第69話 語られなかった本音
夜遅くまで窓を叩いていた雨も、深夜にはすっかり止んでいた。
朝を迎える頃には雲も切れ、昨日の荒れ模様が嘘のように、アルテの城には澄んだ青空が広がっていた。
近衛騎士達の鍛錬が始まる頃、ラインハルトは二人の部下を伴って鍛錬場へ足を運んでいた。
その姿を認めた途端、場の空気が目に見えて硬くなる。
「だ、団長……」
「おはようございます!」
「お、おはようございます!」
昨日の騒ぎを知っている者も多い。
何しろ、王都にいるはずの騎士団長が突然アルテへ現れ、そのままリューゲンへ剣まで抜いたのだ。
しかも今朝は、そのリューゲンもすでに鍛錬場へ来ている。
近衛騎士達にとっては、朝から心臓に悪い組み合わせだった。
だが、少なくともリューゲンの様子はいつも通りだった。
「カイル。今日から素振りを倍に増やすか」
「えぇっ!? そんなの腕が上がらなくなりますよ」
リューゲンは楽しそうに喉を鳴らした。
少し離れた場所からその様子を見ていたラインハルトは、思わず足を止めた。
リューゲンが、あんなふうに笑う。
若い頃から豪快に笑う姿なら何度も見てきたが、誰かと軽口を叩きながら、あそこまで自然に表情を崩していた姿は記憶にほとんどない。
それだけでも、目の前の二人の関係が、自分の知るリューゲンとは少し違うことが分かった。
やがて走り込みや素振りが終わると、鍛錬場の隅で二人の手合わせが始まった。
木剣を構えたカイルが間合いを測るように一度だけ呼吸を整え、そのまま一気に踏み込む。
その初動を見た瞬間、ラインハルトの目が僅かに細くなった。
――速い。
以前より明らかに一歩目が鋭くなっている。
しかも、ただ勢い任せに距離を詰めているわけではない。
リューゲンの重心や剣先の動きを見ながら、自分が入るべき瞬間を選んでいた。
振り下ろされた木剣をリューゲンが横から払うと、カイルはまともに力で受け止めず、身体を僅かにずらして勢いを逃がす。
その動きのまま足を止めず、次の一撃へ繋げていった。
「……ほう」
思わず、ラインハルトの口から声が漏れる。
その後ろで、部下の一人も感嘆したように小さく息を吐いた。
「リューゲン様は……本当に引退されたとは思えない動きですね」
「ああ」
すると、もう一人の部下がカイルへ目を向ける。
「ですが……あれについていっているご子息も、随分と」
ラインハルトも息子の動きを追った。
確かに、まだリューゲンには届かない。
それでも十六歳の少年が、あの男を相手に何度も攻撃を繋ぎ、食らいついている。
一手、二手と追い込まれ、最後には木剣を弾き飛ばされた。
「くそっ!」
「今のは悪くない」
リューゲンは笑いながら、落ちた木剣へ顎をしゃくった。
「だが、最後に焦ったな」
「バレてたか」
「当たり前だ」
カイルはすぐに木剣を拾い、再び構え直した。
アルテへ来てからは、バルドが剣の面倒を見ていたと聞いている。
そして今は、リューゲンが教えている。
その成果は、目の前の息子の動きに表れていた。
このまま教わり続ければ、もっと強くなるだろう。
リューゲンとは昔から考え方が合わず、個人的に好ましく思っていない。
それは今も変わらない。
だが――。
(私の感情だけで、あの子の未来を潰していいのか……?)
問いかけながらも、答えはもうほとんど出ていた。
◇ ◇ ◇
鍛錬が一段落した頃、レオナルドが姿を見せた。
「リューゲン殿、ラインハルト殿。それからカイル殿」
呼ばれた三人が振り向くと、レオナルドはいつも通り落ち着いた様子で一礼した。
「アルフォンス殿下がお呼びです。昨日の件について、改めてお話をしたいとのことです」
カイルは露骨に大きなため息を吐いた。
(どうせ、またぐちぐち言われるんだろうな……)
昨日のやり取りを思い出しただけで、気が重い。
やがて応接室へ移り、紅茶と焼き菓子を前にそれぞれ席へ着いたものの、カイルもラインハルトも互いに目を合わせようとはしなかった。
アルフォンスはそんな親子を見比べながら、慎重に口を開いた。
「では、まずカイルとリューゲン殿の師弟関係について――」
「その話、もうよくないですか?」
真っ先に遮ったのはカイルだった。
「だって、父上が反対したところで、何か契約を結ぶわけでもないんですよ?」
その声には、まだ僅かに棘が残っている。
「剣を教えてもらうのに、親の承諾って必要なんですか?」
アルフォンスは困ったように眉を下げた。
「そういう話ではない。自分の子供を誰かに預けるのだ。父親として納得しておきたいと思うのは当然だろう」
「意味が分かりません」
カイルはぷいっと顔を逸らした。
「俺、別に預けられるわけじゃないし」
昨日から続く親子喧嘩は、まだ終わっていないらしい。
すると、それまで黙っていたリューゲンが、ふと思いついたように口を開いた。
「ならば、師弟でなければいいのだろう?」
「……何?」
ラインハルトが顔を上げる。
リューゲンは平然と紅茶を口へ運びながら続けた。
「カイル。今日からわしと友になろう」
「…………は?」
今度はカイルまで目を瞬いた。
「友なら、剣を教えても問題あるまい?」
「師匠、それ屁理屈じゃ……」
「師匠ではない。友だ」
「もう話がややこしいですよ」
呆れたように返すカイルの横で、ラインハルトは黙ったままリューゲンを見ていた。
そこまでして、この男はカイルに剣を教えたいのか。
現役時代のリューゲンは、誰か一人を弟子に取るような男ではなかった。
教えを請われても、必要なことを一言二言告げれば、あとは自分で考えろと突き放す。
それが今では、師弟関係を認めないと言われれば、友になってでもカイルの側へ残ろうとしている。
年齢を重ねて考えが変わったのか。
それとも――。
ラインハルトは、そっと息子へ視線を移した。
(この子だから、なのか……)
ラインハルトは長く息を吐き、リューゲンへ向き直った。
「……いえ。カイルにとって、師と呼べる方がいることは……大きなことでしょう」
「…………」
「私が個人的にどう思っているかと、この子に何が必要なのかは、分けて考えるべきでした」
カイルの目が僅かに見開かれる。
ラインハルトは静かに頭を下げた。
「リューゲン様。カイルを、どうかよろしくお願いいたします」
今度はリューゲンが目を瞬いた。
だが、ラインハルトはすぐに顔を上げる。
「ただし、一つだけ」
「何だ?」
「私に向けておられる怒りを、カイルへ向けることだけは絶対にしないと誓っていただきたい」
リューゲンは呆れたように眉を寄せた。
「……アホか」
「何ですって?」
「ガキではあるまいし、そんなことはせん。お前が気に食わんからといって、何故こいつに当たらねばならんのだ」
そう言って、隣に座るカイルの頭へ手を置く。
「こいつはこいつだ。お前とは別の人間だろう」
ラインハルトはしばらくその顔を見つめていたが、やがて肩から力を抜いた。
「……分かりました」
その瞬間、カイルの表情がぱっと明るくなる。
「やった!」
「ふん。最初からそう言えばいいのだ」
リューゲンも満更でもなさそうに口元を吊り上げた。
「師匠!」
「ああ」
二人が嬉しそうに顔を見合わせる様子を見ながら、ラインハルトは僅かに苦笑した。
やはり、少しだけ面白くない。
だが、それを理由に引き離そうとはもう思わなかった。
ひとまず、これで一つ問題は片付いた。
アルフォンスもようやく肩の力を抜き、ほっと小さく息を吐く。
――はずだった。
「……ところで」
カイルが口を開いた瞬間、アルフォンスの胸に嫌な予感が走った。
「何だ?」
「結局、二人って何でそんなに仲悪いんですか?」
「…………」
「…………」
揃って黙り込んだ二人を前に、アルフォンスは思わず目を閉じた。
あまりに直球な聞き方だ。
「何ですか、この沈黙」
カイルが呆れたように見比べると、ラインハルトは眉を寄せ、しばらく考えた末に呟いた。
「……何だったか」
「さあな。昔のことすぎて覚えておらん」
「原因も覚えてないのに、まだ喧嘩してるんですか?」
二人揃って視線を逸らしたのを見て、カイルは小さくため息を吐いた。
「……アホらし」
するとリューゲンが鼻を鳴らした。
「こいつが昔からいちいちうるさいのが悪い」
「あなたが規律を乱すからでしょう!」
すかさずラインハルトも食ってかかる。
「何でも好き勝手に決めて、周りがどれだけ迷惑したと思っているんです!」
「大袈裟な奴だな」
「大袈裟ではありません! 昔、遠征先で夕食が出た時も――」
「何だ?」
「あなたが『今日は訓練がきつかったから肉を多めに盛れ』と勝手に料理係へ指示して、後から来た連中の分が足りなくなったでしょう!」
「さっさと来ん奴らが悪い」
「そういう問題ではありません!」
勢いのついたラインハルトは止まらなかった。
その口調は、いつの間にかリューゲンの背を追っていた若い頃のものへ戻っていた。
「使った物は片付けない。会議では人の話を最後まで聞かない。書類は期限までに出さない!」
「そんなもの別に大したことではないだろう」
「開き直らないでください!」
カイルは呆れ果てたように二人を見た。
「原因は覚えてないのに、文句だけはめちゃくちゃ覚えてるじゃないですか」
「それはこいつが――」
「だからこの方が――」
「もういいです」
二人同時に口を開きかけたところを、カイルが即座に遮った。
「性格が合わないのは分かりました。でも、それだけで何十年も喧嘩します?」
ラインハルトが眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「父上って、なんだかんだ文句を言いながらも、最後には手を貸してくれるじゃないですか。それに、いつまでも怒りを引きずるような人じゃないと思うんですけど」
「何故そう思う?」
そう尋ねたのはリューゲンだった。
「俺がそうだからですよ。片付けろって怒られても、最後まで放っておいたら父上が手伝ってくれるし」
「それはお前がいつまで経ってもやらないからだ」
「ほら」
「何がほらだ」
思わず言い返したラインハルトに、カイルは僅かに笑った。
「だから、師匠がだらしないってだけじゃないと思うんです。もっと別のところで、二人とも譲れないものがあったんじゃないですか?」
少し考えたあと、カイルは続けた。
「例えば……騎士としての考え方とか」
そう言って、まず父へ視線を向ける。
「父上、昔から言ってましたよね。剣は人が選ぶものだって」
ラインハルトの表情が僅かに変わった。
「剣をどう使うかも、何のために振るうかも、その人間が決める。だから、剣を持つ者には責任があるって」
幼い頃から何度も聞かされてきた言葉だった。
カイルは次にリューゲンを見る。
「でも師匠は、剣が人を選ぶって言う」
リューゲンは黙ったまま続きを待っていた。
「父上は、どんなにいい剣でも扱う腕がなければ意味がないって考える。師匠は逆で、どれだけ腕があっても、その腕に見合う剣がなければ意味がないって考えてるんじゃないですか?」
二人とも何も答えなかった。
「見てるところは違う。でも、目指してるところは同じですよね」
「同じ?」
それまで黙って話を聞いていたアルフォンスが、思わず聞き返した。
「この国を守ることです」
その言葉に、二人の表情が僅かに変わった。
目指すものは同じはずなのに、何故ここまで考え方が違うのか。
カイルはしばらく考え、ふとリューゲンの屋敷に並んでいた無数の剣を思い出した。
あの時から、ずっと引っかかっていたことがある。
「……師匠。屋敷に、戦場から持ち帰った剣がたくさんありましたよね?」
「ああ」
「あれ、戦利品として集めてたわけじゃないですよね?」
リューゲンが眉を上げる。
「何故そう思う?」
「戦利品なら、誰から奪ったとか、どんな戦いだったとか、そっちを覚えてそうだからです。でも師匠が見てたのは、持ち主じゃなくて剣そのものだった」
思い返せば、リューゲンはどの剣についても、その造りや特徴をよく覚えていた。
「自分達の剣より折れにくいとか、よく切れるとか。そういう剣を見つけたら持ち帰って、鍛冶師に見せたんじゃないですか?」
リューゲンの目が僅かに細くなる。
「鉄なのか、鍛え方なのか、形なのか。それを調べて、自分達の剣にも使えないか試した」
そこで、もう一つ思い当たった。
「……剣都もそうですよね」
「剣都?」
「師匠に自分の剣を使ってほしくて、国中から鍛冶師が集まった。その鍛冶師達に、戦場から持ち帰った剣も見せてたんでしょう?」
鍛冶師同士が腕を競い、そこへ自国にはない鉄や異なる鍛え方まで持ち込まれれば、技術は自然と磨かれていく。
「だから剣都では、剣の改良が一気に進んだ」
しばらく黙っていたリューゲンが、僅かに口元を緩めた。
「……よく分かったな」
世間では悪趣味な収集癖と噂されることもあったが、何も説明せずにその真意を見抜いたのは、カイルが初めてだった。
「やっぱり」
カイルは少し身を乗り出した。
「師匠、昔のこの国の剣は折れやすかったって言ってましたよね?」
「ああ」
「だったら師匠にとっては、まず〝自分の腕についてこられる剣〟が必要だったんじゃないですか?」
戦場で剣が折れれば、どれだけ腕が立っていても命に関わる。
カイル自身、アイアーベアとの戦いで剣を折られた瞬間の絶望を知っていた。
「師匠は、腕があっても剣が駄目なら死ぬ時代を知ってる。でも父上が騎士になった頃には、もう剣はかなり改良されてたんじゃないですか?」
ラインハルトは頷き、静かに答える。
「ああ。私が騎士になった頃には、戦いの最中に折れることなど、そうそうなかった」
「ですよね。剣が十分に使えるものなら、次に大事になるのは使う人間の方です」
カイルは二人を交互に見た。
「だから、同じところを目指してても、見てきた時代が違う。それで、大事にするものもズレたんじゃないですか?」
しばらくの沈黙のあと、リューゲンが低く答えた。
「……そうだ」
先ほどまでの軽さは、その声から消えていた。
「わしは昔、こいつに言われたことがある。剣など、どれでもいい。結局は使う者次第だとな」
ラインハルトの指が、紅茶のカップに触れたまま止まる。
「剣が折れた時の恐怖も知らん人間に、あまりにも簡単に言われた。それが気に食わなかった」
ラインハルトは目を伏せた。
自分が言いたかったのは、剣よりも、それを扱う人間の意思や技量が重要だということだった。
だが、リューゲンにはまるで違う意味で届いていたのだ。
「それに、決定的なことがあった」
リューゲンは一度言葉を切り、ラインハルトを見た。
「お前が副団長だった頃の、あの訓練だ」
ラインハルトの表情が強張った。
「あの時、わしは古い剣の使用を控えるよう言ったはずだ」
当時、騎士団では若い騎士達を対象に、実戦を想定した訓練が計画されていた。
その日、リューゲンは別の任務で不在にしており、訓練の指揮は副団長のラインハルトに任されていた。
訓練当日の朝、部下が武器庫から運んできた剣を見て、ラインハルトは眉を寄せた。
それは以前、リューゲンから使用を控えるよう言われていたものだった。
『待て。その剣は使わない方がいい』
『え? ですが副団長、こちらをご覧ください』
部下が差し出したのは、武具の点検記録だった。
そこには担当者の署名とともに、異常なしの文字が並んでいた。
交換時期も、まだ先である。
『……点検は済んでいるのか』
『はい。すべて使用可能となっています』
ラインハルトは改めて剣を見た。
古いものであることは確かだが、目立った破損は見当たらない。
リューゲンは昔から剣に関して非常に細かかった。
僅かな違いにも拘り、気になるものがあればすぐに鍛冶師を呼びつける。
武具の更新を求め、予算を管理する役人達と衝突することも珍しくなかった。
今回も、新しい剣を導入したいがために、少々大袈裟に言っているのではないか。
そんな考えが頭を過ぎった。
『……分かった。使用を許可する』
その判断が、事故を招いた。
訓練中、激しく打ち合った剣の一本が突然折れたのである。
折れたのは、刃を潰した訓練用の剣だった。
本来、真剣のように斬りつけるためのものではない。
だが、鋭い刃がなくとも、金属の塊であることに変わりはなかった。
剣を握っていた若い騎士は防御の態勢を崩し、相手の訓練剣を腕に受けた。
鈍い刃でも勢いよく打ち込まれれば皮膚は裂ける。
幸い傷は深くならなかったものの、訓練は即座に中断された。
知らせを受けて駆けつけたラインハルトは、血の滲んだ腕を押さえる部下を前に言葉を失った。
点検では異常なしだったはずなのに。
その疑問を抱えたまま、まずは負傷者の治療を優先させた。
数日後、任務から戻ったリューゲンは事故を知ると、すぐにラインハルトを呼び出した。
『何故、あの剣を使わせた?』
『……点検記録では異常なしとされていました。交換時期にも達しておりません』
『点検記録?』
『はい。担当者の署名もあり、規定上は使用可能な状態でした』
リューゲンの眉間に深い皺が刻まれた。
『……あれは簡易点検だ。目に見える傷や亀裂を確認するだけのものだぞ』
『……え?』
『内部の傷みまで分かるものではない。わしが使用を控えろと言ったのは、剣を打ち合わせた時の音がおかしかったからだ』
以前、リューゲンはその剣を別の剣と軽く打ち合わせ、響きの違いに気付いていた。
長年、戦場で剣を使い続け、折れるのが当たり前だった時代を生きてきたからこその違和感だった。
『だから、交換を求めておったんだ』
『……そんな』
ラインハルトは言葉を失った。
その後、事故の原因について騎士団内で話し合いが行われた。
『副団長は規定に従っただけです。責任はありません』
『剣そのものより、扱う者の技量に問題があったのでは?』
『熟練した騎士であれば、異変に気付けたかもしれません』
周囲からは、ラインハルトを庇う声が次々と上がった。
名門グランツ家の出身であり、副団長という立場にある彼を責めるより、負傷した騎士の技量を問題にする方が、周囲にとって都合がよかったのだろう。
ラインハルトは、すぐにそれを否定した。
『待ってください。訓練の実施を認めたのは私です。彼だけに責任を負わせるつもりはありません』
部下に責任を押し付けるつもりなどなかった。
しかし、周囲の言葉を聞けば聞くほど、どうしても頷ける部分があった。
剣を扱う者ならば、その状態を見極める目も必要ではないのか。
どれほど優れた剣であっても、使い手の判断一つで結果は変わる。
――やはり、剣を選ぶのは人間なのだ。
そう考えることで、ラインハルトは自分の信じてきたものが間違っていなかったと、どこか安堵していた。
だが後日、改めてリューゲンに呼び出された際、その考えを根底から揺さぶられることになる。
『……今後の剣の運用について、話しておかねばならんな』
『ですが、あれは事故です』
口にした直後、しまったと思った。
部下が怪我をしたことを軽く考えているわけではない。
それでも、周囲から繰り返し聞かされた言葉が、頭から離れなかった。
『……何だと?』
『点検は規定通りに行われていたはずです。それに、剣を扱う者ならば、異変に気付くことも必要なのではありませんか』
リューゲンの目が細くなった。
『……ほう。では、お前は今回の件を、あの騎士の未熟さが招いたものだと言いたいのか?』
『そうではありません! 使用を許可したのは私です。責任を逃れるつもりなどありません』
ラインハルトは即座に否定した。
実際、負傷した騎士のもとへは何度も足を運び、謝罪を重ねていた。
必要であれば処分も受けるつもりだったし、部下に責任を押し付けるつもりなど毛頭なかった。
だが、規定に従って判断したことまで、間違いだったとは思えなかった。
『……ならば、一つ聞こう』
リューゲンは、真っ直ぐにラインハルトを見据えた。
『怪我をしたあの騎士は、自分でその剣を選べたのか?』
『…………!』
『剣を選び、訓練に使うと決めたのは誰だ?』
ラインハルトは答えられなかった。
あの剣を運んできたのは部下だった。
だが、使用を許可したのは自分だ。
若い騎士には、与えられた武具を使う以外の選択肢などなかった。
『……私です』
『そうだ。お前が使用を認めた。剣を扱う者の判断が重要だと言うのなら、お前自身の判断はどうだった? あの剣を、自分の手に取って確かめたのか?』
『……いいえ』
『何故だ?』
『……見た限りでは傷もなく、点検記録にも異常なしとありましたので』
『点検した者が見落としたのかもしれん。そもそも、点検の仕方そのものが足りんのかもしれん』
『……ですが、点検は規定通りに行われて――』
『だから、その規定が十分だったのかを考えねばならんと言っておる!』
リューゲンは鋭い目を向けたまま、続けた。
『わしは以前、あの剣の使用を控えるよう告げた。それでも使うつもりなら、何故そう言ったのか、まずは十分に確かめるべきだったのではないか!』
ラインハルトは反論できなかった。
『お前は真面目だ。規律を守り、責任を果たそうとする。だが、規律は誰かが決めたものだ。その誰かが間違っていたら、どうする?』
『……ですが、皆がそれぞれ規律を疑い始めれば、組織は成り立ちません!』
『疑うことと、勝手に破ることは違う! 何故そう言われたのか調べろ。必要なら上に掛け合え。お前は、そのための立場におるのだろう!』
ラインハルトは拳を握った。
幼い頃から規律を重んじ、騎士となってからも、それを誰より厳しく守ってきた。
上に立つ者が規律を軽んじれば、部下達が迷う。
だからこそ、自分は正しくあろうとしてきたのだ。
それなのに、目の前の男は、その信念そのものが間違っていると言っているように聞こえた。
『何故、規律を守ることが悪なのですか!』
リューゲンの表情から、怒りが消えた。
『……そうか。お前は、規律を守ったんだな』
そして、静かに問いかけた。
『だが、その規律は部下を守ってくれたか?』
ラインハルトは息を呑んだ。
『……ラインハルト。規律より先に、お前は人を見ろ。お前が守るべきなのは、紙に書かれた決まりではない。その先にいる人間だ』
何も答えられなかった。
自分が信じてきたことを否定された怒りと、反論できない悔しさが入り混じり、ラインハルトはただ唇を噛み締めた。
リューゲンはしばらく返事を待っていたが、やがて背を向けた。
『……もう、好きにしろ』
その背中を見つめながら、ラインハルトは自分が見限られたのだと思った。
それ以来、二人の間には深い溝が残ることになった。
◇ ◇ ◇
「……あの時、あなたの仰ったことは正しかった」
過去を語り終えたリューゲンに、ラインハルトは静かにそう告げた。
「あの事故のあと、私は武具の点検方法と交換基準を見直しました。ですが、それは事故が起きる前にすべきことだったのです」
事故で負傷した騎士は、現在もラインハルトの部下として働いていた。
幸い騎士としての務めに支障はないものの、腕にはあの日の傷が残ったままだ。
時折、袖口から覗くその傷跡が、ラインハルトに自分の判断を思い出させる。
「……あの日のことを、忘れたことはありません」
それまで黙って聞いていたリューゲンは、しばらくラインハルトを見つめていた。
「……わしも、あの時は口で言えば分かると思っておった。危険だと感じたのなら、正式に使用を止めるべきだったし、何故そう判断したのか、お前にもきちんと説明しておくべきだったな」
リューゲンにとって、剣の僅かな異常を見抜くのは、長年の経験で身についた感覚だった。
だが、それを誰もが持っているわけではない。
自分が気付いた危険を周囲へ正しく伝えられなければ、意味がないのだ。
「お前には恵まれた家柄があり、剣の腕も、頭の良さもあった。だが、どれほど優れたものを持っていようと、自分の考えに固執しすぎれば、いずれその全てを台無しにしかねん」
リューゲンはそこで一度言葉を切った。
「……だからこそ、お前には分かってほしかったんだ」
ラインハルトはすぐに答えられなかった。
あれほど厳しかった叱責の裏に、自分への期待があったとは考えもしなかったのだ。
「……だから、あの後『好きにしろ』と仰ったのですか?」
「ああ。あの頃のお前は頑固だったからな。何を言っても意地になるばかりで、わしの言葉など聞こうとせんかった。だが、見放したわけではない。お前なら、いつか自分で気付くだろうと思っておった」
あの日以来、リューゲンはラインハルトの考えにほとんど口を出さなくなった。
厳しい叱責さえなくなったことが、当時のラインハルトには何より堪えた。
叱られるうちは、まだ自分を見てくれている。
そう信じていたからこそ、突然の沈黙を見限られた証だと受け取り、リューゲンへの反発をいっそう強めてしまった。
「……そう、だったのですか」
長年抱えてきた誤解が、一つ解けた。
しかし、もう一つだけ、どうしても聞かずにはいられないことがあった。
「……なら、何故引退されたのですか?」
ラインハルトの問いに、リューゲンが目を向けた。
「まだ、これからだったではありませんか。あなたは……私達に何も告げず、突然いなくなった」
リューゲンが引退したという知らせは、あまりにも突然だった。
それまで当たり前のようにいた男が、次の日からはもう騎士団にいない。
訓練場に響いていた叱責も、慣れ親しんだ姿も、すべてが急に遠いものになってしまった。
リューゲンはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「……平和になって、わしの役目も終わったと思ったんだ。戦が終わり、剣も良くなった。わしが戦場で覚えてきたことも、若い連中が当たり前のように使う時代になった」
リューゲンは、かつて剣が折れるたびに失われていった仲間達の顔を思い浮かべた。
「わしがおらんでも、騎士団は動く。そう思ったら、急に居場所がなくなったような気がしてな」
リューゲンは肩をすくめ、いつものように笑ってみせた。
「……退屈になった。それだけだ」
「……それだけ?」
ラインハルトの声が低くなった。
「あなたにとっては、それだけのことだったのですか……?」
ラインハルトは、胸の奥に押し込めていた思いを、もはや抑えきれなくなっていた。
「私は……あなたが突然辞められたから、団長になったようなものです。ある日、あなたがいなくなり、私の前には団長の席だけが残されていた。何の準備もできていないまま、私はその席に座ることになったのです」
団長として過ごした九年間、最後の判断を下すのは常に自分だった。
部下の命に関わる決断も、騎士団の未来を左右する問題も、誰かに委ねるわけにはいかなかった。
「この九年、私は何とかやってきました。判断に迷うたび、あなたならどうしただろうと考えながら……」
そこまで言って、ラインハルトは言葉を止めた。
本当に胸につかえていたのは、団長としての苦労ではなかった。
「……私は、まだあなたに教わりたかったんです」
その一言に、リューゲンの表情が僅かに変わった。
「剣のことも、騎士団のことも……聞きたいことが、まだいくらでもあった。それなのに、あなたは何も言わずにいなくなった。せめて一言、私に話してくださってもよかったではありませんか!」
一度口にしてしまえば、もう止まらなかった。
「私は、あなたに追いつきたかった。いつか肩を並べて、騎士団のこれからを話せるようになりたかったんです」
これほど長い年月が経っても、あの日のことを思い出せば、胸の奥に残っていた悔しさが蘇る。
「なのに……あなたは、私を一度も認めることなく、いなくなってしまった」
名門グランツ家の人間として、誰よりも立派な騎士になるよう求められてきたラインハルトが、心から憧れたのは、家柄など気にも留めず、剣一本で道を切り開いてきた目の前の男だった。
「一度くらい……」
ラインハルトは俯きかけた顔を上げた。
「一度くらい、よくやったと……言ってほしかったんです」
その言葉を最後に、ラインハルトは口を閉ざした。
リューゲンは、目の前の男を見つめていた。
あれほど規律を重んじ、何を言っても食い下がってきた若者が、自分のいなくなったあとも、ずっとその背を追い続けていた。
「……そうか」
しばらくして、リューゲンが口を開いた。
「わしが辞めたことを、そんなふうに思っておったのか」
自分は、必要とされなくなったと思っていた。
だが、少なくとも目の前の男にとっては、そうではなかったらしい。
リューゲンは苦笑した。
「……わしは昔から口下手だな」
そして、ラインハルトへ向き直った。
「……すまなかった」
ラインハルトはしばらくリューゲンを見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……私こそ、これまでの数々の無礼、誠に申し訳ございませんでした」
アルフォンスは、そんな二人を見ながらほっと息を吐いた。
昨日まで、顔を合わせれば衝突していた二人である。
それが今、互いに頭を下げている。
長年二人を知る者として、感慨深いものがあった。
思わず胸が熱くなり――。
ボリッ。
妙に大きな音が響いた。
アルフォンスが横を向くと、カイルが何食わぬ顔でクッキーを齧っていた。
「……カイル?」
「ん?」
当の本人は、何故自分が見られているのか分からないといった様子で首を傾げる。
リューゲンが呆れたように眉を寄せた。
「……お前な。今、食う必要があったか?」
「いや、美味しそうだったんで」
そう言って、カイルは悪びれもせず、もう一枚へ手を伸ばす。
ラインハルトはその姿に深々と息を吐いた。
「……本当に、お前は相変わらずだな」
「昨日もそれ言ってましたよ」
その返事に、アルフォンスはとうとう堪えきれず笑い出した。
つられるようにリューゲンも笑い、最後にはラインハルトまで小さく笑みを零した。
長い間、互いに背を向けてきた二人。
その間に立ち、途切れていた絆を再び繋いだのは、ほかでもないカイルだった。




