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第37話 王城暮らしの始まり

殿下との面会を終えたカイルは、ずっしりと重い革袋を片手に馬車へ向かっていた。


保存作業に掛かった費用を細かくまとめた支払い証明書を見たアルフォンスは、契約書を最後まで読み返した末、小さく息を吐いて苦笑した。


「……約束は約束だ」


そう言って、その場で代金を精算してくれたのである。


歩くたび革袋の中で金貨がじゃらりと鳴る。


「坊ちゃん、本当に昼飯代まで貰ったんすね」


「契約だからな」


「相手が殿下でも容赦ないっす」


「約束を守ってもらっただけだ」


エルマーは苦笑した。


相手が誰であろうと、契約だけは決して曲げない。それがカイルという少年だった。


本来なら、ここでクラウスとも別れる予定だった。


彼の家はアルテにあり、カイル達は剣都の宿へ戻る。


それで終わる話だったのだが――。


「嫌だ」


唐突にクラウスが立ち止まった。


「帰りたくない。まだ話したいことが山ほどある」


「子供ですか。また会えますよ」


「本当か?」


「本当です」


その返事を聞いた瞬間、クラウスは勢いよくカイルへ抱き付いた。


「カイル君んんん!」


「離れてください!」


「嫌だ! 離れたくない!」


往来で始まった騒ぎに人々が足を止める。


エルマーは呆れたように息を吐きつつも、どこか面白そうに二人を眺めていた。


「ご安心ください。城へ移る準備が整い次第、すぐ伺いますので」


「いつだ?」


食い気味に尋ねるクラウスへ、カイルは少し考えて答える。


「まぁ、一週間以内には」


その一言で腕の力はようやく緩んだ。


それでも視線だけは名残惜しそうにカイルから離れない。


(危ねぇ……)


内心で静かに胸を撫で下ろす。


本当は今すぐ剣の工房を回りたかった。


魔物に通用する剣について確かめたいことが山ほどある。


だが、その話を口にした瞬間――。


『私も行く』


この学者なら間違いなくそう言い出す。


自然学者のはずなのに、今は魔物よりカイルの生態に興味を示している。


だから黙っておくのが正解だった。


するとルークが首を傾げる。


「でも城に住むって、何持って行けばいいんすかね?」


「あ」


カイルも思わず足を止める。


「確かに聞いてなかったな」


衣類も資料も生活用品も、その辺りは何一つ確認していない。


するとエルマーが当然のように答えた。


「その心配は要らん」


「ん?」


「殿下とは既に話してある。必要な物はこちらで揃え、城へ運び込ませている」


「……マジか」


商会へ頼んだ覚えもない。


どうやら研究に夢中になっている間に、細かな準備は全て終わっていたらしい。


ラインハルトが許可を出すと、エルマーは最初から読んでいたのだろう。


商売でも生活でも、先回りするのがこの男だった。


「流石だな」


感心するカイルの横で、クラウスが再び目を輝かせる。


「なら明日には来れるな!」


「えっ!?いや、流石に明日は無理でしょ」


「何故だ?」


工房を回りたいとは言えず、カイルが黙ると、クラウスは別の餌を探すように考え込んだ。


「城の図書館は面白いぞ」


「へぇ……」


「それだけじゃない! 王国中の学者が集まる」


「そうですか」


反応は薄い。


困ったクラウスがルークを見ると、ルークは少し考えて尋ねた。


「剣に詳しい人とかいないんすか?」


クラウスは腕を組み、少し考え込むと「あっ」という顔をした。


「いるぞ! 王国でも指折りの鍛冶師なら知っている」


「鍛冶師?」


「あぁ。それに古い武具の研究者もいる。王家の宝物庫を管理している学者もいるぞ」


カイルは言葉を失った。


(……それは反則だろ)


剣都の工房も見たい。だが、王家の宝物庫や古い武具の研究など、普通なら一生触れられない話だ。


加えて王国でも指折りの鍛冶師までいるとなれば、その情報だけは見過ごせなかった。


「……明日行きます」


カイルの返事に、クラウスの顔がぱっと明るくなる。


「よし! 決まりだ! アルフォンスに伝えておく!」


返事も待たず踵を返し、そのまま城へ走っていく。


「ではまた明日な!」


その背中を見送りながら、ルークは苦笑した。


「本当に忙しい人っすね」


「研究以外は何も見えてねぇんだろ」


エルマーも肩を震わせる。


「だが、そのおかげで助かったな」


「まぁな」


工房へ寄れない代わりに、王城で一流の鍛冶師や研究者へ会える。


そう考えれば悪い話ではない。


やがて三人は馬車へ乗り込み、剣都への帰路についた。


しばらくは車輪の音だけが静かに響く。


窓の外へ流れる街並みを眺めていたカイルが、不意に口を開いた。


「なぁ、エルマー」


「何だ?」


「ルークを王都まで送れないか?」


突然名前を呼ばれたルークが目を丸くする。


「何か屋敷から持ってきてほしい物でもあるんすか?」


「違う」


カイルはゆっくり首を振った。


「城にどれだけ滞在するか分からねぇ。だからお前は一度屋敷へ戻れ」


ルークは数秒きょとんとしたまま固まる。


それから間髪入れず答えた。


「絶対嫌っす」


その一言に、カイルは思わず苦笑した。


「こっちには知り合いもいねぇんだぞ」


「関係ないっす」


ルークは即座に言い切る。


「俺は坊ちゃんから離れません」


冗談めかした口調ではない。


従者として当然だと言わんばかりの真っ直ぐな声だった。


思わずカイルが言葉を失うと、ルークは腕を組んで続ける。


「だいたい坊ちゃん――俺がいないと朝起きれないでしょ?」


「起きれる」


「起きれないっす」


間髪入れない返答だった。


言い返そうと口を開きかけたカイルは、そのまま閉じる。


全寮制の騎士学校でも何度寝坊しかけたか、自分でも思い当たる節がありすぎた。


そんな様子を見ていたエルマーは、窓の外へ顔を向けたまま肩を小さく震わせる。


笑いを堪えているのが丸分かりだった。


「身の回りの世話をする者は必要だろう」


「自分のことくらい自分で出来る」


「だが、部屋も既に決まっている」


「えっ?」


「ルークと同室だ」


「げっ!」


思わず素の声が漏れる。


対照的にルークは顔をぱっと明るくした。


「それは安心っす!」


「どこがだよ」


「坊ちゃん起こせるし、夜更かし止められるし、服も選べるっす」


「全部いらねぇ!」


「飯もちゃんと食べさせられますし」


「子供扱いすんな!」


「実際そうっすから」


馬車へ叫び声が響く。


ルークは少しも悪びれない。


むしろ楽しそうだった。


そのやり取りを聞きながら、エルマーは静かに目を細める。


やはり、この二人はこうして言い合っているくらいがちょうどいい。


やがて馬車は宿へ到着した。


明日には城へ移る。


そう決まれば、荷造りを済ませておかなければならない。


宿へ戻るなり、カイルは机いっぱいに資料を広げた。


剣の設計図や鍛冶師の覚え書き、各工房の資料を一枚ずつ確認しながら、折り目を付けないよう丁寧に鞄へ収めていく。


横ではルークが鼻歌交じりに荷物をまとめていた。


「いやぁ、城に住めるなんて夢みたいっすね」


「そうだな。飯、美味いかな?」


「そこっすか? でも、昨日も出たクッキーは美味かったっすよね」


「あれは美味かったな」


城へ移っても剣都は遠くない。


必要になれば、すぐに戻って来れる。


そう考えると、不安より楽しみの方が大きかった。


荷造りを終える頃には窓の外はすっかり夜へ変わり、その日は二人とも早めに床へ就いた。


翌朝。


まだ日が高くなる前だというのに、宿の外は妙に騒がしかった。


人の話し声が絶え間なく聞こえ、普段なら荷馬車しか通らない通りが妙にざわついている。


「何だ?」


寝癖を押さえながら窓を開けたカイルが眉をひそめる。


荷物を抱えたルークも隣から顔を覗かせた。


「朝から人、多くないっすか?」


エルマーや護衛達と共に外へ出た瞬間、その理由が分かった。


宿の前へ、一台の豪華な馬車が静かに停まっていた。


白を基調とした車体には金細工が施され、側面には王城の紋章が誇らしげに刻まれている。


朝日を受けた装飾が眩しく輝き、ひと目で王家ゆかりの馬車だと分かった。


王族専用ではない。だが、他国からの国賓や王国の要人を迎えるためだけに用いられる迎賓馬車だ。


街の人々にそんな違いは分からない。ただ、「王城の偉い方が乗る馬車」という事実だけで十分だった。


「あれ、王城の馬車じゃないか?」


「誰を迎えに来たんだ?」


「王族がお忍びで来てるのか?」


宿の前は、いつの間にか人だかりになっていた。


商人が足を止め、旅人が振り返り、宿の窓から顔を出す者までいる。


完全に見世物だった。


その光景を見渡したカイルは、ゆっくり額へ手を当てる。


(……嫌な予感しかしねぇ)


「坊ちゃん」


隣でルークが小声になる。


「めちゃくちゃ目立ってるっす」


「見れば分かる」


返事をした直後だった。


豪華な馬車の窓が勢いよく開く。


「カイル君! 迎えに来たぞ!」


満面の笑みで大きく手を振るクラウスが顔を出した。


周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。


「……やっぱりアンタか」


カイルは静かに天を仰いだ。


エルマーが用意した馬車があるのだから、迎えに来る必要など本来はない。


しかも迎賓馬車である。


目立たないはずがなかった。


「目立ちすぎだろ……」


宿の客だけではない。


通りを歩く者まで足を止め、好奇心を隠そうともしない。


その横でエルマーが小さく肩を竦めた。


「私は知らんぞ」


珍しく本気で他人事らしい。


そう言い残すと、自分の馬車へ向かって歩き出す。


「おい、待て!」


「後で城で会おう」


軽く手を振るだけで振り返りもしない。


「裏切り者!」


叫び声を背に受けながら、エルマーの馬車は静かに扉を閉めた。


一方のクラウスは、何事もなかったように扉を開いた。


「さぁ乗れ」


「いや、本当に乗っていいんですか?」


「もちろんだ。アルフォンスにも許可は取ってある」


胸を張る姿に迷いはない。


ルークは恐る恐る車内を覗き込み、そのまま息を呑んだ。


「坊ちゃん……すげぇっす」


迎賓馬車の内部は、普段使う馬車とはまるで別世界だった。


柔らかな革張りの座席。


磨き上げられた木材。


窓辺には薄い装飾布が揺れ、足元には厚い絨毯まで敷かれている。


移動手段というより、小さな応接室だった。


カイルも思わず見回す。


「ここまで豪華なのか……よく借りれましたね」


「アルフォンスに頼んだら貸してくれたぞ」


クラウスは不思議そうに首を傾げる。


本人は、本気で特別なことだと思っていないらしい。


(殿下と学友って、本当に便利なんだな……)


そんなことを考えているうちに馬車は静かに走り始めた。


窓の外では最後まで人々がこちらを見送っていた。


そんな様子など気にも留めず、クラウスは嬉しそうに身を乗り出す。


「そうだ」


「ん?」


「カイル君の話をしたら、会いたいという者が大勢いてな。今日は皆を紹介しようと思う」


カイルの頬がわずかに引きつった。


「……ありがとうございます」


礼だけはきちんと返す。


しかし胸の内では、別の言葉が渦巻いていた。


(絶対ろくでもねぇ)


魔物の骨を前に一日中語り続けられる学者だ。


そんな男と気が合う人間である。


まともな集団であるはずがない。


「どんな人達なんすか?」


興味津々で尋ねるルークへ、クラウスは少し考え込んだ末、にこやかに笑う。


「皆、面白いぞ」


「それが一番不安なんですよ」


即座に返したカイルへ、ルークも深く頷いた。


「俺もっす」


二人の反応が理解できないらしく、クラウスだけが首を傾げている。


そのまま馬車は王城へ近付き、やがて巨大な城門が視界いっぱいに姿を現した。


朝日に照らされた白亜の城壁は眩しく輝き、高く掲げられた王国旗が風を受けてゆったりとはためいている。


迎賓馬車を認めた門番の騎士達は一斉に敬礼し、重厚な門が静かに開かれた。


石畳を進む車輪の音が、広い中庭へ静かに響いていく。


馬車は中央広場を横切り、やがて正面玄関でゆっくりと停止した。


「着いたぞ!」


真っ先に飛び降りたクラウスが嬉しそうに振り返る。


その声に促され外へ出たカイルは、目の前の人物を見て思わず足を止めた。


玄関前には数名の騎士が整列し、その中央に一人の男が静かに立っている。


飾り立てた豪華さはない。


白髪交じりの髪も、身に纏う衣服も質素と言っていい。


それでも、そこに立っているだけで周囲の空気が自然と引き締まっていた。


王国史の教本で何度も見た肖像画が脳裏によみがえる。


王弟アルフォンスを長年支え、数々の政策改革を成し遂げた王国屈指の政務官。


知らぬ者はいないと言われる人物。


王国政務卿、レオナルド・フォン・シュタイン。


頭の中では、その名前が自然と出た。


カイルと同じ"フォン"の名を持つ高位貴族。


だが、その積み重ねてきた功績は比べることすら失礼なほど大きい。


教科書の中の人物が、今、目の前に立っていた。


そんな緊張などお構いなしに、クラウスは大きく手を振る。


「レオナルド! 連れてきたぞ、カイル君だ!」


紹介を受けたレオナルドは静かに一歩前へ出る。


言葉はない。


ただ真っ直ぐカイルを見つめた。


鋭い視線ではない。


威圧感もない。


それでも、自分の内側まで見透かされるような感覚があった。


人を見ることに慣れた為政者の目。


数秒の静寂が流れたあと、レオナルドは表情を変えないまま口を開いた。


「ラインハルト殿のご子息だな」


「はい」


自然と背筋が伸びる。


表情も声も、一瞬でよそ行きのものへ切り替わった。


「本日よりお世話になります」


深く頭を下げる。


レオナルドは無言のまま、その姿を静かに見つめていた。


感情を読み取らせない表情は、どこかグランツ家の執事長ギルバートを思い出させる。


やがて小さく一つ頷く。


「礼儀は心得ているようだ」


短い一言だった。


だが、その言葉だけで張り詰めていた空気が少し和らぐ。


(……第一印象は悪くなさそうだ)


内心で安堵した頃、エルマーの馬車も到着した。


自然な足取りで隣へ並ぶ姿は、まるで保護者そのものだった。


全員が揃うと、レオナルドは静かに身を翻す。


「では、まず君たちの部屋へ案内しよう。殿下への挨拶はその後だ」


その背を追いながら、カイルは思わず苦笑する。


城へ着いてまだ数分。


迎賓馬車に乗せられ、教科書の人物と対面し、情報量が多すぎて頭が追い付かない。


そんな二人とは対照的に、クラウスだけが終始楽しそうだった。


「大丈夫だ! 皆いい人だぞ!」


「先生が言うと逆に不安なんですよ」


ぼそりと返したカイルの一言に、レオナルドの肩がほんのわずかに揺れた。


笑ったのか、それとも呆れたのか。


誰にも分からない。


レオナルドに案内され、一行は足を進める。


前回は入口近くで右へ曲がり、執務室のある区画へ案内された。


だが今回は左へ曲がり、そのまま城の奥へと進んでいく。


歩みを進めるほどに空気は静まり、赤い絨毯の両脇には歴代国王の肖像画が整然と並んでいた。


(こっちはこんな作りになってるのか……)


そんなことを考えながら歩くカイルの前で、レオナルドが一枚の扉の前へ立ち止まる。


「ここだ」


静かに扉が開かれる。


その瞬間、カイルとルークは揃って目を見開いた。


想像していた客室とは比べものにならない広さだった。


部屋へ一歩足を踏み入れると、木の香りがふわりと鼻をくすぐる。


磨き込まれた床は朝日を柔らかく映し、壁際には品の良い調度品が整然と並んでいた。


派手さで圧倒するのではない。


長く大切に使われてきた重みが、この部屋にはあった。


大きな窓の外には城下町が広がり、その先には遠く山並みまで見渡せる。


「広……」


思わず漏れた声へ重なるように、ルークも息を呑んだ。


「す、すごいっすね……」


同室とは聞いていた。


だが実際には寝室が扉で区切られ、それぞれに十分な私室まで用意されている。


互いに気兼ねなく過ごせるよう配慮された造りだった。


その反応を見届けたレオナルドが静かに説明する。


「ここは通常、客人を迎える際に使用する部屋だ。殿下のご判断により、特別に使用を許可された」


一度室内へ視線を巡らせ、続ける。


「置かれている品はすべて王家の所有物だ。丁重に扱いなさい」


その一言で、急に怖くなった。


壊したら一体いくら弁償すればいいのか。


カイルは思わず調度品へ視線を向けてしまう。


横ではエルマーも改めて部屋を見回していた。


荷物を運び込んだのは入口までで、この部屋へ入るのは彼も初めてだった。


豪商として各地を飛び回る彼ですら、ここまで格式の高い客室へ泊まる機会はない。


そんな空気を切るように、レオナルドは奥のクローゼットを開く。


「着替えも用意してある」


レオナルドがクローゼットを開くと、衣類や靴、生活用品まで整然と揃えられていた。


「エルマー殿が準備した荷物も運び込ませてある」


「至れり尽くせりだな……」


カイルは驚き、エルマーへ視線をやる。


持ってきた荷物の方が少ないくらいだった。


「足りない物はあるか?」


部屋を見回したルークが真っ先に答える。


「十分っす!」


「俺もだ。ありがとな」


カイルが礼を言うと、エルマーは静かに微笑んだ。


「なら私はここで失礼する」


「もう帰るのか?」


「仕事があるからな。ただし、お前達が城での生活に慣れるまでは、この街に滞在する。何かあれば城の者へ伝えろ。私のところへ届くよう手配してある」


完全に保護者の発想だった。


商売相手として出会ったはずなのに、いつの間にか家族のように気に掛けてくれている。


その事実が、胸の奥をじんわりと温かくした。


カイルは照れくさそうに頭を掻く。


「……分かった。ありがとな」


「ありがとうございます!」


ルークも深々と頭を下げた。


二人を見比べたエルマーは満足そうに頷き、そのまま静かに部屋を後にする。


扉が閉まる音が響き、部屋に静けさが戻った。


その音を聞いた瞬間、不思議な実感が胸へ広がる。


本当に城で暮らすのだ。


まだ現実味は薄い。


それでも、この部屋が今日から自分達の生活の場になる。


二人の様子を確認したレオナルドは、小さく頷いた。


「では、殿下のもとへ向かおう」


「はい」


顔を見合わせ、小さく頷く。


新しい生活は、まだ始まったばかりだった。


レオナルドの後を追い、再び長い回廊を歩く。


ルークは物珍しそうに周囲を見回し、豪華な調度品や鎧を見付けるたびに目を丸くしている。


一方のカイルは違った。


廊下の幅。


騎士の配置。


窓の位置。


扉までの距離。


自然と目がそこへ向いてしまう。


騎士を目指す者としての習慣なのか、それとも商人として危険を先に読む癖なのか、自分でも分からない。


レオナルドは表情を変えないまま、その視線の動きだけを静かに追っていた。


(……よく見ている)


ただ珍しがっているだけではない。


何かを覚えようとする目だった。


やがて一行は見慣れた執務室の前で立ち止まる。


「殿下、お連れしました」


「入ってくれ」


落ち着いた声が返ってくる。


レオナルドが扉を開くと、書類へ目を通していたアルフォンスが顔を上げた。


羽根ペンを置き、柔らかな笑みを浮かべる。


「おお、来たか」


その一言だけで部屋の空気が不思議と和らぐ。


「本日よりお世話になります」


カイルが頭を下げる。


隣ではルークも慌てて続いた。


「よろしくお願いします!」


アルフォンスは満足そうに頷く。


「うむ」


そして二人を見比べ、小さく笑った。


「そんなに固くならなくてよい。少しずつ慣れていけばいい」


「はい」


短く返事をしたカイルだったが、肩へ入っていた力は自然と抜けていた。


アルフォンスは椅子へ腰掛け直す。


「勉強も鍛錬も来週から始める予定だ」


一度言葉を切り、どこか楽しそうに続けた。


「それまでは自由に城を見て回りなさい。図書館でも鍛錬場でも好きに使って構わん」


その瞬間だった。


「その通りだ!」


元気な声が部屋へ響く。


先ほどまで黙っていたクラウスが、一歩前へ飛び出していた。


目は期待で輝いている。


「ではカイル君! 行くぞ!」


満面の笑みだった。


待ち切れなくなった子供のように、さっさと扉へ向かって歩き始める。


カイルは小さく息を吐き、それでも苦笑しながら頭を下げた。


「失礼します」


「お世話になります!」


ルークも続き、二人はクラウスの後を追って執務室を後にする。


静かに扉が閉まった。


残されたレオナルドは、その音を聞きながら小さく眉を寄せる。


「……クラウス殿へ任せて、本当に大丈夫なのですか?」


アルフォンスは椅子へ深く腰掛けたまま笑った。


「張り切っていたからな」


「それは見れば分かりますが」


レオナルドは珍しくため息を漏らす。


「城中を連れ回す姿まで容易に想像できます」


「そのくらいの方が早く慣れるだろう」


「止めても聞きませんしな」


「違いない」


顔を見合わせ、小さく笑う。


長い付き合いだからこそ分かる。


一度火が付いたクラウスは、誰にも止められない。


一方その頃。


「こっちだ!」


先頭を歩くクラウスの足取りは驚くほど軽かった。


廊下を進み、何度も振り返っては二人へ笑顔を向ける。


「きっと面白い話が出来るぞ!」


その一言を聞くたびに、カイルの不安は大きくなっていく。


やがて辿り着いたのは、普段の執務区画とは明らかに空気の違う一角だった。


長い廊下の両側には扉が規則正しく並び、それぞれに部屋番号や担当者の名札が掲げられている。


書類を抱えた役人や研究者達が忙しなく行き交い、ここが王国の知識と技術を支える場所なのだと、歩いているだけで伝わってきた。


クラウスは、その廊下で最初の扉の前に立ち止まる。


「よし。ここからだ」


クラウスは一つ頷くと、扉を軽く二度ノックした。


廊下に乾いた音が響く。

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