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第63話 怪しい使用人

翌朝。


カイルは、まだ薄暗い部屋の中で目を覚ました。


「ん……」


身体を動かそうとした途端、妙な重さを感じて眉を寄せる。


どこかが痛むわけではない。


ただ、激しい鍛錬をした翌朝のような疲労が、身体の奥に重く残っていた。


何だこれ、と寝返りを打つように横を向き――カイルは目を瞬いた。


「……えっ?」


ベッドの傍らに人影がある。


ルークだった。


椅子へ座ったまま上半身をベッドへ預け、すぅすぅと寝息を立てている。


「……何でここにいるんだ?」


身体を起こして見慣れない室内を見回し、そこでようやく、自分がリューゲンの屋敷へ泊まったことを思い出した。


だが、肝心の昨夜の記憶が途中からない。


「俺……いつ寝た?」


額へ手を当て、昨日の出来事を順番に辿っていく。


古剣の正体に気付き、砂糖を使って試した。


剣が光り、そこから凄まじい風が巻き起こった。


そこまでは覚えている。


ところが、その先だけがまるで切り取られたように綺麗に抜け落ちていた。


「何だこれ……」


何度思い出そうとしても、何も出てこない。


その代わり、また見たあの冒険者の夢だけは、いつもより鮮明に残っている。


まるで一晩中、その世界にいたような気さえする。


彼が魔物と戦う姿を随分長く見ていた。


剣を構え、短い言葉を口にした瞬間、刀身が光った。


昨日の古剣と同じように。


「……呪文か?」


もし、あの言葉が剣の力を引き出すためのものだったのなら、砂糖も形こそ違えど似た役割を果たしたのかもしれない。


ただ、一つ大きな違いがある。


夢の中の冒険者は剣の力を使った後も平然と戦い続けていたのに、自分はたった一度で倒れたらしい。


カイルは右手を開閉しながら、古剣を振った時の感覚を探った。


自分から何かを剣へ流し込んだ――というより、あれはむしろ。


「……吸われた?」


身体の内側から、ごっそり何かを持っていかれた。


そんな感覚の方が近い。


この世界には、魔力なんてないのに、古剣は確かに力を発揮し、代わりになる何かを奪ったと考えるべきなのだろう。


もっとも、今のところ答えを出せるだけの材料はない。


「……これは、ちゃんと調べないと駄目だな」


少なくとも、何も分からないままもう一度試すのは危険だ。


そこまで考えたところで、大きな欠伸が出た。


「ふぁぁ……」


寝起きの頭で考えるには、少々重すぎる話だった。


布団を捲ってベッドから降り、身体の具合を確かめるように肩を回す。


僅かな疲労感は残っているものの、歩くのに問題はなさそうだ。


すぐ傍では、ルークが相変わらず眠っている。


「んん……坊ちゃん……」


小さな寝言が漏れ、カイルの動きが止まった。


改めて見れば、どう考えても楽な姿勢ではない。


一晩中ここにいてくれたのだろう。


「……こいつ」


口元を僅かに緩め、ベッドに残っていた布団をそっとルークの肩へ掛ける。


「風邪引くぞ」


起きる気配はなく、むしろ心地よさそうに布団へ頬を寄せた。


その姿に小さく笑い、カイルは音を立てないよう扉を開け――そこで再び足を止めた。


「…………」


廊下の壁際では、バルドとセドリックまで眠っていた。


二人とも床へ座り込み、壁へ身体を預けたまま目を閉じている。


なぜ、こんなところで寝ているのか。


聞くまでもなかった。


「……俺、何したんだよ」


昨夜、自分がどれだけ周囲を心配させたのか、記憶のないカイルには分からない。


それでも三人の姿を見れば、十分すぎるほど伝わってくる。


申し訳なさと同時に、胸の奥へ妙な温かさが広がった。


今は起こさない方がいいだろう。


そっと扉を閉めようとした時、廊下の先から一人の男が歩いてきた。


昨日、鍛錬場まで案内してくれた使用人だ。


男は壁際で眠る二人と、扉から顔を覗かせているカイルを一瞥しただけで状況を察したらしい。


足音をほとんど立てずに近付き、一礼すると声を落とした。


「お目覚めでしたら、別室にお風呂をご用意しております」


「あ……助かります」


ここで使用人達が出入りすれば、三人を起こしてしまう。


そこまで考えてくれたのだろう。


(気が利くな……)


カイルは着替えを持ち、男の後についていった。


案内された部屋へ入ると、浴槽にはすでに湯が張られ、白い湯気がゆるやかに立ち上っている。


「すぐに整えますので、少しお待ちください」


どうやら、カイルが目を覚ませばすぐ入れるよう、あとは湯加減を整えるだけにしてあったらしい。


男は浴槽の傍らへ屈み、湯へ手を入れる。


その拍子に上着の裾が僅かに持ち上がり、腰から下げた鍵束が覗いた。


いくつもの鍵を束ねる金具の中央には、小さな石が嵌め込まれている。


深い青。


朝の淡い光の中でも、妙に澄んだ色をしていた。


(綺麗な石だな)


一瞬目を奪われたものの、男が身体を起こせば、それもすぐ上着の陰へ隠れてしまう。


男は少し考えてから水を足し、もう一度温度を確かめた。


「お待たせいたしました。これでよろしいかと」


「……早いな」


思わず本音が漏れた。


事前にここまで動けるとは、さすが師匠の屋敷の使用人だ。


「ありがとうございます」


「恐れ入ります」


男が用意していた布を整えるのを眺めているうちに、カイルはふと、まだ名前すら聞いていなかったことを思い出した。


「そういえば、名前聞いてもいいですか?」


男は手を止め、静かに一礼する。


「クロードと申します」


「クロードさんか。昨日も案内してくれて、ありがとうございました」


その言葉に、クロードの目元が僅かに和らいだ。


「カイル様。私は使用人ですので、そのような言葉遣いは必要ございません。どうぞ普段通りにお申し付けください」


カイルは一瞬きょとんとした後、小さく笑う。


「初対面なんで、これでいいです。慣れたら、そのうち勝手に崩れますよ」


「……そうですか」


「じゃあ、お借りします」


「ごゆっくりどうぞ」


扉が閉じた後、クロードはその扉へしばらく視線を向けていた。


グランツ家の三男にして、リューゲンが自ら弟子に取った少年。


どのような人物かと思っていたが、実際に話してみれば、使用人へ当たり前のように礼を言い、敬語を崩せと言われれば「初対面だから」と笑う。


「……やはり面白い方だ」


昨夜、主人へ告げた言葉をもう一度口にして、クロードは静かに扉の前で待った。


◇ ◇ ◇


一方のカイルは、たっぷりと湯を張った浴槽へ身体を沈めていた。


「はぁぁ……朝風呂、最高……」


温かな湯が身体へ染み込み、寝起きから残っていた重さが少しずつ解けていく。


湯加減もちょうど良く、昨夜あれだけ妙なことがあったというのに、こうして浸かっていると、ひとまず全部どうでもよくなってくる。


どれくらいそうしていただろう。


ぼんやりと天井を眺めていたカイルの頭に、ふと昨夜のリューゲンとの会話が蘇った。


――明日の朝、一緒に鍛錬していいですか?


「…………」


ぱちりと瞬きをしてから、ゆっくり窓へ顔を向ける。


すでに空は明るくなり始めていた。


「……マズい!」


勢いよく浴槽から立ち上がる。


「もう始まってんじゃねぇか!?」


自分から参加させてほしいと頼んでおきながら、呑気に朝風呂を満喫していた。


慌てて髪と身体を洗い始めたものの、置かれていた石鹸を手に取ったところで、ふわりと柔らかな香りが鼻をくすぐる。


「……これ、いい匂いだな」


甘さを抑えた、木や香草を思わせる深みのある香り。


自分が今まで作った商品とは少し方向が違う。


(この香り、大人の男向けに売れそうだな。年齢の高い男性を狙うなら――)


「……って、今はそれどころじゃねぇ!」


危うく朝風呂の最中に、新商品の企画を始めるところだった。


急いで身体を洗って浴室を飛び出し、持参した服へ手を伸ばしかけたところで、その隣に見慣れないものが置かれていることに気付く。


綺麗に折り畳まれた、一着の訓練着だった。


「……ん?」


新品に見える。


まさかと思いながら扉へ顔を向ける。


「クロードさん!」


間を置かず、向こうから返事があった。


「はい」


「この服、着ていいんですか?」


「はい。カイル様のためにご用意したものです」


「俺の?」


手に取って確かめても、やはり使われた形跡はない。


「……これ、いつ用意したんですか?」


「昨夜、リューゲン様と朝の鍛錬をなさると伺いましたので」


「昨日の夜から!?」


つまり、夕食での会話を聞いてから用意したことになる。


(仕事早すぎないか、この人……)


感心しながら袖を通し、腕を曲げて肩を回したところで、カイルの動きが止まった。


丈も袖も、肩回りも申し分ない。


「……ぴったりだ」


さすがに不思議になり、扉越しに尋ねる。


「クロードさん、俺の服の寸法なんて知ってたんですか?」


「いいえ」


「じゃあ、何でぴったりなんです?」


「おおよそ、そのくらいかと」


「見ただけで!?」


「はい」


返ってくる声は、あくまで平然としている。


風呂といい、服といい、何もかもが妙に早い。


一晩のうちに新品の訓練着を用意したばかりか、見ただけで寸法まで当ててしまった。


(……この人、ちょっと怖いくらい仕事できるな)


普段から人のどこを見ているのだろう。


一瞬そんな疑問も浮かんだが――。


(まあ、いいか……)


考えている場合ではない。


「助かりました!」


「お役に立てたのであれば何よりです」


手早く身なりを整えながら、カイルは一番気になっていたことを尋ねた。


「師匠はもう鍛錬始めてます?」


「はい。日の出前からですので、もうしばらく経っております」


「そんな早ぇの!?」


思わず素が出た。


「リューゲン様は昔から朝が早いですので」


「くそっ、完全に出遅れた!」


「ですが、今朝はいつもより長く鍛錬なさると仰っておりました」


その言葉に、服の襟を整えていた手が止まる。


「……もしかして、俺が起きるの待ってくれてる?」


「さて。直接お尋ねになられてはいかがでしょう」


「そうですね!」


身支度を終えるなり、カイルはクロードの後ろを急いで追った。


「師匠、怒ってるかな……」


「どうでしょう」


「そこは大丈夫って言ってくださいよ」


「私からは何とも」


「クロードさん、意外と冷たいな!」


今度こそ、クロードは小さく笑った。


◇ ◇ ◇


鍛錬場が見えてくると、カイルは最後の数歩を駆けた。


「師匠!」


中央には、すでに一通り身体を動かし終えたらしいリューゲンが立っていた。


額には汗が浮かび、首へ掛けた布で顔を拭っている。


「起きたか」


カイルの姿を確認すると、リューゲンは安心したように頬を緩めた。


「すみません、遅れました!」


「構わん。それより身体は大丈夫なのか?」


「少し身体が重いくらいで、もう大丈夫です」


「そうか。昨日はあの剣を振った直後にぶっ倒れたからな」


「やっぱり、俺、倒れたんですね」


「……やっぱり?」


リューゲンが眉を寄せる。


カイルは困ったように頭を掻いた。


「実は、何も覚えてないんですよ。剣を使ったところまでは覚えてるんですけど、その後が綺麗に抜けてて」


「何だと?」


「気付いたら今朝、ベッドで寝てました」


「お前な……」


呆れた声を漏らしながらも、リューゲンはカイルの様子を改めて確かめる。


「本当に大丈夫なんだろうな?」


「はい。少し動いて確かめてみます」


「なら、まず身体を温めろ。無理はするな。寝起きでいきなり剣を振るなよ」


「はい!」


カイルは鍛錬場の外周へ向かって走り出した。


最初は軽く、身体が温まるにつれて少しずつ速度を上げていく。


途中で腕を回し、足首や腰の具合も確かめたが、妙な痛みもなければ息苦しさもない。


最後の一周だけ速度を上げ、そのままリューゲンのところへ戻る。


「大丈夫そうです!」


「そうか。では少し剣も振ってみろ」


「はい!」


返事をして腰へ手を伸ばし――そこで動きが止まった。


「……あ」


「どうした?」


「木剣、部屋に忘れました」


「お前な……」


朝から二度目の呆れた声だった。


「取りに戻ってきます!」


「待て。そこにあるのを使え」


リューゲンが壁際を顎で示す。


「借りていいんですか?」


「好きなのを選べ」


「ありがとうございます!」


並べられた木剣から一本を取り、握りと重さを確かめる。


普段使っているものより僅かに重いが、問題はない。


何度か軽く振ってから、カイルは木剣を握り直した。


「よし」


「問題なさそうだな。ならば、軽く手合わせといこう」


「はい!」


「昨日はわしが相手をしたからな。今日は少し離れたところから、お前がどう戦うのか見てみたい」


「離れて?」


「ああ。相手が変われば、お前の戦い方がどう変わるのかもな」


「じゃあ、誰とやるんです?」


リューゲンの視線が横へ動いた。


「クロード」


「はい」


「カイルの相手をしてやれ」


「承知いたしました」


カイルは思わずクロードを見た。


(あの人と?)


貴族家に仕える使用人の中には、主人や屋敷を守るため、戦闘訓練を受けている者もいる。


昨日だって、鍛錬場へ急いでいた自分をクロードは平然と追い抜いていた。


リューゲンがわざわざ相手に選ぶ以上、何か意味があるのだろう。


(どんな戦い方するんだろう)


疑問がそのまま好奇心へ変わり、自然と目がクロードを追う。


そんなカイルを眺めながら、リューゲンは口元を僅かに緩めた。


昨日、自分との手合わせでも、カイルは相手の動きをただ受けるのではなく、なぜそう動くのかを考え、使えるものならその場で自分の剣へ取り込もうとしていた。


ならば、まるで違う剣をぶつけた時はどうなる。


何を見て、どう考え、何を持ち帰るのか。


昨日は相手をしながら見るしかなかったが、今日は外から観察できる。


師となった以上、弟子の癖を知っておくのも悪くない。


クロードは前へ出ると上着を脱ぎ、鍛錬場の脇へ置いた。


壁際から一本の木剣を選んで握りを確かめる仕草にも、迷いはない。


「よろしくお願いします」


カイルが頭を下げると、クロードも静かに応じた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


二人が距離を取る。


クロードの剣先は低く、足幅も狭い。


一見すると隙だらけにも思えるほど、全身から余計な力が抜けていた。


(……変な構えだな)


少なくとも、騎士学校で見慣れたものとは明らかに違う。


「始め!」


リューゲンの声と同時に、クロードが動いた。


真正面から踏み込まず、斜めへ身体を滑らせるようにして、一気にカイルの側面へ入る。


狙いは手首。


木剣で受けると乾いた音が響いたが、押し合いにはならない。


クロードは触れた剣を滑らせるように外し、正面から消えるように位置を変えると、今度は喉へ切っ先を走らせた。


「おっ」


カイルは身体を捻って躱し、そのまま打ち返す。


クロードはそれすら力で受けず、横へ流して再び正面から外れた。


数合交えただけで、カイルはその剣に覚えた違和感の正体を掴み始める。


(これ、騎士の剣じゃないな)


急所を狙うからではない。


昨日のリューゲンだって、喉や手首を平然と狙ってきた。


違うのは、その前後にある動きだった。


クロードは正面から打ち勝とうとせず、死角へ入り、武器を封じ、足を止める。


届かないと判断すれば無理に振ることさえせず、すぐ別の位置へ移って次の機会を作る。


(相手を倒すっていうより……動けなくするための剣か)


面白い。


気付けば、カイルの口元には笑みが浮かんでいた。


離れた場所から見ていたリューゲンも、その変化を見逃さない。


(始まったな)


カイルの視線が、明らかに変わっている。


追っているのは剣先だけではない。


肩の向き、腰の捻り、踏み込む直前の足先まで、クロードが動き出す前に生じる小さな変化を拾っていた。


昨日は自分も剣を振るう側だったため、ここまで細かく見る余裕はなかった。


外から眺めて初めて、カイルがどうやって相手の動きを盗んでいるのかが見えてくる。


クロードが踏み込み、肩へ木剣を走らせた。


カイルは待ち構えていたように軌道を逸らし、そのまま下から剣を跳ね上げる。


クロードが身を引いた。


追えば届く距離だったが、カイルはあえて追わず、再び間合いを取って相手を見る。


その時、クロードの腰元で何かが揺れた。


(……あ)


上着を脱いだことで露わになった、腰から下げた鍵束。


さっき浴室で見た青い石だ。


ただ綺麗なだけではなく、なぜか引っかかるものがあった。


どこかで見た気がする。


クロードの攻撃を受け流し、その勢いを使って横へ抜け、さらに一歩踏み込んで背後へ回る。


その瞬間、差し込んだ朝日が石を直接照らした。


「……!」


深い青だった石が、光を受けた途端、濃いワインレッドへ変わる。


その色を見た瞬間、引っかかっていた記憶が一気に繋がった。


(親父の指輪についてる石と同じだ)


王国騎士団長である父ラインハルトが身につけている、騎士の称号を表す指輪。


普段は深い青なのに、陽の光を受けると驚くほど鮮やかな赤へ変わる。


剣を腰に下げ、騎士団の制服を纏った父。


その手にある、不思議な色の石。


幼い頃のカイルにとって、ラインハルトは紛れもなく憧れの騎士だった。


だから、エルマーに尋ねたことがある。


『なあ、エルマー。父上と同じ指輪って、どこで売ってるんだ?』


『同じ指輪?』


『ほら、青い石がついてるやつ。光が当たると赤くなるやつ!』


カイルは、本気でどこかに売ってあるものと思っていた。


父と同じものが欲しい。


理由など、それだけで十分だった。


ところが、エルマーは困ったように笑った。


『残念だけど、あれは売ってないぞ』


『何で?』


『王国が管理してる特別な鉱石だからだ』


『王国が?』


『そう。国に正式に雇われている者へ、その所属や立場を示す証として使われる特別な石だ。普通の店には絶対に並ばない』


『じゃあ、買えないの?』


『買えないな』


『……金貯めても?』


『いくら貯めても無理だ。騎士になるまで待て』


あの時は、本気でがっかりした。


金さえ貯めれば、いつか父と同じものを持てると思っていたのだ。


だからこそ、その石の特徴もよく覚えている。


光の強さによって、これほど極端に色を変える鉱石は、他にはない。


(じゃあ、クロードさん……国に雇われてる人なのか?)


石を持っているのは、騎士に限られたことではない。


文官や役人をはじめ、王国に正式に仕える者にも、それぞれ所属を示すものがある。


刻まれた紋章によって、どこに属する人間なのかが分かる仕組みになっている。


指輪として支給されるものもあれば、ネックレスやブローチとして身につけるものもあり、その形は所属する機関によって異なる。


もっと確かめたいところだが、今は手合わせの最中だ。


クロードが振り返り、木剣を繰り出してくる。


カイルは身体を反らして躱しながら、もう一度腰元へ目を向けた。


表面に彫られていたのは、小さな円。


その中央を、一本の線が上下に貫いている。


溝には黒い色が入り、その縁だけが朝日を受けて銀色に光っていた。


(銀色の縁……)


それを見た瞬間、さらに昔の記憶が蘇る。


父と同じ指輪をどうしても諦めきれなかったカイルは、当然のように食い下がっていた。


『じゃあさ、似た石で作ればいいだろ?』


『お前、そんなに欲しいのか』


『欲しい』


『即答だな……』


エルマーは笑いながら首を振った。


『見た目だけ似せても、すぐ偽物だって分かるぞ。あの石の色の変化は真似できない』


『じゃあ、本物の石を一個だけ――』


『どこから持ってくる気だ』


『例えばの話!』


『お前の“例えば”は怖いんだよ』


それでもカイルが食い下がると、エルマーは根負けしたように続きを教えてくれた。


仮に本物の石を手に入れられたとしても、それだけでは証にはならない。


石そのものが非常に硬く、普通の道具では精密な紋章を彫ることすら難しいうえ、染料や顔料も定着しない。


王国には専用の加工法があり、特殊な薬品を使うことで初めて細かな紋章を刻み、その溝へ色を定着させられるのだという。


それ自体が、偽造を防ぐ仕組みになっていた。


『本物か見分けたいなら、石の色と紋章、それから彫ったところの縁を見ればいい』


『縁?』


『正式な加工をすると、石そのものが少し変質して、そこだけ銀色になるらしい』


『何で?』


『そこまでは知らん。王国の加工法だからな』


カンッ!


木剣同士がぶつかり、意識が現在へ引き戻される。


もう十分だった。


色の変化。


精密に刻まれた紋章。


そして、溝を縁取る銀色。


三つ揃えば、見間違えようがない。


(本物だ)


クロードは、王国に正式に雇われている人間だ。


ならば次に気になるのは――あの紋章が何を意味しているのか。


王国騎士団なら、剣を意匠にした紋章。


文官にも、それぞれ所属する部署を示す印があり、役人も同様だ。


王国に雇われ研究を行う学者達にも所属を示すものがあり、クラウスの場合は、細い鎖のついた、コインを一回り大きくしたような円形の身分証だ。


表面には、開いた本から若枝が伸びる、学者を示す紋章が刻まれている。


騎士学校では、そうした王国の主要な機関や職務、その紋章についても一通り学んでいる。


それでも、小さな円を一本の線が貫くような印は記憶のどこにもなかった。


(何の仕事してる人なんだ?)


しかも、そんな人物がなぜリューゲンの屋敷で使用人をしているのか。


謎は深まるばかりだが、考えている間にもクロードは攻めてくる。


今度は正面から来たと思わせ、間合いへ入る寸前で身体の軸をずらした。


カイルもその動きに合わせて足を運ぶ。


直後、クロードの眉が僅かに動いた。


カイルが使ったのは、つい先ほど自分が見せた足運びだった。


「今の、いいですね」


楽しそうに言われ、クロードは一瞬返答に困った。


普通なら、相手に攻め込まれれば警戒する。


ところが目の前の少年は、新しいものを見つけるたびに喜び、次の瞬間には自分で試そうとしてくる。


離れて見ていたリューゲンが、にやりと笑った。


(やはり盗み始めたか)


昨日と同じだ。


見た動きを自分の身体で試し、使えると判断したものから取り込んでいく。


クロードもそれに気付いたらしい。


同じものを見せまいと速度をずらし、フェイントを混ぜ、同じ踏み込みから別の攻撃へ繋げ始めた。


それでも、カイルは楽しそうだった。


むしろ動きが増えるほど、目の輝きまで増している。


やがてクロードの脇が空いた。


打ち込める。


だが、カイルは行かない。


次に手首を狙える瞬間が訪れても、やはり見送った。


「…………」


リューゲンは黙って二人の攻防を追い、やがて気付いた。


(こいつ……勝負を終わらせる気がないな)


昨日はリューゲンの攻撃を凌ぐだけでも精一杯だったが、今日は違う。


カイルには明らかに余裕がある。


だからこそ勝つことを急がず、クロードから一つでも多くの動きを引き出すことを優先しているのだ。


「欲張りな奴だ」


思わず笑いが漏れた。


とはいえ、このままではいつまで経っても終わりそうにない。


「カイル!」


「はい?」


「もう十分だ。さっさと片をつけろ!」


「えー……まだ見てない動きありそうなんですけど」


「後でいくらでもやらせてやる!」


「本当ですか?」


途端に目を輝かせた。


「いいから終わらせろ!」


「了解!」


返事と同時に、空気が変わった。


それを真っ先に感じ取ったのは、正面にいたクロードだった。


「――っ!」


先ほどまでとは踏み込みからして違う。


鋭く打ち込まれた木剣を受けた瞬間、クロードの腕が弾かれた。


すぐ横へ逃れたものの、その先にはすでにカイルがいる。


逆へ切り返しても、また先回りされた。


さらにカイルは正面へ踏み込むと見せて、僅かに軸をずらした。


一瞬、その姿がクロードの視界から外れる。


直後、死角から木剣が跳ね上がった。


戻そうとした剣は間に合わない。


ぴたり。


切っ先が喉元で止まる。


「…………」


実戦なら、終わっている。


決着は、あまりにもあっさりとついた。


クロードの額から、たらりと汗が流れる。


カイルは何事もなかったように木剣を引くと、先ほどまでの鋭さが嘘だったかのように頭を下げた。


「ありがとうございました。すごく勉強になりました」


僅かな沈黙の後、クロードも木剣を下ろした。


「……参りました」


ある程度は渡り合えていると思っていた。


だが、違った。


カイルは勝てなかったのではない。


より多くの動きを見るため、勝負を終わらせなかっただけだ。


そして終わらせろと言われた途端、自分が見せた動きまで利用して、一気に勝負を決めた。


騎士学校の学生。


まだ十六歳。


そんな肩書きから、どこかで侮っていたのかもしれない。


一方のカイルは、勝敗とはまるで別のことを考えていた。


(……クロードさん、何者なんだ?)


戦い方からして、騎士ではない。


だからといって傭兵とも違う。


剣都へ向かう旅で何度も手合わせしたが、彼らとは明らかに剣の性質が違ったし、そもそも傭兵なら王国に属する証を持っている理由がない。


ならば、騎士とは別に治安維持を担う警備隊や憲兵か。


それとも、使用人としてリューゲンを守るために身につけた戦闘方法なのか。


(ますます謎だな……)


ただの使用人なら、なぜ王国に正式に雇われた者だけが持つ石を身につけているのか。


そこまで考えた時、不意に昔の記憶が浮かんだ。


騎士学校へ入って間もない頃。


昼休みに何人かでくだらない話をしていた時、一人の同級生が急に声を潜めたことがある。


『なあ。王国にはさ、表に出てない部隊があるって知ってるか?』


『何だそれ』


『知らねぇの? 騎士団じゃできない仕事をする連中だよ』


『騎士団じゃできない仕事?』


『敵のところへ潜り込んで情報を集めたり、身分を隠して怪しい奴を調べたりするんだって』


『へぇ』


『それだけじゃないぞ。誰にも知られず要人を守ったり、裏切り者を探したり――』


そこで同級生は、わざとらしく周囲を見回し、さらに声を潜めた。


『場合によっちゃ、人を消すこともあるらしい』


『人を消す?』


『暗殺だよ、暗殺』


『嘘くさ』


『本当だって!』


『誰から聞いたんだよ』


『友達が父上から聞いたって』


『お前ですら直接聞いてねぇじゃん』


『でも絶対いるって! 考えてみろよ。国が全部、表の騎士だけで片付けてると思うか?』


結局、その噂はしばらく学生達の間で流行った。


本当は王宮の地下に拠点がある。


いや、普段は商人に紛れている。


騎士団長ですら全員を知らない。


日を追うごとに尾ひれがつき、どこまでが最初の噂だったのかすら分からなくなっていった。


ついには教師へ尋ねた生徒まで現れたが――。


『馬鹿な話をしていないで鍛錬しろ』


一言で切り捨てられ、それで終わった。


証拠など何一つない。


騎士を目指す学生達が面白半分で語る、嘘か本当かも分からない話。


カイル自身、これまで本気にしたことなどなかった。


だが今、改めてクロードを見る。


今朝、部屋を出た時も足音をほとんど立てずに近付いてきた。


一度見ただけで人の体格を把握し、服の寸法まで当てる観察眼。


昨日見せた、カイルが走っても追いつけないほどの足の速さ。


そして戦えば、正面から力で叩き伏せるのではなく、死角へ入り、相手の動きを封じる。


腰には、王国に正式に雇われた者だけが持つ石。


しかも、そこへ刻まれているのは騎士学校でも習わなかった紋章だ。


「…………」


一つ一つなら、何でもない。


優秀な使用人と言われれば、それまでかもしれない。


だが、全部を並べると話が変わってくる。


(……まさか)


カイルの目が僅かに細くなった。


(あの噂、本当だったりするのか?)


確かめたい気持ちはある。


だが、もし本当にそんな組織の人間なら、「王国の裏組織の人ですか」と真正面から聞いたところで、素直に答えるはずがない。


ならば少しだけ、聞き方を変えてみればいい。


「クロードさん」


「はい」


カイルは何でもないことを尋ねるような調子で口を開いた。


「もしかして――暗殺とか得意です?」


その言葉が放たれた瞬間。


クロードの表情が、一瞬だけ固まった。

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