第60話 カイルが届けたもの
「……師匠?」
その呼び方に、リューゲンの長男とその妻は揃って玄関の方へ顔を向けた。
これまで剣を教えてほしいと頼みに来た者など、数え切れないほどいる。
王国の騎士、他国から訪れた剣士、名のある貴族の子息。
中には、かなりの金額を積んででも教えを請いたいと申し出た者までいた。
だが、父はそれらに一度も頷くことはなかった。
そんなリューゲンが弟子をとった。
期待と僅かな緊張を抱いて待っていると、やがてリューゲンと、その隣を歩く一人の青年が姿を現した。
「…………」
夫婦は揃って言葉を失った。
想像していた人物とは、まるで違う。
整った顔立ちに黒い髪、淡い青の瞳。
まだ少年らしさを残しているものの、立ち居振る舞いには育ちのよさが滲んでいる。
身なりもよく、どこからどう見ても貴族の子息だ。
しかも年齢が若い。
せいぜい十八、九。
下手をすれば、それより幼いかもしれない。
腰に木剣こそ下げているが、父が弟子に取るような剣士にはとても見えなかった。
(……この子が?)
長男が妻を見ると、向こうも同じ疑問を抱いたらしく、きょとんと青年を見つめている。
もしかすると、剣の弟子ではなく、何か別のことで師弟関係を結んだのか。
二人が答えを出せずにいると、リューゲンが長男へ顎を向けた。
「紹介しておこう。わしの息子だ。今はこいつが剣都を取り仕切っている」
カイルは一歩前へ出ると、先ほどまでリューゲンと騒いでいた時とは打って変わり、よそ行きの顔を浮かべた。
「初めまして。カイル・フォン・グランツと申します」
綺麗な礼だった。
長男も反射的に応じかけ――ぴたりと止まる。
「……グランツ!?」
ゆっくりとカイルへ目を戻した。
「まさか……あのラインハルト団長の?」
「はい」
カイルはへらっと笑った。
「リューゲン卿と仲の悪いラインハルトの三男です」
「おい」
隣からリューゲンの低い声が飛び、長男だけでなく妻まで目を丸くする。
少し後ろにいたバルドは、たまらず額を押さえた。
「……何で初対面でそれを言うんだよ」
「だって事実でしょ?」
「言わなくていい事実もあるんだよ!」
「そうですか?」
本気で分かっていない顔をする。
しかも言葉遣いだけは、まだよそ行きのままだ。
リューゲンまで鼻を鳴らした。
「別に間違ってはいない」
「だから、あなたまで肯定しないでくださいよ……」
バルドの疲れ切った声に、セドリックも困ったような顔をしている。
長男はそんな一行を呆然と見つめていた。
なぜ父と、あのラインハルトの息子が一緒に自分の家へやって来たのか。
しかも、先ほど確かに――。
「……父上」
「何だ?」
「カイル殿が父上のことを『師匠』と呼んでいたように聞こえたのですが……」
「ああ」
リューゲンはあっさり認め、隣にいるカイルの頭へ大きな手を置いた。
「こいつを弟子に取った」
「…………」
聞き間違いではなかったらしい。
「……ラインハルト殿の、ご子息を?」
「ああ」
「父上が?」
「ああ」
「剣の弟子に?」
「さっきからそう言っとるだろう」
念を押しても答えは変わらない。
それどころかリューゲンは、どこか満足そうにカイルの肩へ腕を回し、そのままぐっと引き寄せた。
「腕がある。まだ粗いが、面白い剣を使うぞ」
「ちょっ、師匠、重いですって」
「これくらいで騒ぐな」
「体格差考えてくださいよ!」
腕から逃れようともがくカイルを見て、長男の顔がさらに引きつった。
父が――あの父が。
ラインハルトの息子と、やけに親しそうだ。
しかも自分から肩まで組んでいる。
「……一体、何があったのですか?」
もっともな疑問だったが、答えたのはカイルだった。
「色々ありまして」
「色々……」
「はい」
にこっと笑う。
何一つ説明になっていない。
「説明すると長いんですよ……」
バルドが横から付け加えれば、コンラードまで疲れた声で続けた。
「私も、つい先ほど知ったばかりです」
どうやら困惑しているのは自分だけではないらしい。
長男は再び父へ目を戻したものの、リューゲンは息子の混乱など気にも留めていなかった。
「細かい話はまたでいいだろう」
「ですが……」
「うるさいぞ。わしの勝手だろう。お前に迷惑はかけん」
長男からすると、ここだけはいつもと変わらない父だった。
何か聞いても、面倒そうに話を切る。
それは昔から変わらない。
「……そうですか」
それ以上は何も言わないことにした。
一行は一通り長男夫婦と挨拶を交わした。
そこで、ルークがカイルへ包みを差し出す。
玄関先でカイルが剣に夢中になった際、さっと預かっていたものだ。
「師匠、本日はお招きくださりありがとうございます。これ、手土産です」
「ほう」
リューゲンは面白がるように受け取った。
「騎士学校の学生が、わしに何を持ってきたんだ?」
「開けてみてください」
「ふむ」
ゆっくりと包装を解いていく。
中から現れたのは――一本の酒瓶だった。
「酒か」
「はい。師匠はお酒がお好きだと、父が言ってましたので」
「ラインハルトがそんなことまで話しておったか」
「えぇ。何度酒場の酒が空っぽになったかと言ってました」
「はっはっ! 間違いではない」
周囲から小さな笑いが漏れる。
ところが、酒瓶が完全に姿を現した瞬間、リューゲンの手が止まった。
「……これは」
それは決して高級な酒ではない。
王侯貴族へ贈るような年代物でも、希少な銘柄でもなかった。
むしろ庶民が日常的に口にする安価な酒で、瓶にも飾り気はなく、貼られたラベルも素朴なものだ。
バルドは一瞬、眉を寄せた。
よりにもよって、元団長への手土産に安酒。
もう少し選びようがあったのではないか――そう思いかけた時、リューゲンの様子が目に入った。
酒瓶を見つめる表情が、それまでとは明らかに違う。
その隣では、長男も同じものを見つめていた。
「カイル殿……なぜ、この酒を?」
「え?」
カイルは何でもないことのように答えた。
「師匠の奥様のご出身の土地で、よく飲まれているお酒ですよね?」
リューゲンの指が、瓶の表面をゆっくりとなぞった。
北方の寒い土地で古くから作られ、庶民に親しまれてきた酒。
その土地へ行けば、酒場でも家庭でも普通に出てくる。
そしてそこは――かつてリューゲンが身分の違いを押して妻に迎えた女性の故郷でもあった。
彼女はすでに病でこの世を去っている。
カイルは、ヴァルディア商会の護衛達からリューゲンについての噂を聞いた。
妻の死に目にも、戦場から帰らなかった男。
その話だけを聞けば、随分冷たい男にも思える。
だが、実際にリューゲンと接してみて、本当にそんな単純な話だったのかと疑問が生まれた。
なぜ帰らなかったのか。
それとも、帰れなかったのか。
カイルには分からないし、本人に聞くつもりもない。
ただ、以前リューゲンについて書かれた本の中に、妻の故郷の名が記されていたことだけは覚えていた。
それは二人が出会った場所らしい。
だから手土産を考えた時、その土地の酒を思い出したのだ。
「高いお酒の方がいいかなとも思ったんですけど」
カイルは少し照れたように頬を掻く。
「師匠なら、そういうのはいっぱい飲んだことあるだろうし。これを飲まれたことがあるかは分かりませんでしたが、見覚えはあるかなと思って」
リューゲンは答えず、しばらく瓶を眺めていた。
先ほどまで「安酒なんて」と思っていたバルドも、もう何も言わない。
値段ではなかった。
カイルは最初から、相手が何を喜ぶかを考えて選んでいたのだ。
「……あぁ」
しばらくして、リューゲンが小さく声を漏らした。
「懐かしいな。久しぶりに見た」
その表情から、いつもの豪快さが僅かに薄れる。
「見たのは、何年振りですかね」
長男も懐かしそうに呟いた。
「お前も覚えておったか」
「もちろんです。母の故郷から、時折送られてきていましたから」
「へぇ」
カイルが興味深そうに顔を向ける。
「よく飲まれてたんですか?」
「えぇ、よく二人で。母は酒に強くなかったので、父がいつも母の杯だけ小さなものに替えていました。それで、遠征先で小さな杯を見つけるたびに土産として買ってくるものですから――」
長男は懐かしそうに笑った。
「父が帰ってくるたび、弟と二人で『また母上の杯が増えた』って数えていたんですよ。母からも『あなた、グラスのお店でも開くおつもりですか?』と怒られていました」
「おい。余計なことまで話さんでいい」
すぐさま低い声が飛んだ。
「別にいいでしょう」
「師匠、照れてるんですか?」
カイルが覗き込む。
「照れとらん」
リューゲンがカイルの頭を掴もうとするが、カイルは笑いながら素早く避けた。
その姿を見ながら、長男はかつての食卓を思い出していた。
特別な日でも、祝い事があったわけでもない。
ただ父が家にいる夜、食事を終えた両親はこの酒を二人でゆっくり飲んでいた。
『ねぇ、あなた。今日あの子が字を覚えたのよ』
『昨日なんて兄弟喧嘩を始めて、最後には二人とも泣いていたのだから』
『学校で試験があってね、満点をとってきたわ』
嬉しそうに話す母の言葉に、父は笑い、またもう一杯酒を注ぐ。
そんな小さな幸せがあった。
しかし、父が戦へ出ることが増えるにつれ、そんな夜も少なくなっていった。
それでも母は気丈だった。
寂しいとも、帰ってきてほしいとも、息子達の前では決して口にしない。
いつもと変わらず明るく振る舞い、父から手紙が届けば嬉しそうに何度も読み返していた。
幼かった自分には、それが不思議で仕方なかった。
『どうして父上は帰って来ないの?』
そう尋ねたことがある。
母は少しだけ困ったように笑うと、幼い自分をそっと抱き寄せた。
『お父様はね、この国を守るために戦っていらっしゃるの』
『でも、ずっと帰ってこないよ』
母は一瞬だけ黙った。
けれど、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
『そうね。きっともう戦は終わって、今頃はあなた達へのお土産を探しに、あちこち歩き回っていらっしゃるのよ』
『ほんと?』
『ええ。今度は何かしらね。また、見たこともないようなお菓子を買ってきてくださるかもしれないわ』
母はそう言って、もう一度自分を抱きしめた。
『だから一緒に待ちましょう。お父様が無事に帰ってこられるように』
幼い頃の自分は、母は強い人なのだと思っていた。
父がいなくても寂しくないのだとさえ思っていた。
――けれど。
自分達は知っていた。
夜もすっかり更け、屋敷の誰もが寝静まった頃。
母が一人で食卓に座り、卓上にこの酒を置いていたことを。
その前には、大小二つの杯。
どちらにも、酒は注がれていない。
父が帰ってきた夜、いつも二人で並べていたように。
母は小さな方の杯を両手で包み、ただじっと見つめていた。
そして――声を殺して泣いていたことを。
そんな日々が、母が病に倒れるまで続いた。
母が亡くなってからというもの、この酒を屋敷で見ることはなくなった。
父が、家に残っていたものをすべて処分したからだ。
理由を聞いたことはない。
父も、何も言わなかった。
それから何十年もの時が流れた。
母の故郷から届くこともなくなったその酒が、今――カイル殿の手によって、再び父のもとへ届けられた。
長男は、静かにカイルへ目を移した。
母がどこの出身だったのか。
そんなことまで知っている者は多くない。
まして、そこから酒を選ぼうなどと考える者がいるとは思わなかった。
当の本人は、たいしたことをしたつもりもないらしい。
「よかった。嫌いな酒だったらどうしようかと思ってたんですよ」
「それなら買う前に聞け」
リューゲンは、照れくさそうに鼻をかく。
「聞いたら手土産にならないじゃないですか」
「なぜだ」
「驚かせたいでしょ?」
「お前は、そういうところまで凝るのか」
「もちろんですよ。贈り物は、中身が分からないからワクワクするんです。開けるまでが楽しみなんですから」
あっさりとした答えだった。
リューゲンは再び瓶へ目を落とし、素朴なラベルを指先でなぞった。
「……あぁ……そうだな」
カイルは、それ以上何も聞かなかった。
噂の真偽も、あの時リューゲンが何を考えていたのかも分からない。
ただ、酒瓶を見つめるその顔を見れば、噂だけでは分からなかったものが、少しだけ見えた気がした。
やがてリューゲンは酒瓶を両手で持ち直し、カイルへ目を向けた。
「ありがとな、カイル」
短い言葉だった。
けれど、その声はこれまで聞いたどの言葉よりも柔らかかった。
カイルも一瞬だけ目を丸くしたあと、少し照れたように笑う。
「いえ」
リューゲンは酒瓶を大事そうに使用人へ預けた。
「これは今夜、一人で飲む。久しぶりだからな」
長男は、そんな父を黙って見つめていた。
あの酒を前にしても、父はもう捨てるとは言わなかった。
そして何より――。
あんな穏やかな父の顔を見るのは、母がいた頃以来かもしれない。
◇ ◇ ◇
少し時間は遡る。
カイル達が城を出て、まだそれほど経っていない頃。
アルテ城では、アルフォンスの命で急遽集められた者達による会議が開かれていた。
本来なら、こんな会議が開かれる予定などなかった。
今日処理すべき案件は他にも山ほどある。
それでもアルフォンスは予定を変更し、レオナルドをはじめとする数名の側近や役人を会議室へ集めていた。
理由は一つ。
「……まさか、リューゲン殿が城に住むと言い出すとはな」
アルフォンスは机の上で指を組んだ。
今なお大きな影響力を持つ男がアルフォンスの居城へ移り住むとなれば、周囲が同じように受け取るはずがない。
とにかく断る道はもうない。
ならば、余計な憶測を招かぬよう、滞在の理由だけはきちんと説明しておく必要がある。
「陛下へは、どうお伝えいたしますか?」
レオナルドの問いに、アルフォンスは少し考えてから答えた。
「剣の製作だ」
一人の役人が顔を上げる。
「剣、ですか?」
「ああ。リューゲン殿は以前からジーク殿と剣の製作を行っている。二人の繋がりは王都でも知られている。それなら、この城を拠点にする理由としても不自然ではないだろう」
そもそも嘘ではない。
リューゲンがアルテ城へ移る理由の一つが、ジークやカイルと共に剣の製作を進めるためであることは事実だ。
ただし――。
「魔物の素材については、まだ話すな」
アルフォンスが声を落とす。
レオナルドもすぐに意図を察した。
「承知いたしました」
魔物の素材を使った剣。
その研究と製作については、まだ王都へ知らせる段階ではない。
実際にどこまでのものが作れるのかも分からず、古い文献についても調べている最中だ。
何一つ形になっていない今から話を広げれば、王都から余計な口を挟まれる可能性もある。
「通常の剣の研究及び製作として扱います」
「ああ。それでいい」
レオナルドは内容を書き留めながら、ふとペンを止めた。
「では、カイル殿がリューゲン卿の弟子になられた件については?」
「それは言わなくていい」
即答だった。
レオナルドが顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「ああ。わざわざ兄上へ報告するようなことでもないだろう」
アルフォンスは当然のように答えた。
「そもそも私は、兄上にカイルがこの城にいることすら報告しておらん」
「はい。少なくとも殿下からは」
「だが、ラインハルト殿からは伝えているだろう。自分の息子が騎士学校を離れて、この城に滞在しているんだからな」
それについて、これまで兄から何か言われたこともない。
問い合わせもなければ、カイルを王都へ戻せという話もなかった。
「つまり兄上も、特に問題にはしておらんということだ」
アルフォンスはそう結論づけた。
それに、カイルはラインハルトの三男だ。
王国騎士団長の息子とはいえ、まだ十六歳の学生にすぎない。
「そもそも兄上も、三男坊の動向までいちいち気にはせんだろう」
「まあ……そうかもしれませんな」
「なら、今のままでいい」
アルフォンスはそこで少し表情を険しくした。
「むしろ、ここでリューゲン殿との関係を伝える方がまずい」
「と申しますと?」
「兄上がカイルに目を向けるきっかけになりかねん」
会議室の空気が僅かに変わった。
ただの騎士学校の学生。
王国騎士団長の三男。
今のところ、国王から見たカイルはその程度の存在でしかない。
だが――あのリューゲンが、自ら弟子に取った少年となれば話は変わる。
「兄上なら、なぜリューゲン殿がカイルを弟子にしたのか気にするだろう」
そこからカイルについて調べられれば、何が出てくるか分からない。
魔物を狩り、その素材を回収する。
性質を調べ、加工し、これまで存在しなかった道具へ変える。
すでに氷や炎の素になるものを小瓶に詰め込み、割るだけで生み出す方法まで見つけている。
使い方次第では、戦場でも利用できるものだ。
「カイルが持っている技術は、軍事転用できる可能性がある」
アルフォンスの声が低くなる。
「今の段階で兄上に知られるわけにはいかん」
「……確かに」
レオナルドも否定しなかった。
国王がその価値に気づけば、放っておくとは限らない。
まだ何ができるのかも、どこまで発展するのかも分からない段階で、公にはしたくなかった。
「ただでさえ、こちらも手探りで進めているんだ。わざわざカイルへ注目を集めるような真似をする必要はない」
「では、弟子入りについては触れずに?」
「ああ。リューゲン殿がアルテ城へ滞在し、ジーク殿と剣を作る。それだけでいい」
「承知いたしました」
レオナルドが再び書き留める。
そこでアルフォンスは、もう一つ付け加えた。
「ただし――リューゲン殿が私に付いたと受け取られるような書き方だけはするな」
「もちろんです」
そこは曖昧にしてはならなかった。
「今回のことは、あくまで剣の製作だ。私の下についたわけでも、こちらの計画に加わったわけでもない。それは兄上にもはっきり伝えてくれ」
「承知いたしました」
「その上で――国の仕事にもう一度関わってもらえないか、こちらからも働きかけるつもりだと書いておけ」
レオナルドが僅かに目を見開いた。
「リューゲン卿を、再び国へ?」
「ああ。兄上もこれまで何度となく声を掛けておられるのだろう?」
「はい。ですが、その度に断られております」
「だろうな。だが、以前より話をする機会は増える。こちらからも働きかけるくらいはできるだろう」
それが実現するなら、国にとっても大きい。
リューゲンはかつて、この国のためだけでなく、他国からの応援要請を受けて戦場へ赴いたこともある。
数多くの国に恩を売り、王国の外にまでその名と功績を知られている人物だ。
彼が動けば、それだけで国同士の関係にまで影響を及ぼしかねない。
実際、リューゲンが引退してからというもの、それまでとは風向きの変わった国もある。
かつて彼個人との繋がりから深まった関係も多く、外交だけでなく、交易にも少なからず影響が出ていた。
再び国に関わるようになれば、そうした国々との関係を繋ぎ直すきっかけにもなるかもしれない。
だからこそ、王都がこれまで何度もリューゲンを呼び戻そうとしてきたのだ。
もっとも――。
「実際、リューゲン殿がこれからカイルとどう付き合っていくのか、私にもまだ分からん」
アルフォンスは腕を組んだ。
師弟関係を結んだ。
今のところ、はっきりしているのはそれだけだ。
「剣を教えるだけで終わるのか。それとも、今後カイルの周りに人が集まり、私兵が立ち上がった時、そこにまで首を突っ込むのか……」
アルフォンスは僅かに眉を寄せる。
「可能性がないとは言い切れん」
レオナルドも黙って頷いた。
何しろ相手はリューゲンだ。
何を基準に動くのか、誰にも完全には読めない。
まして今回は、国から頼まれたわけでも、アルフォンスから招いたわけでもない。
本人がカイルを気に入り、自ら弟子にしたのだ。
しかも自分も一緒に城に住むとまで言った。
「今の段階で、リューゲン殿がこちらの計画に関わると兄上へ伝えることはできん。本人にそんな意思があるのかすら分からんからな」
「はい」
「だが、カイルの周りにできる組織も、いずれは国のために動く。そのカイルにリューゲン殿がどこまで関わるのかを見ていくことも、国へ再び関わってもらう道を探ることにはなるだろう」
レオナルドが僅かに目を細めた。
「なるほど」
「そういう意味では、こちらからも働きかけるという報告は嘘ではない」
アルフォンスはそう言って、少しだけ口元を緩めた。
「まあ――本当にあの人を動かせたなら、その者は勲章ものだろうな」
「…………」
誰も答えなかった。
その場にいた者達の頭に、これまでリューゲンを国へ呼び戻そうとしてきた者達の顔が次々と浮かぶ。
地位を用意した者。
役職を用意した者。
破格の待遇を提示した者。
直接屋敷まで足を運び、頭を下げた者までいる。
そして――。
その全員が、断られていた。
「……まあ、期待はするなとも書いておいてくれ」
アルフォンスの一言に、今度は誰も異論を挟まなかった。
これで王都への説明はまとまった。
アルフォンスも、ようやく一つ片付いたと息を吐く。
「では、この件はこれで――」
「……殿下」
「何だ?」
「もうお一人、早めにお知らせしておいた方がよろしい方がおられます」
アルフォンスは怪訝そうに眉を寄せる。
「誰だ?」
「ラインハルト団長です」
「…………」
会議室が静かになった。
アルフォンスはその名を頭の中で反芻し――ゆっくりと椅子へ背を預けた。
「……ああ」
いた。
王都や国王への説明ばかり考えていたが、もっと身近なところに一人、とんでもなく面倒な相手がいる。
ラインハルト・フォン・グランツ。
現王国騎士団長にして、カイルの父親だ。
何より――リューゲンとは昔から何かと衝突してきた男でもある。
カイルがそのリューゲンを「師匠」と呼ぶようになった。
その事実を知らせればどうなるか。
アルフォンスの頭に、王都から物凄い勢いでアルテへ向かってくるラインハルトの姿が浮かんだ。
「……来るな」
「何がでしょう?」
「この城に乗り込んでくる」
「私もそう思います」
レオナルドの即答に、アルフォンスは眉間を押さえた。
王都までは片道五日。
普通なら、そう簡単に行き来できる距離ではない。
だが、あの男なら本当に来かねない。
「……いや。こちらからラインハルト殿へ知らせるのはやめよう」
「よろしいのですか?」
「ああ。リューゲン殿がこの城に滞在することは兄上へ報告するんだ。王国騎士団長であるラインハルト殿なら、いずれ兄上から聞くだろう」
レオナルドは少し考えたあと、口を開いた。
「ですが、後になって『なぜ自分には直接知らせなかったのか』と問われた場合は?」
「その時は、剣の製作に伴う滞在であり、わざわざ知らせるほどのことではないと判断した。そう答えればいい」
「カイル殿との接触について聞かれた場合は?」
「城で顔を合わせ、社交辞令程度に挨拶を交わした。それだけだ」
レオナルドは黙った。
「……殿下」
「何だ?」
「それは、かなり無理があるのでは?」
「どこがだ」
「すでにお二人は、随分と親しそうに見えますが」
「…………」
アルフォンスは一瞬だけ黙った。
だが、すぐに何事もなかったかのような顔へ戻る。
「……滞在している間に個人的に親しくなったとでも言っておけばよかろう」
アルフォンスは平然と言い切った。
だが、レオナルドはまだ納得していない。
「ですが、カイル殿はリューゲン卿を『師匠』と呼んでおられます。それについて問われた場合は?」
「…………」
アルフォンスは再び黙った。
「そもそも、師弟関係を結んだといっても、何か書面を交わしたわけではあるまい。形に残っているものは何もない」
「……はい」
そこでアルフォンスは一瞬だけ言葉を止めた。
「……その、あだ名のようなものだと、我々は認識していたと言えばいいだろう」
「…………」
レオナルドは、じっとアルフォンスを見た。
以前の殿下なら、こんな言い方をしただろうか。
都合の悪いことを嘘で誤魔化しているわけではない。
聞かれていないことは言わず、事実だけを切り取って並べ、相手に勝手に解釈させる。
それどころか、都合の悪いところを突かれるたびに別の逃げ道を作り、もっともらしい理屈をつけて乗り越えていく。
そして今度は、自分達がどう〝認識していたか〟という話にまで置き換え始めた。
どこかで、よく似たやり方をする少年を知っている。
レオナルドは小さく息を吐いた。
「……殿下も、随分とカイル殿の影響を受けられましたな」
「何の話だ?」
「いえ。何でもございません」す
アルフォンスは怪訝そうに眉を寄せた。
だが、レオナルドはそれ以上何も言わなかった。
アルフォンスは再び椅子へ深く身体を預ける。
リューゲンがこの城へ来る。
それだけでも、これから何が起こるか分からない。
しかも、そのきっかけを作ったのは――。
アルフォンスは小さく息を吐いた。
「……まったく。あいつは次から次へと悩みの種を届けてくれるな」
誰のことを言っているのか。
尋ねる者は、一人もいなかった。




