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第64話 見知らぬ紋章

「もしかして――暗殺とか得意です?」


カイルからその言葉が放たれた瞬間、クロードの表情が一瞬だけ固まった。


ほんの一瞬。


すぐにいつもの穏やかな表情へ戻ったが、カイルは見逃さなかった。


(……今、固まったよな?)


冗談半分で口にしたつもりだった。


だが、その反応を見た途端、それまで引っかかっていたいくつもの違和感が、カイルの中で一つに繋がり始める。


(いや、待て。もしかして本当に……?)


カイルの目がすっと細くなる。


クロードが何かを隠している。


その疑いだけは、急速に確信へ変わっていく。


カイルの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。


「……カイル?」


その変化に気付いたリューゲンが、怪訝そうに眉を寄せる。


◇ ◇ ◇


一方、その頃。


「んっ……?」


目を覚ましたルークは、空になったベッドを見つめていた。


「……えっ?」


まだ眠気の残る目で辺りを見回すが、どこにもカイルの姿がない。


「坊ちゃん!?」


一気に目が覚めた。


勢いよく椅子から立ち上がると、肩に掛かっていた布団が床へ落ちる。


どうやら眠っている間に誰かが掛けてくれたらしいが、今は気にしている場合ではない。


「坊ちゃん! どこっすか!?」


浴室を覗いても、やはりいない。


昨日、あんなことがあったばかりだ。


それなのに朝になったら、当の本人が忽然と姿を消している。


「まさか……」


嫌な想像が頭を過った。


「何かに呼ばれて、どっか行ったとか……?」


昨夜までなら、そんな話は笑い飛ばしていただろう。


だが昨日、この世界には存在しないはずの魔法のようなものを、ルーク自身が目の前で見てしまった。


しかもカイルなら、何かに呼ばれたところで、興味を持ってついていきかねない。


「坊ちゃぁぁん!」


怖くなったルークは部屋を飛び出した。


「バルドさん! セドリックさん!」


廊下の壁にもたれ、座ったまま眠っていた二人が顔を上げる。


「……んっ、何だ?」


「ルーク……?」


「坊ちゃんがいないっす!」


二人の眠気が一瞬で吹き飛んだ。


「何?」


「部屋にいないんす!」


バルドが立ち上がる。


「便所か風呂じゃねぇのか?」


「いないっす!」


「なら、少し散歩でもしてるんじゃ――」


「何かに呼ばれて連れていかれたのかもしれないっす!」


「……は?」


「昨日の剣っすよ! 昔の持ち主とか、幽霊とか! だって昨日、魔法みたいなの使ったじゃないっすか!」


「分かったから落ち着け!」


「坊ちゃん、そういうの絶対ついていくっす!」


「そこは否定できねぇけど!」


思わずバルドまで声を荒らげる。


その騒ぎに、近くの扉が開いた。


「……朝から何事ですか」


眼鏡を掛けながら、コンラードが顔を出す。


ほぼ同時に、向かいの部屋からクラウスも現れた。


「何かあったのか?」


「カイルがいねぇ。ルークは昨日の剣に連れていかれたとか言ってやがる」


バルドが呆れたように説明すると、クラウスは顎へ手を添えた。


「なるほど。もし剣に何らかの意思が残されていたとすれば――」


「先生は話を広げないでください」


コンラードが即座に遮る。


「可能性の話だ」


「やっぱりあるんすか!?」


「だから落ち着け!」


再びルークが騒ぎ出したところで、ちょうど廊下を通りかかった女性の使用人が足を止めた。


「皆様、どうかなさいましたか?」


「カイルを見なかったか?」


「カイル様でしたら、今朝早くお目覚めになられましたよ。お風呂に入られた後、リューゲン様の朝の鍛錬へ向かわれました」


「…………」


全員の動きが止まった。


「……昨日ぶっ倒れた奴が?」


「はい」


「朝から鍛錬?」


「はい」


バルドのこめかみが引きつる。


一方、ルークは全身から力が抜けるほど安堵した。


「良かったぁ……! 坊ちゃん、生きてた……」


「死んだなんて誰も言ってねぇだろ」


幽霊でもなければ、剣に連れていかれたわけでもない。


自分で起きて、風呂にまで入っている。


それが分かれば、じっとしている理由はなかった。


「とにかく行くっす!」


「おい、待て!」


止める間もなく走り出したルークを、バルド達も追いかけた。


屋敷を抜け、鍛錬場へ近付いたところで――。


「だから、さっさと離してやれ!」


リューゲンの怒鳴り声が響いてきた。


「……リューゲン様?」


バルドが思わず足を止める。


続いて、聞き慣れた声が飛んできた。


「師匠、騙されてますよ!」


「アホか!」


「坊ちゃん!?」


間違いない。


少なくとも声を聞く限り、元気ではある。


だが――何かがおかしい。


全員で鍛錬場へ飛び込んだ途端、その場で揃って固まった。


地面には倒れたクロード。


その背中へ膝を乗せ、片腕を後ろへ捻り上げているカイル。


さらに、そのカイルを引き剥がそうと、リューゲンが首根っこを掴んでいる。


「離さんか!」


「ダメです! 暗殺者かもしれないんですよ!」


「違うと言っとるだろう!」


「…………暗殺者?」


バルドが低く呟く。


カイルがこちらを振り返った。


「あ、バルド! ルーク達も! ちょうどいいところに来た!」


「何がっすか!?」


真っ先にルークが聞き返す。


「こいつ、裏組織の人間かもしれない!」


「何で起きて早々そんなことになってるんすか!?」


「王国が師匠を狙ってんだ!」


「はぁ!?」


「師匠は元団長だぞ! 国の秘密なんか山ほど知ってるだろ。それで使用人に紛れて近付いて、邪魔になった師匠を消そうとしてるんだって!」


「お前は朝から何を勝手に話を作っとるんだ!」


リューゲンの怒声が飛ぶ。


しかしカイルは、まるで重大な任務でも背負ったかのように燃えていた。


「俺は師匠を守ってるんです!」


「誰からだ!」


「こいつから!」


「クロードはわしを殺さん!」


「いいや! 絶対そうです!」


実際、カイルはその疑いを抱いた直後、木剣でクロードの膝裏を打って体勢を崩し、そのまま地面へ押さえ込んでいた。


埒が明かない。


バルドは額を押さえ、隣のセドリックへ目を向けた。


「……セドリック」


「はい」


カイルといい、ルークといい、どうしてこいつらは妙な想像に火がつくと一直線なのか。


二人は左右からカイルの腕を掴んだ。


「よし、離れろ」


「カイル、いったん落ち着くぞ」


「ちょっ、何すんだよ! まだ何も分かってねぇんだぞ!」


「それは離してから聞く!」


「待てって! こいつ絶対何かあるから!」


二人がかりで強引に引っ張り、ようやくクロードからカイルを引き剥がす。


昨夜倒れた人間とは思えない暴れっぷりである。


クロードは何事もなかったように立ち上がると、服についた土を払い、乱れた髪を整えた。


「まったく……」


リューゲンが深いため息を吐く。


その傍らで、クロードは静かにカイルを見ていた。


リューゲンを狙う暗殺者というのは、完全な誤解だ。


だが、自分がただの使用人ではないと見抜いた点だけは、外れていない。


どこまで気付いている。


先ほどの一言だけでは判断できない。


下手なことを口にすれば、かえって疑念を深めることになる。


どう切り返すべきか――。


「そもそも、俺だって何となく言ってるわけじゃないからな!」


カイルが声を上げた。


「クロードさん。その腰のやつ、見せてもらえます?」


「腰の?」


「鍵についてる金具の紋章です!」


クロードは僅かに間を置いたものの、拒むことなく腰の金具を外した。


「……こちらですか?」


「それです!」


差し出されたそれを、カイルはすぐに受け取った。


朝日を浴びた小さな石が、深い青から濃いワインレッドへと色を変える。


やはり間違いない。


「ほら!」


カイルはそれを皆へ見せた。


「これ、国から正式に与えられるやつだ!」


コンラードも石を覗き込み、小さく頷く。


「……確かに。国から正式に与えられるものですね」


「ほら!」


カイルは得意げにクロードを見る。


「クロードさん、国の人間なんですよね?」


「……はい」


「だったら、何で師匠のところで使用人なんてやってるんです?」


答えを待ちながら、カイルは石へ目を落とした。


表面には、小さな円を一本の縦線が貫く、ひどく簡素な紋章が刻まれている。


溝には黒い色が入り、その縁だけが朝日を受けて銀白色に光っていた。


「しかも俺、こんな紋章見たことないんですよ」


「だから裏組織だって?」


セドリックが呆れ気味に尋ねる。


もっとも、彼自身もその紋章に見覚えはなかった。


「それだけじゃない。クロードさん、歩いてもほとんど音しないし、戦い方も普通じゃなかった。それにさっき暗殺って言ったら、一瞬固まったんだよ」


「それで押さえ込んだのか?」


バルドが呆れた声を出す。


「だって師匠のすぐ近くにいるんだぞ!」


「だからって普通は押さえ込まねぇよ!」


「何かあってからじゃ遅いだろ!」


再び言い合いが始まりかけた、その時だった。


「……ちょっと待て」


バルドが低い声を出した。


「それ、もう一回見せてみろ」


「これ?」


カイルが石を差し出す。


先ほどはちらりと見ただけだったが、今度はバルドも刻まれた紋章をじっと確認した。


そして、その表情が僅かに強張る。


カイルはすぐに気付いた。


「……バルド?」


「…………」


「お前、これ知ってるのか?」


「カイル」


返ってきたのは、先ほどまでとは明らかに違う低い声だった。


「それ以上、このことには突っ込むな」


「何で?」


「いいから、その人に返せ」


カイルの目が細くなる。


「お前、絶対何か知ってるだろ」


「知らん」


「嘘つけ。今、思いっきり顔引き攣ったぞ」


「気のせいだ」


「俺、そういうの見逃さないんだけど」


「…………」


否定すら返ってこなくなった。


ますます怪しい。


「坊ちゃん」


同じように覗き込んでいたルークが、不思議そうに尋ねる。


「でもこれって、何の形なんすか?」


「何って……」


言われて、カイルは改めて紋章を見る。


国から与えられる紋章は、その意匠を見れば、どんな役目を担う者なのかおおよそ分かるように作られている。


ならば、これにも何か意味があるはずだ。


「……コンラード様。分かります?」


カイルが振り返ると、コンラードも眼鏡の奥から紋章をじっと見つめていた。


だが、やがて小さく首を横に振る。


「いえ。私にも見覚えがありません」


バルドと違い、コンラードは本当に知らないようだ。


彼ですら知らないとなれば、やはり相当に珍しい紋章なのだろう。


カイルは石を摘まんだまま、もう一度じっくり眺める。


剣にも見えない。


盾でもない。


もし本当に秘密組織の紋章なのだとしたら、一体何を表しているのか。


考えてみるが、まるで思いつかない。


「…………」


そこで、カイルの眉間からふっと力が抜けた。


「……いや、やっぱり俺の予想、間違ってるかも」


「何がっすか?」


「裏組織ってやつ」


「何で?」


「だって、これ……肉団子を串に刺したみたいじゃん」


「…………」


クロードの眉間が、ぴくりと動いた。


「ああ……」


ルークも言われて初めて気付いたように紋章を覗き込む。


「確かに肉団子っすね」


「だろ? 裏組織の紋章にしてはダサくないか?」


「肉とは限らないぞ」


横からクラウスも口を挟んだ。


「普通の団子かもしれん」


「確かに。でも、それならあと二つ丸が欲しいかも」


クロードは無言のまま、ゆっくりと息を吐いた。


暗殺者と疑われるより、なぜか今の方が僅かに腹立たしい。


「じゃあ裏組織じゃなかったのか」


すっかり疑いが薄れた様子で、カイルは紋章を眺める。


「でも、使用人やってる謎は解けてないな」


すると横からリューゲンが口を挟んだ。


「わしが頼んだ」


「師匠が?」


「そうだ。王都を離れてからも、何かと国とのやり取りはあるからな。クロードにはその辺りも任せとる」


「ああ……」


それなら話は通る。


元王国騎士団長ともなれば、現役を退いたからといって国との関わりまで完全になくなるわけではない。


その連絡を任せる人間が傍にいるのなら、国から正式な証を与えられていても不思議ではなかった。


「じゃあ、この紋章もそれ関係?」


カイルが石を摘まみ上げる。


「はい」


クロードは一瞬だけ紋章へ目を落とし、何食わぬ顔でリューゲンの話に乗った。


「中央の円は封蝋を。その上下に伸びる線は、それぞれペンを表しております」


「封蝋とペン?」


先ほどまで肉団子に串としか見えなかったが、そう言われてみれば、見えなくもない。


「二本のペンってことは……双方からの連絡って意味ですか? 国から師匠へ送るのと、師匠から国へ返すのと」


「……ええ。そのような意味でございます」


クロードは何食わぬ顔で答えた。


「なるほど」


ようやくすべて腑に落ちたらしい。


カイルは納得したように石を返しかけ――最後にもう一度だけ紋章を見た。


「でも、分かりにくい紋章だな。説明されなきゃ分かんないぞ」


そう言ってクロードへ返すと、カイルはどこか残念そうに息を吐いた。


「やっぱり、そんな裏組織なんているわけねぇか」


「でも、いたら格好いいっすよね!」


ルークが妙に楽しそうな声を上げる。


「表には出ないで、国のためにこっそり動いてる人達とか!」


「ああ。それはちょっと格好いいな」


「身分を隠して誰かを護衛したり、敵のところに潜り込んだりするんすかね?」


「ありそう。表じゃできない仕事を任されてるとか」


「暗殺とかもするんすかね?」


「やっぱするんじゃね? 裏切り者とかを誰にも知られないうちに――」


「もういい。朝飯にするぞ」


リューゲンが強引に話を打ち切った。


「えー、まだ話してる途中なのに」


「そうか。なら、お前は朝飯抜きだな」


「何で!?」


「話の方が大事なんだろう?」


「いえ! もう終わりました! 腹減りました!」


即答だった。


つい先ほどまで存在を疑っていた裏組織への興味も、朝食の前ではあっさり消えたらしい。


カイルはさっさと屋敷へ向かう。


「坊ちゃん、本当に飯食えるんすか?」


「食えるって!」


「気持ち悪くなったらすぐ言うんすよ!」


「分かったから!」


ルークもその後を追い、バルド達も続いていった。


最後に残ったクロードの横で、リューゲンが足を止める。


無言のまま、ぽん、とその肩を叩いた。


「……リューゲン様」


「大変だったな」


もう一度、今度は慰めるように軽く叩かれ、クロードは僅かに目を伏せた。


「……はい」


クロードがどこの誰なのか。


なぜリューゲンの傍にいるのか。


その事情を初めからすべて知っているリューゲンも、まさか弟子があそこまで暴走するとは思ってもみなかった。


それは、襲われたクロード本人も同じだった。


思い返せば、手合わせの最中からカイルは妙に背後へ回り込もうとしていた。


あの時は死角を取るためだと思っていたが――。


(あれは、この紋章を確認するためか……)


長くリューゲンの傍で過ごすうちに、僅かな油断が生じていたのかもしれない。


使用人として不自然に見えぬよう鍵束の金具へ紛れ込ませていたものを、まさか一度の手合わせで見抜かれるとは思わなかった。


クロードは手の中の金具へ目を落とすと、上着を羽織り、紋章ごと内ポケットへ収めた。


カイルは納得したようだった。


少なくとも、今は。


(……今後、あの少年の前では油断できませんね)


何事もなかったように表情を戻し、クロードも屋敷へ向かった。


◇ ◇ ◇


朝食を終える頃には、屋敷の中はすっかり慌ただしくなっていた。


今日からリューゲンもアルテの城へ移る。


その話を長男夫婦が聞かされたのは、つい先ほどのことだった。


突然弟子を取ったと聞かされたかと思えば、今度はその弟子と一緒に城で暮らすという。


「……城に?」


長男はしばらく父親を見つめたまま、言葉を失っていた。


もっとも、止めようとはしなかった。


一度こうと決めた父親に何を言っても無駄なことくらい、長年その息子をやっていれば嫌というほど分かっている。


結局、深いため息を一つ吐いただけで、好きにさせることにした。


衣服や身の回りの品など、当面必要になる物だけが、使用人達の手によって次々と馬車へ運び込まれていた。


その中で、カイルは玄関前に並べられた細長い包みの山に目を留めた。


「師匠。それ全部、剣ですか?」


「そうだ」


「何本持っていくんです?」


「必要な分だけだ」


「だから何本?」


「十二本だ」


「多いな!」


思わず声が出た。


「十二本も必要なんですか?」


「鍛錬用もあれば、試し斬りに使うものもある。それに、お前に使わせる剣も必要だ」


「あ、それなら必要ですね」


「納得するんすか」


横からルークが呆れた声を出す。


「やっぱり坊ちゃんとリューゲン様、似てるっすね」


「どこが?」


「必要って言いながら、気になった物を何でも持っていくところっす」


「俺はそんなことしねぇよ」


「するだろ」


バルドが即座に否定した。


「お前も自宅から魔物の素材をわんさか城に持ち込んでんじゃねぇか」


「必要だからだよ」


「同じじゃねぇか」


「違う!」


そのやり取りを聞いて、リューゲンが豪快に笑う。


そんな彼らの横を、使用人達は荷物を抱えて忙しなく行き交っていた。


ただ一つ、昨夜見つかった古剣だけは扱いが違う。


他の剣とは分けられ、衝撃が加わらないよう厳重に箱へ収められている。


カイルは運ばれていく箱を目で追った。


あの剣がなぜ光ったのか。


自分から何を奪ったのか。


昨夜から考えているが、分からないことばかりだった。


「カイル君」


いつの間にか、クラウスが隣に立っていた。


「あの剣は城へ着いたら詳しく調べよう」


「はい。それは俺もやりたいです」


「それから君の身体も――」


「嫌です」


「まだ何も言っていないぞ!」


「先生の顔見れば分かります! 絶対俺で何か試すつもりでしょ!」


「人を何だと思っているんだ!」


言い合っている間にも準備は進み、やがて最後の荷物が馬車へ収められた。


「リューゲン様。すべて整いました」


クロードの報告に、リューゲンが満足そうに頷く。


「うむ」


その声を聞いたルークが、ふと顔を上げた。


「……クロードさんも来るんすか?」


「はい。リューゲン様が城でお過ごしになる間は、私も同行いたします」


「…………」


ルークの表情が僅かに曇った。


昨日の食事の席で、クロードから向けられた怪訝そうな顔を思い出す。


あの時は気のせいかとも思った。


だが、なぜあんな顔を向けられたのかは、今も分からない。


(この人も来るんすか……)


何となく、やりづらい。


そんなルークの心情など知る由もなく、クロードはいつもと変わらない静かな表情で立っている。


「ルーク?」


「何でもないっす」


不思議そうにするカイルへそう返し、ルークは小さく息を吐いた。


やがて、すべての出発準備が整った。


「では、行くか」


リューゲンの声に、カイル達も馬車へ乗り込む。


馬車が屋敷を離れると、カイルとリューゲンは早速、剣や鍛錬の話で盛り上がり始めた。


その隣では、ルークが向かいに座るクロードを時折ちらちらと窺っている。


二人の話題が尽きる気配もないまま、馬車は街道を進んでいった。


やがて窓の向こうに見慣れた城壁が姿を現す。


アルテの城だ。


城へ到着すると、待っていた使用人達が荷物を次々と運び出していく。


その様子を眺めながら、カイルはこれからのことを考えていた。


古剣の調査に、他の文献の読み解き。


明日からはリューゲンによる本格的な指導も始まる。


やることは山積みだ。


肝心の剣を作るまでにも、まだいくつも越えなければならないものがある。


とはいえ、まずは目の前のことからである。


カイルとルークはそのままリューゲンに割り当てられた部屋へ向かい、荷物の整理を手伝うことになった。


――と言っても。


「おおっ、これ何ですか!?」


「坊ちゃん、それ手伝ってるんじゃなくて漁ってるだけっすよ」


「ちゃんと手伝ってるって!」


次々と出てくる荷物に気を取られるカイルをよそに、クロード達の手で荷解きは着々と進んでいった。


そんな中、クロードが一つの箱から白い軍服を取り出した。


「……お?」


リューゲンが現役時代に着ていた、王国騎士団の軍服だ。


しかも、その胸元には大小さまざまな勲章がずらりと並んでいる。


「すげぇ……。親父でも、こんなに持ってないぞ」


カイルが思わず近寄る。


隣から覗き込んでいたルークも、感心したように目を丸くした。


「やっぱりリューゲン様って、すごい人だったんすね」


「……だった、とは何だ?」


「え?」


リューゲンの低い声に、ルークの肩がぴくりと跳ねた。


「いや、その……今もすごいっす!」


「なら最初からそう言わんか」


「はい……」


カイルが吹き出す横で、リューゲンは不満そうに鼻を鳴らした。


リューゲンが現役だった頃は今より戦も多く、騎士が命を懸けて功績を立てる機会そのものが多かった。


それを差し引いても、この数は尋常ではない。


カイルは改めて白い軍服を見上げた。


自分は、とんでもない人物の弟子になったのかもしれない。


そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。


そんなカイルの横で、当のリューゲンは軍服を見るなり眉を寄せた。


「クロード。お前、それまで持ってきたのか」


「はい」


「置いてくればよかっただろう。もう着ることもない」


だが、クロードは軍服の皺を丁寧に伸ばしながら、静かに答えた。


「これは、リューゲン様の大切なものでございますので」


「…………」


リューゲンは何も言わなかった。


クロードもそれ以上は口にせず、白い軍服を壁際の衣装掛けへ丁寧に掛ける。


その胸元で、いくつもの勲章が小さく揺れた。


そんな調子で荷解きをしているうちに、気付けば昼を回っていた。


「腹減った!」


最後の荷物を置いたカイルが、真っ先に声を上げる。


「お前は朝もしっかり食っとっただろうが」


「朝は朝、昼は昼です」


「元気になった途端これか」


呆れながらも、リューゲンは立ち上がった。


「そういえば、お前達はいつもどこで食っとるんだ?」


「俺達ですか?」


カイルとルークが顔を見合わせる。


「近衛騎士の食堂ですけど」


「そうか。なら、わしもそこで食う」


「えっ」


カイルが目を瞬いた。


「師匠も?」


「何だ。駄目なのか?」


「いや、駄目じゃないですけど……」


元王国騎士団長であるリューゲンが、近衛騎士達の食堂へ普通に昼飯を食べに来る。


その光景を想像した瞬間、カイルの口元がゆっくりと持ち上がった。


「……へへっ」


「何だ、その顔は」


「いやぁ、別に」


「気持ち悪いっすよ、坊ちゃん」


「うるさい」


昨日、リューゲンが訓練場へ来ると知っただけで、近衛騎士達は大慌てで片付けを始めたのだ。


その本人が、今度は何の前触れもなく食堂へ現れる。


(こりゃ、みんな驚くぞ)


「じゃ、行きましょう!」


先ほどまで腹が減ったと騒いでいたことも忘れ、カイルは妙に楽しそうな足取りで部屋を出た。


「何であいつは急に機嫌が良くなったんだ?」


「たぶん、ろくなこと考えてないっす」


「聞こえてるぞ!」


廊下にカイルの声が響いた。


クロードも加わり、四人はそのまま近衛騎士の食堂へ向かった。


そして――カイルの予想は見事に当たった。


リューゲンが食堂へ足を踏み入れた、その瞬間。


ぴたり、と中から音が消えた。


それまで飛び交っていた話し声も、食器の触れ合う音も止まり、何十もの視線が一斉に入口へ集まる。


「……え?」


「リューゲン様……?」


誰かが呆然と呟いた。


「城に住まわれるとは聞いていたが……」


「まさか、ここで食事を取られるのか?」


やがてひそひそと囁き声が広がる中、リューゲンは周囲の反応など気にも留めず、堂々と中へ入っていった。


彼が近くを通るたび、座っていた騎士達の背筋が次々と伸びていく。


カイルはその光景を後ろから眺め、笑いを堪えるように口元を押さえた。


(すげぇ。歩いてるだけで食堂の空気が変わってる)


現役を退いて何年経とうと、やはりリューゲン・フォン・バルガスという名は騎士達にとって別格らしい。


その時、背後から聞き慣れた声が近づいてきた。


「カイル、こんなところで突っ立って何して――」


振り返ると、バルドとセドリックがこちらへ歩いてくるところだった。


そして、カイルの隣にいる人物を認めた瞬間。


「げっ!?」


バルドの口から、思い切り素の声が漏れた。


「何だ、その反応は」


リューゲンが眉を上げる。


「い、いえ! 何でもありません!」


反射的に背筋を伸ばしたバルドを見て、カイルはとうとう吹き出した。


「やっぱり驚いた!」


「うるせぇ!」


「何だよ。そんなに嫌なのか?」


「違っ! 食堂にまで来るとは思ってなかったんだよ!」


小声で怒鳴るバルドの横では、セドリックまでいつになく姿勢を正している。


「カイル、さっさと来んか。飯が冷めるぞ」


「あ、はい!」


呼ばれたカイルは、慌ててその背中を追った。


昨日までなら、ここはいつもの近衛騎士達の食堂だった。


けれど今日からは、そこにリューゲンがいる。


どうやら変わるのは、自分の日常だけではないらしい。


「……ははっ」


今日から、この城はもっと騒がしくなりそうだった。

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