?」
そう言いながらさりげなくジークへ目配せすると、一瞬だけ視線が重なっただけで、彼もすぐに意図を察したらしい。
「あ、ああ。あるぞ」
慌てて工房の奥へ向かい、大きめの布を手に戻ってくる。
「ほら」
「ありがとうございます」
カイルはそれを受け取ると、そのままラインハルトの前へ差し出した。
「父上。とりあえずこれ使ってください」
ラインハルトは依然としてリューゲンを睨んでいたものの、先ほどまでの激しい勢いは僅かに削がれていた。
それを感じ取ったバルドも、様子を窺いながら少しずつ腕の力を緩めていく。
そこでラインハルトは、ようやく我に返った。
自分は今、息子の目の前で剣を抜き、怒りに任せて声を荒らげていた。
普段からカイルには、どんな時でも感情に呑まれるなと何度も言い聞かせてきたというのに、これでは自分がその教えを破っている。
ラインハルトは僅かに眉を寄せ、握ったままの剣へ視線を落とした。
やがて小さく息を吐き、静かに刃を鞘へ納める。
そしてカイルから布を受け取ると、濡れた髪と顔を乱雑に拭った。
その様子を見て、ルークもようやく安堵したように息を吐いた。
工房には、気まずいほどの沈黙が落ちていた。
下手に口を開けば、せっかく消えかけた火へ再び油を注ぎかねない。
誰もがそう思っているようだったが、カイルだけはそんな空気など気にも留めず、いつも通りの調子で口を開いた。
「父上、一人で来られたんですか?」
あまりにも普通に尋ねられ、ラインハルトの眉が僅かに動く。
「……いや。部下を二人連れてきた」
「どこにいるんです?」
「下だ。馬を預けている」
「じゃあ、三人ともびしょ濡れじゃないですか」
「……そうだな」
つい先ほどまで剣を抜いて怒鳴っていたとは思えないほど、急に普通の親子の会話へ戻ってしまった。
カイルはしばらく父の姿を眺めたあと、すぐ隣にいるバルドへ顔を向ける。
「それなら、まずは皆で風呂入った方がいいですよ。なぁ、バルド。大浴場使えるよな?」
近衛騎士の宿舎にある大浴場のことだろう。
バルドもすぐに頷いた。
「ああ。今なら空いてるはずだ」
「じゃあ――」
「……待て」
ラインハルトの低い声が割って入り、カイルは何事かと父へ視線を戻した。
「え?」
ラインハルトは眉間に深い皺を寄せたまま、しばらく息子を見つめている。
「……今、なんて言った?」
「何がです?」
「バルド近衛騎士長に対してだ!」
突然、鋭い声が飛んだ。
「お前、いつもそんな口を利いているのか!?」
「…………あ」
そこでようやく、カイルも自分が何を口走ったのか気付いた。
すっかり普段通りに話していたせいで、父親が目の前にいることを忘れていたのである。
「い、いや団長!」
慌てて間へ入ったのは、当のバルドだった。
「俺がそうしろって言ったんです!」
「何?」
「堅苦しく話されるの苦手なんですよ。俺、どっちかっていうと若い奴らの方が気が合うんで」
ラインハルトが怪訝そうに眉を寄せた、その横で、カイルがぽつりと呟いた。
「でもバルド、おっさんじゃん」
「お前は黙ってろ!」
バシッ。
いつもの調子で、バルドの手がカイルの頭を軽くはたく。
「いてっ!」
だが、叩いた直後、バルドの動きがぴたりと止まった。
恐る恐るラインハルトへ視線を向けたところで、ようやく自分が誰の前で何をしたのか思い出したらしい。
「……あ」
父親の前だった。
「い、いや団長! これは、その……!」
先ほどまでラインハルトを羽交い締めにしていた勢いはどこへやら、途端にしどろもどろになる。
するとカイルは頭を押さえ、わざとらしく顔を歪めた。
「父上……今、叩かれました」
「お前、何で急に泣き真似してんだよ!」
「痛かったです」
「嘘つけ!」
焦るバルドを見て、ルークが堪えきれず、ぷっと吹き出す。
少し離れたところでは、リューゲンも口元を押さえながら、くっくっと肩を揺らしていた。
ラインハルトはしばらくそんな息子を見つめていたが、やがて呆れたように息を吐いた。
「……お前は相変わらずだな」
その声からは、先ほどまでの鋭い怒気がほとんど消えていた。
ただし、リューゲンへ向ける目だけは、まだ完全に収まってはいない。
やがてラインハルトは、改めてカイルへ視線を戻した。
「風呂から上がったら、話がある」
「分かりました」
「それまで、あの男には近づくな。大人しくしていろ」
「はいはい」
「返事は一回だ」
「はい」
今度こそカイルが素直に答えると、ラインハルトはもう一度だけリューゲンへ鋭い視線を向け、それから踵を返した。
「では団長、こちらです」
バルドに案内され、濡れた鎧を鳴らしながら工房を出ていく。
カイルはその背中が扉の向こうへ消えるまで見送り、静かに扉が閉じられた――その瞬間。
「「「はぁぁぁぁ……」」」
工房のあちこちから、一斉に大きな息が漏れた。
皆、ようやく息をしていいことを思い出したような顔をしている。
カイルも肩の力を抜き、額へ手を当てた。
「……何しに来たんだよ、親父」
するとリューゲンが、いかにも愉快そうに鼻を鳴らす。
「よほど、わしがお前の近くにいるのが気に食わんらしいな」
「笑い事じゃないですよ」
カイルは呆れながらリューゲンの隣へ腰を下ろした。
それにしても、妙だった。
父は王都にいるはずだったのに、どこからどう話を聞いたのか、何の前触れもなく突然アルテまでやって来たのである。
「師匠も、これ以上揉めないでくださいよ」
先に釘を刺しておかなければ、風呂から戻ってきた途端に第二戦が始まりかねない。
だが、リューゲンはまるで悪びれる様子もなかった。
「揉めるも何も、あいつが勝手に突っかかってくるのだ」
「師匠も煽ってるじゃないですか」
「事実を言っただけだ」
「そういうところですよ」
一方その頃。
アルフォンスもまた、別の場所で大きなため息を吐いていた。
ラインハルトは城へ着くなり「カイルはどこだ!?」と居場所を問い、工房にいると聞くや否や、制止する声も聞かずに駆けだしたらしい。
まさか本当に、彼がアルテの城まで突撃してくるとは思っていなかったのである。
そもそもの始まりは、数日前に王都へ送った一通の手紙だった。
◇ ◇ ◇
王都。
日が落ち、城内の窓にも灯りがともり始めた頃。
国王アロンは執務机に座り、弟から届いた手紙へ目を通していた。
柔らかな栗色の髪を後ろへ流し、こめかみにはわずかに白いものが混じっている。
口元には短く整えられた髭があり、端正な顔立ちには、長く国を背負ってきた王としての落ち着きと威厳が滲んでいた。
そんなアロンが、手紙の一文へ目を留めて眉をひそめる。
「……リューゲンが、アルテの城に滞在する?」
思わず声に出し、もう一度その箇所へ目を落とした。
どうやらジーク達と共に剣の製作へ関わるため、しばらくアルテへ腰を据えることになったらしい。
アロンは手紙から顔を上げると、隣に控えていた側近へ視線を向けた。
「……何でこんなことになった?」
「私に聞かれましても」
もっともな返事だった。
以前にも、剣好きのリューゲンを王国へ戻す口実として、武器開発への参加を持ちかけたことはある。
だが、その時の返事はあっさりとしたものだった。
――断る。
剣都には馴染みの工房も多く、剣を弄りたければ好きなだけできる。
わざわざ王国主導の開発へ加わる気はない、というのが理由だった。
それならばとジークの名まで出したが、それでも首を縦には振らなかったのである。
「それが、今になって急に手を組むとはな……あのジジィもよく分からんな」
眉を寄せながら、もう一度弟からの手紙へ目を落とす。
最後には、事が落ち着いたら改めて国の機関へ戻るよう説得してみる、と書かれていた。
「まあ、無理だろうな」
今回の件が終われば、どうせまた剣都へ引っ込むに違いない。
昔からリューゲンという男を知っているだけに、その未来は容易に想像できた。
アロンは小さく息を吐くと、読み終えた手紙を机の上へ置いた。
ちょうどその時、執務室の扉がノックされる。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのはラインハルトだった。
今日の報告をするため、いつものように執務室へ足を運んだらしい。
簡単な報告を受けたあと、アロンはふと思い出したように机の上の手紙へ目を向けた。
「そういえば、リューゲンがアルテの城に滞在するらしいぞ。一応、お前にも言っておく」
そう言って、指先で手紙を軽く叩く。
何と言っても、あの二人は昔から仲が悪い。
知りたくもないだろうが、相手がどこで何をしているかくらいは共有しておいた方がいい。
その程度のつもりだった。
だが――。
ラインハルトの顔から、さっと血の気が引いた。
「……何ですって?」
「ん?」
「どういうことですか、陛下!」
突然、机へ両手をついて一気に身を乗り出してきたため、さすがのアロンも目を瞬いた。
「お、おい」
そこまでリューゲンの動向が気になるのか。
「どういうも何も、ジークと一緒に剣を作るらしい。しばらくアルテに滞在すると――」
「今すぐ休暇をください」
「は?」
予想もしなかった言葉にアロンが眉を上げる。
ラインハルトの眉間には深い皺が刻まれ、先ほどまでの報告時とは別人のように表情が強張っていた。
「カイルの身が危ないかもしれません」
「……カイル?」
今度こそ、アロンは完全に首を傾げた。
「何故そこでカイルが出てくる?」
「えっ……?」
今度はラインハルトの方が驚く。
まさか、そこから説明しなければならないとは思っていなかったらしい。
何とも言いにくそうに口籠った末、恐る恐る尋ねた。
「その……アルフォンス殿下から、ご連絡はありませんでしたか?」
「何の話だ?」
「カイルが、数ヶ月前からアルテの城でお世話になっていることです」
「…………」
アロンは一瞬、ぽかんとした。
数秒ほど、まるで言葉の意味が理解できないという顔でラインハルトを見つめたあと――勢いよく机を叩き、そのまま立ち上がる。
バンッ!
「何だと!?」
執務室に怒声が響いた。
「何だ、その話は!?」
今度はラインハルトが目を瞬く番だった。
「……本当に、ご存じなかったのですか?」
「知らん!」
即答だった。
つい先ほどまでリューゲンの動向を話していたはずなのに、いつの間にかまったく別の問題が発生している。
「何故、お前はそれをわしに報告せんかった!?」
「い、いえ……その……」
ラインハルトは珍しく言葉を濁した。
「陛下はカイルのことをお嫌いですので……わざわざ私からあの子の話をするのも、嫌がられるかと思いまして」
「うるさぁぁぁい! この馬鹿者が!!」
アロンの怒声が執務室を揺らした。
その勢いのまま、近くに置かれていた飲み終えた紅茶のカップを掴む。
「えっ」
ラインハルトが目を見開いた時には、もう遅かった。
勢いよく投げつけられたカップが彼のすぐ横を抜け、背後の扉へぶつかる。
パリンッ!
派手な音を立てて砕け散ったそれを見て、ラインハルトはゆっくりと背後を振り返った。
あと少しずれていれば、確実に自分へ当たっていた。
「嫌いだからといって、何も報告せんでいいという話ではないわ!!」
「も、申し訳ございません!!!」
すぐさま深く頭を下げるが、アロンの怒りはまるで収まらない。
「あのクソガキ……! アルフォンスに近づいて、今度は何を企んでおる!?」
怒声が執務室へ響き渡り、近くに控えていた近衛騎士達までびくりと肩を震わせる。
――また陛下がキレた。
誰も口には出さないものの、全員の顔にそう書いてある。
実際、この王都の城では、カイルの名はある意味地雷に近かった。
アルフォンスは、ラインハルトの三男坊など兄が気に掛けるはずもないと思っていたらしい。
だが、それは大きな間違いだった。
「……待て」
不意にアロンの目が鋭くなり、何かを思い出したようにラインハルトを見る。
「だから、この間の王都で開かれた王家主催の祝宴にも、あいつがいなかったのか?」
「…………」
ラインハルトの肩が僅かに強張る。
その反応だけで、アロンには十分だった。
「貴様!」
びしりとラインハルトを指差す。
「リリアちゃんに、カイルが何故いないのか聞かれて嘘をついたな!?」
「……はい」
ラインハルトは申し訳なさそうに答えた。
「騎士学校の予定があり、出席できないと……」
「やはりか!!」
再び怒声が響く。
リリアとは、アロンの娘――リリア姫のことである。
カイルより二つ年下で、幼い頃から彼とは親しかった。
二人の息子と一人の娘を持つアロンだが、中でも末娘のリリアにはとことん甘い。
そして、そのリリアは昔から、気付けばカイルの後をついて回っていた。
庭へ行けば後ろにいる。
廊下を歩けばついてくる。
しまいにはカイルの姿を見つけただけで、嬉しそうに駆け寄っていく。
アロンにとっては、昔から面白くない光景だった。
大切な娘の周りをぶんぶん飛び回る虫のように見えて仕方がない。
それがよりにもよって、ラインハルトの息子なのである。
だが――。
「リリアちゃん、あの日ずっと落ち込んでおったんだぞ!」
「……存じております」
「『カイル様とお会いできませんでした』と、あんな寂しそうな顔をして!」
思い出しただけで腹が立つ。
カイルがいれば、それはそれで気に食わない。
だが、カイルがいないせいで娘が落ち込むのは、それ以上に気に食わないのだ。
「まったく……どいつもこいつも!」
アロンが苛立たしげに髪を掻き上げる間も、ラインハルトは何も言わず頭を下げたままでいた。
やがてアロンは低く息を吐き、鋭く顔を上げる。
「……もういい。ラインハルト、今すぐアルテへ向かえ!」
「はっ!」
突然の命令にも、ラインハルトは即座に姿勢を正した。
「アルフォンスが何を考えて、カイルを城へ置いているのか。リューゲンが突然アルテへ出てきたことと、何か繋がりがないのか」
「…………」
「全部だ!」
怒声が執務室へ響く。
「何が起きているのか、あいつらが何をしているのか――すべて、お前自身の耳で聞いてこい!」
「承知いたしました!」
ラインハルトは深く頭を下げた。
王国騎士団長を王都から動かすなど、本来ならそう簡単に下せる命令ではない。
それでもアロンにとっては、それだけのことをしてでも確かめる必要がある一大事だった。
弟アルフォンスのもとに、何も知らされぬまま数ヶ月も滞在していたカイル。
そこへ今度は、長年王国から距離を置いていたリューゲンまで現れたのだ。
偶然で片付けるには、あまりにも出来すぎている。
そしてラインハルトもまた、命じられるまでもなく、今すぐアルテへ向かいたい気持ちは同じだった。
何しろ、そこにはカイルがいる。
そのすぐ近くには――リューゲンまでいるのだ。
昔から自分へ向けられてきた反感が、今も消えていないのだとしたら、その矛先が自分の息子にまで及ばないとは言い切れない。
少なくともラインハルトには、そう思えてならなかった。
だからこそ、一刻も早く自分の目で確かめる必要がある。
ラインハルトが執務室を出ていくと、アロンはしばらく無言で机の上の手紙を睨みつけていた。
やがて、それを乱暴に掴み上げる。
「くそぉぉぉぉっ!!」
びりっ!
弟から届いた手紙を、両手で勢いよく引き裂いた。
それだけでは収まらず、さらにもう一度、びりびりと細かく破いていく。
もし万が一、カイルとリューゲンが仲を深めるようなことになれば最悪だ。
王を王とも思わず、昔から好き勝手に振る舞う元騎士団長。
そして、大事な娘の周りを昔からぶんぶん飛び回っているクソガキ。
その二人が手を組むなど、考えただけで頭が痛い。
「何でよりにもよって、あの二人なんだ!!」
怒りの収まらないアロンは、今度は近くに積まれていた書類へ手を伸ばした。
「陛下!?」
びりっ。
「お、おやめください、陛下!」
「それはまだ決裁前の書類です!」
「知るか!!」
びりびりびりっ!
慌てて側近達が飛びつき、書類を守ろうとする者、アロンの腕を押さえる者、床へ散らばった紙片を拾い集める者と、執務室は一気に騒然となった。
つい先ほどまで保たれていた静けさなど、もはや見る影もなかった。
◇ ◇ ◇
そして――現在。
部下二人と共に風呂を上がったラインハルトは、城で用意された着替えを借り、応接室へ通されていた。
濡れた鎧はすでに預け、今は簡素な服へ着替えている。
工房へ飛び込んできた時の剣呑な雰囲気こそ幾分落ち着いたものの、その表情にはまだ硬さが残っていた。
ところが、応接室へ足を踏み入れた途端、ラインハルトの眉間に再び深い皺が刻まれる。
中ではカイルとリューゲンが、何事もなかったかのように茶を飲みながら談笑していた。
(あれほど、あの男に近づくなと言っただろうが……!)
思わず声を荒らげかけたものの、そのすぐ近くにはアルフォンスも座っている。
ラインハルトはぐっと言葉を飲み込み、何とか平静を取り繕いながら勧められた席へ向かった。
その前に、後ろへ控えていた部下二人へ振り返る。
「お前達は外で待て」
「はっ」
二人が一礼して退室するのを見て、ルークとクロードも互いに目を合わせた。
「俺も外にいますね」
「ああ」
カイルが頷く。
クロードもリューゲンへ静かに一礼すると、ルークと共に応接室を出ていった。
扉が閉まり、室内にはアルフォンス、ラインハルト、カイル、リューゲンの四人だけが残る。
「この雨の中、大変だっただろう?」
アルフォンスが穏やかな声で労う。
「いえ」
ラインハルトは短く答えると、すぐにリューゲンへ鋭い視線を向けた。
「……これは、どういうことかご説明いただけますか?」
そう尋ねながら今度はアルフォンスへ目を戻す。
「リューゲン殿が、なぜこの城におられるのでしょう」
「そのことか」
アルフォンスは表面上こそ平静を保っていたものの、内心では僅かに身構えていた。
先ほど工房で何があったのかは、すでにバルドから聞いている。
できれば、ここでまた剣を抜くような騒ぎにはなってほしくない。
「リューゲン殿には、剣の製作に協力いただくことになってな。しばらくこの城に滞在される」
「……それだけですか?」
「それだけだ」
間を置かずに答え、そのまま続ける。
「その中で、たまたまカイルと顔を合わせて挨拶を交わした。その程度のことだ」
実際には、もはや〝その程度〟では済まないところまで進んでいる。
だが、今それをすべて話せば面倒なことになるのは目に見えていた。
案の定、ラインハルトは再びリューゲンへ目を向ける。
「その割には、随分と親しいように見えますが」
リューゲンはその視線を気にも留めず、悠々と紅茶を口へ運んだ。
「お前の息子とは思えんほど、面白い坊主だからな」
ラインハルトの目つきがさらに険しくなり、アルフォンスのこめかみにうっすらと汗が浮かぶ。
(頼むから煽るな……)
そんな願いなど知る由もなく、当のカイルは何の緊張感もない顔で皿のクッキーへ手を伸ばしていた。
「まあ、話してるとつい盛り上がっちゃうんですよね」
ぱくりと一枚口へ放り込むと、今度はラインハルトの視線が息子へ移る。
先ほど「あの男には近づくな」と言ったばかりだというのに、本人はまるで気にも留めていない。
アルフォンスは静かに目を伏せた。
どうやら、この場で一番胃を痛めているのは自分らしい。
そんな空気の中、リューゲンが何でもないことのように口を開く。
「こいつは剣の腕がある」
そう言いながら、隣に座るカイルの頭をぐしゃりと撫でた。
「それでな」
その一言で、アルフォンスの胸中に嫌な予感が一気に膨らむ。
「こいつを弟子にした」
一瞬にして室内の空気が凍りついた。
アルフォンスはゆっくりとリューゲンへ顔を向ける。
(それを今言うのか……)
しかも、一番隠しておきたかったことを。
だが、さらに悪いことに――。
「そうなんですよ、父上」
カイルが嬉しそうに笑った。
「師匠に剣を教えてもらってるんです」
ラインハルトはしばらく動かなかった。
アルフォンスはもう隠し切れないと悟ったように、僅かに口元を引きつらせる。
「……何だと」
やがて、ラインハルトの口から低い声が漏れた。
険しくなったその表情のまま、はっきりと言い切る。
「私は許さんぞ」
カイルは怒るでもなく、静かに父親を見返した。
「何故ですか?」
「何?」
「俺は騎士を目指してるんですよ」
一度だけ、隣のリューゲンへ目をやる。
「だったら、これほどありがたい話もないと思いますけど」
ラインハルトは言葉に詰まった。
騎士を志す者が、かつて王国騎士団長を務め、剣鬼とまで呼ばれた男から直接教えを受ける。
騎士団長として考えるなら、反対する理由などない。
――だが。
今ここにいるラインハルトは、騎士団長である前に父親だった。
「カイル。お前は、こいつのことを分かっていない」
「どういう意味です?」
ラインハルトは鋭い視線をリューゲンへ向けた。
「こいつは昔から自由奔放だった。騎士団長という立場にいながら好き勝手に振る舞い、挙げ句の果てには〝面白くない〟と言って団を抜けた男だぞ」
そこで一度言葉を切り、改めて息子を見る。
「そんな男に、お前を任せられると思うか」
リューゲンが小さく笑った。
「どうやら、わしは師匠になれんらしいぞ」
「師匠、茶化さないでください」
カイルはすぐに返すと、改めてラインハルトを真っ直ぐ見つめた。
「嫌です」
「……何?」
「師匠との関係をやめる気はありません」
はっきりと言い切る。
「自由に振る舞ってたことも、騎士団を辞めた理由も、剣の腕とは関係ないじゃないですか」
「いや、しかしだな――」
「剣だけの話ではない」
ラインハルトも引かなかった。
「そういう考え方そのものが、お前に影響を与えるかもしれんと言っているんだ」
「俺、そんな簡単にぶれませんよ」
カイルは即座に返した。
「誰か一人と付き合ったくらいで、考え方まで全部その人と同じになるほど単純じゃないです」
「カイル」
「それに」
カイルは僅かに眉を寄せ、そのまま言葉を続けた。
「そこまで言うなら、いっそはっきり言ってください」
「……何をだ」
「自分と仲の悪い相手だから、俺にも付き合うなって」
ラインハルトの表情が止まる。
「その方が、よっぽど清々しいです」
返す言葉が見つからないのか、ラインハルトはしばらく沈黙した。
だが、それで納得したわけではない。
「とにかく、私は認めん」
「……そうですか」
カイルの声にも、僅かに冷たいものが混じった。
「なら、もういいです」
「カイル」
「師匠。腹も減ったし、飯食いに行きましょう」
それだけ告げると、カイルはさっさと席を立ち、リューゲンも肩を竦めるようにしてその後へ続いた。
結局、その日の食事は同じ食堂で取ることになったものの、カイルはラインハルトの近くには座らなかった。
リューゲンとルークの隣へ腰を下ろし、何事もなかったように食事を始める。
一方のラインハルトは、部下達と少し離れた席へ座った。
同じ場所にいながら、親子の間に会話はない。
その夜、二人の間にできた溝は、埋まらないままだった。
窓を叩く雨音は、いつの間にか一段と強くなっていた。




