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第32話 穢れを払うもの

翌朝。


宿屋の一階は、朝食を取る客で賑わっていた。


焼きたてのパンの香りが広間に漂い、食器の触れ合う音や談笑が、朝の空気へ明るく混じっている。


そんな活気とは対照的に、二階の一室では不機嫌そうな声が低く響いていた。


「朝早すぎだろ……」


ベッドへ顔を埋めたまま、カイルが呻く。


昨日、アイアーベアの骨の保存作業は無事に一段落した。


血や毛皮の加工は残っているものの、骨ほど手間の掛かる作業ではない。


だからこそ、今朝は少しくらいゆっくり眠れると思っていた。


それなのに、枕元の時計が示していたのはまだ六時半だった。


「クラウス様が来られてます」


朝早くから起こしに来たノエルが淡々と告げた。


「マジであのおっさん、やる気出しすぎだって……」


ぼやきながら再び布団へ潜ろうとするカイルの肩を、ルークが慌てて掴んだ。


「焚き付けたの坊ちゃんでしょ!」


「知らねぇよ……」


「ほら起きてください!」


結局そのまま引きずり起こされ、二人は渋々身支度を整えて部屋を出た。


階段を降りる途中でもカイルの機嫌は戻らず、寝起きの目を擦りながら小さく呻く。


「朝から研究の話とか勘弁してくれ……」


「昨日あれだけ盛り上がってたじゃないっすか」


「それは時間にもよる」


そんなやり取りを交わしながら、ノエルに案内され、カイル達は受付前の広間へ向かった。


だが――。


「……どこだ?」


カイルは広間を見回した。


受付の近くには旅人らしき男達が立ち、窓際の席では朝食を取る商人が新聞を広げている。


だが、見慣れたぼさぼさ頭の学者はどこにもいない。


代わりに目に入ったのは、窓際のソファへ腰掛け、一人で新聞を読んでいる紳士だった。


丁寧に整えられた髪。落ち着いた茶褐色の正装。


背筋も伸びており、どう見ても貴族か、どこかの名士にしか見えない。


カイルはじろりとノエルを見た。


「おい。どこにいるんだよ」


まだ寝起きの不機嫌さを隠さない声に反応したように、窓際の紳士が新聞を畳む。


ゆっくり立ち上がると、穏やかな笑みを浮かべた。


「おはよう、カイル君」


聞き覚えのある声だった。


カイルの動きが止まり、隣のルークも同じように固まる。


二人の視線が同時に紳士へ向いた。


聞こえてくる声は昨日と変わらないのに、その姿はまるで別人だった。


数秒の沈黙の後、二人の声がぴたりと重なる。


「「ま、まさか……クラウス様!?」」


クラウスは満足げに頷いた。


「うむ。少し身なりを整えてみた」


その言葉を聞いた瞬間、カイルは額を押さえた。


「こんなに変わるのかよ……」


上着の下にはベストまで着込み、学者らしい知的な雰囲気すら漂わせている。


擦り切れていた鞄まで新しくなっていた。


昨日まで骨を抱えて歩いていた変人学者の姿はどこにもない。


「どうだ?」


クラウスは少し得意げに両腕を広げる。


「似合ってますけど……」


カイルは信じられないものを見るような目でクラウスを眺めた。


そこへ、聞き慣れた声が後ろから掛かった。


「朝から賑やかだな」


振り返ると、朝食を終えたエルマーが数人の護衛を引き連れ、こちらへ歩いてくる。


クラウスは彼の姿を見つけるなり、機嫌良さそうに手を上げた。


「おお、エルマー殿。昨日は助かった。礼を言わせてくれ」


クラウスの言葉に、エルマーは穏やかに笑った。


「お役に立てたなら何よりです。今後も何かお困りの際は、ぜひご贔屓に」


商人らしい返しを聞きながら、カイルはエルマーへ視線を向けた。


「……まさか」


「あぁ。昨日、作業が終わった後、クラウス様が私のところへ来られたんだ」


――身なりを整えたいのだが、手を貸してくれないか。


そう頼まれたらしい。


どうやらエルマーは理容師まで手配したようだ。


「本当、別人ですよ」


カイルが呆れたように言うと、クラウスは満足げに頷いた。


「うむ。あのままでは、紹介した殿下まで怪しまれるとカイル君に言われたからな」


その言葉に、カイルは思わず手で顔を覆う。


どうやら本気で理由まで覚えていたらしい。


「なんかすみません……」


クラウスは楽しそうに笑う。


この成果を一刻も早く見せたくて、朝から宿まで来たのだろう。


カイルもルークも、それが少し可愛らしく見えた。


「朝食がまだなら、私はここで待とう」


クラウスの言葉に、カイルは「あ」と声を漏らした。


本来ならそのまま倉庫へ向かう予定だったが、一つ予定を変更したい。


「先生、実は先に寄りたい場所があるんですが……」


カイルは胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出し、広げる。


「これは何だ?」


クラウスが身を乗り出す。


「実は保存作業に使う草や実を調達したいんですよ」


カイルは地図を指で軽く叩く。


「昨日の晩飯の時に護衛達から情報を集めたんです。その中に剣都出身の奴がいて、心当たりがある場所を教えてくれました」


クラウスは地図を覗き込む。


書き込まれている草や実の中には、薬草屋でも見掛けるものがあれば、道端に生えている雑草のようなものまで混じっていた。


「随分と種類が多いな」


「色々試したいこともありまして」


カイルが肩を竦めると、エルマーが苦笑した。


「それなら昨日のうちに言ってくれれば、こちらで手配したぞ」


「いや、この街の薬草屋も見ておきたいと思ってな」


カイルは何でもないように答えた。


横から地図を覗き込んでいたルークは、そこで眉をひそめる。


血の保存に使う草もあれば、毛皮の加工に使うものもある。


だが、それにしては種類が多い。


普段使っているもの以外まで、書き込まれていた。


「坊ちゃん、これ……」


そう言い掛けた瞬間、ルークの脇腹へ肘が入った。


「ぐふっ」


カイルは何事もなかったように地図を畳む。


余計なことを言うな、ということだろう。


ルークは慌てて口を閉じた。


(絶対何か企んでるっす)


じっとカイルの横顔を見るも、当の本人はそんな視線など気にも留めていない。


「なので先生。一、二時間ほど時間を頂きたいんですが、それくらいに倉庫へ集合でも大丈夫ですか?」


「む?」


「集めてから向かいますので」


「私も行くぞ!」


返事は被せるように返ってきた。


カイルは苦笑する。


「分かりました。では少し準備してきますので、五分ほどお待ちください」


そう言うと、今度はエルマーへ視線を向けた。


「エルマー。今日も護衛を借りていいか?」


「ああ。そのつもりで人数を増やしてある」


「ん?」


エルマーは苦笑した。


「昨日の追加報酬を聞いてな。『自分達も手伝いたい』という者が増えた」


「あー……」


どうやら予想以上に広まっていたらしい。


するとノエルが肩を竦める。


「報酬もですが、昨日の豪華な昼食も大きかったですね」


「昼飯?」


「かなり羨ましかったみたいですよ」


その言葉に護衛達が一斉に頷く。


「俺も食いたかった」


「今日も期待していいのか?」


カイルはエルマーへ視線を向けた。


「今日の昼飯も頼んでいいか?」


「構わん」


エルマーは即座に頷く。


「では今日はステーキにするか」


一瞬の静寂。


次の瞬間。


「おおおおっ!!」


護衛達から歓声が上がった。


「やった!」


「今日一日頑張れます!」


「単純だな、お前ら」


呆れながら笑ったカイルは、そのままルークと一度部屋へ戻り、採取に必要な道具を準備する。


今日向かう場所は街の近くであり、森へ入る訳ではない。


それでも草を刈るためのナイフや、手を傷付けないための手袋は必要だった。


「先に薬草屋へ行くか」


準備を進めながらカイルが口を開く。


「薬草屋っすか?」


「ああ。朝から開いてるみたいだしな。その後で雑草も集める予定だが、袋が足りない」


カイルは肩へ鞄を掛けた。


「市場にも寄るぞ」


「なるほど」


用意を整えたカイル達は、そのまま宿の一階へ降りる。


今日はエルマーだけ別行動らしく、昼飯には戻ると言い残して先に出て行った。


「それで、まずはどこへ行くんだ?」


クラウスがどこか楽しそうに尋ねる。


「薬草屋です」


カイルは地図を広げながら歩き出した。


朝の剣都は既に活気に満ちており、鍛冶師や職人達が店を開き、荷車が石畳を行き交っている。


しばらく歩いた先で、一行は大きな薬草屋の前へ足を止めた。


店先には乾燥させた薬草や木箱が並び、独特の香りが漂っている。


「ここか」


「知ってるんですか?」


「ああ。この辺りでは有名な店だ」


クラウスは店内へ視線を向けた。


「隣街アルテは森が広大だからな。採れる薬草の種類も多い。そのおかげで、この街にも質の良い薬草がよく集まるのだ」


そう話しながら、一行は店の中へ足を踏み入れた。


店内には薬草や薬瓶が所狭しと並び、外よりも濃い香りが満ちていた。


「すげぇ……」


カイルは思わず声を漏らした。


王都でも薬草を買うことはあったが、ここは品揃えが違う。


図鑑でしか見たことのない薬草まで並んでおり、その価格も驚くほど安かった。


採取場所からも近いため、運搬費が抑えられ、その分、値段も下げられるのだろう。


棚を見回しながら、カイルは密かに口元を緩めた。


一方のクラウスも興味深そうに薬草を眺めている。


「カイル君」


一本の薬草を掲げた。


「これは珍しいぞ」


「うわっ!」


カイルの目が輝く。


「初めて実物見ました」


それは標高の高い山岳地帯でしか育たない薬草だった。


採取も難しいが、保存はさらに難しい。


その様子を見ていた店主が嬉しそうに笑う。


「いらっしゃい。お客さん達、随分と珍しいもんまで知ってるな」


「これ、どうやって保存してるんですか?」


カイルが尋ねると、店主は得意げに胸を張った。


「採取した直後にうち独自の保存液へ漬けるんだよ。そうしないと街へ運ぶ前に駄目になっちまう」


「なるほど……」


カイルは感心したように薬草を見つめた。


「だからこんなに状態が良いのか」


「ほう」


クラウスも薬草を眺めた。


「私が採取して持ち帰った時は、ここまで良い状態では保存できなかったな」


「お客さん、これを採ったことあるのか?」


「ああ。猪に追い回された先の穴で見つけた」


店主は腹を抱えて笑った。


「ははは! まるで発見者のクラウス様みたいだな!」


カイルとルークが吹き出す。


その本人が目の前にいるとは思ってもいないらしい。


店主は楽しそうに棚を指差した。


「自然学者の先生なんだが、あの人はすごいぞ。これも、これも、あっちのもだ。全部クラウス様が発見した新種だ。昔は薬草なんて経験頼りだったが、あの人の本が出てから随分変わったんだ」


そして一本の薬草を手に取る。


「特にこれなんか今じゃ傷薬に欠かせない。あの人がいなかったら世に出てなかったかもしれねぇ」


クラウスは静かに話を聞いていた。


やがて小さく目を細める。


「そうか。ありがとう」


「……は?」


店主が固まった。


なぜ目の前の客が礼を言うのか分からない。


カイルは察したように肩を竦める。


「実はこの方がそのクラウス・ベルナー様です」


「えっ?」


店主の目が見開かれた。


「えぇっ!?」


慌てて姿勢を正す。


「ほ、本物ですか!?」


「うむ」


クラウスが頷くと、店主は何度も首を縦に振った。


「ど、どうりで! これぞ学者先生って感じの身なりだ! きっちりしてるからこそ、あんな細かいところまで観察して本が書けるんですね!」


カイルとルークは顔を見合わせる。


昨日までの姿を見せてやりたい。


そんな二人をよそに、クラウスはどこか満足そうだった。


「そうか」


(これが昨日、カイル君の言っていたことか)


本や図鑑を読む者達は、勝手に著者の姿を想像する。


そして、その想像と本人が重なった時、本に書かれた言葉まで妙に説得力を帯びて見えるらしい。


クラウスは新しい上着の襟を軽く整えた。


「なるほどな」


小さく呟いた声は、分かりやすく嬉しそうだった。


店主がクラウスとの会話に夢中になっている間も、カイルは必要な薬草を次々と籠へ入れていった。


「これとこれ。それから赤葉草も」


途中で高価な薬草を何点か混ぜると、ルークだけが半眼になる。


(絶対関係ないっすよね……)


それでもカイルは何食わぬ顔で会計台へ運んだ。


「随分買うのだな」


「まぁ、せっかく来たんで」


すると店主が笑顔で言う。


「クラウス様がわざわざ来てくれたんだ。今日は値引きさせてもらうよ」


店主は上機嫌だった。


カイルの口元がわずかに吊り上がった。


(この人といると得するな)


そんなことを考えながら、カイルは店主へ視線を戻した。


「値引きより、袋をおまけしてくれません?」


この後も草を摘む予定だと説明すると、店主は面白そうに笑い、それならと大小様々な麻袋を持ってきてくれた。


「もっと持って行っていいぞ」


「じゃあ空き瓶も欲しいかなぁ……なんて」


「いいぞ!」


袋の次は空き瓶まで選び始めるカイルを見て、ルークは本当にグランツ家の息子なのか疑いたくなる。


(本当に坊ちゃん、こういう時だけは、がめついっすよね……)


呆れを通り越し、感心してしまう。


「君は買い物が上手だな」


クラウスは空き瓶を手に取りながら笑った。


「金より使える物を選んでいる。研究者も似たようなものだ。予算より道具の方が嬉しい時がある」


「でしょ?」


妙なところで意気投合しながらも、カイルはここでもきっちり支払い証明書を受け取った。


「毎度あり。また来てくれよ!」


店主の声に見送られながら、一行は薬草屋を後にした。


袋を買う手間も省けたので、地図を頼りに街外れへ向かう。


途中でパン屋へ寄り、カイルとルークはもぐもぐとパンを頬張りながら歩いた。


そして、その先で始まろうとしているのは――。


地図に書かれていた通り、雑草集めだった。


「待て。本当にそれも使うのか?」


道端に生えた草を見て、クラウスが眉を寄せる。


「使います。しかもタダですからね」


カイルは作業を始める前に、近くで家庭菜園をしていた老婆へ愛想よく声を掛けた。


「すみません。あの草をもらってもいいですか?」


「あの雑草をかい?」


「はい。学校の課題で調べているんです」


適当に説明する。


すると老婆は快く頷いた。


「好きなだけ持っていきな。あれを刈ってくれるなら、こっちも助かるよ」


老婆は雑草の生えた一角を指差した。


「抜いても抜いても生えてくるんだ。困ってたんだよ」


「そうなんですね。ありがとうございます」


だが、話はそこで終わらなかった。


老婆はカイルの顔をまじまじと見つめ、感心したように何度も頷いた。


「しかし、あんた男前だねぇ。うちの孫の旦那にどうだい?」


「えっ!?いや、あの……」


「うちの孫は、美人だよ。料理も上手で」


老婆の話は止まらない。


このままでは草刈りどころではない。


カイルはすぐに「ちょっと待ってて下さいね」と、クラウスへ声を掛けた。


「先生。あのお婆ちゃん、家庭菜園がかなり本格的ですよ」


「ほう?」


「話を聞かれてみては、どうです?」


興味を引かれたクラウスは老婆の元へ向かい、肥料や植え方について熱心に話し始める。


その隙にカイル達は、護衛と共に道端の草を次々と刈っていった。


「坊ちゃん、先生で時間稼いでるでしょ」


「話が長そうだったしな。それに、せっかく新調した服を泥だらけにされても困るだろ」


ルークは泥にまみれたクラウスを想像し、思わず吹き出した。


やがて麻袋がいくつも膨らむ頃、老婆は草を刈った礼にトマトや豆を籠に入れ、持たせてくれた。


「ありがとうございます」


カイルがお礼を言うと、老婆はクラウスを見て微笑む。


「話せて楽しかったよ」


「……そ、そうか」


どこか照れたように視線を外すクラウスに、カイルは籠を渡す。


「じゃあ先生、これ持ってきてください」


「私か?」


「先生しか手が空いてないんで」


クラウスは苦笑しながら籠を受け取る。


自分は畑の話を聞いていただけだが、老婆へ丁寧に礼を言った。


カイルと行動を共にしていると、研究だけをしていた頃には縁のなかった人々と自然に言葉を交わす機会が増える。


それが思った以上に楽しいことに、クラウスは少しずつ気付き始めていた。


一行が倉庫へ戻る頃には、追加で集められた護衛達も到着していた。


「今日もありがとな」


少年の声に、皆が集まる。


カイルは運んできた荷物を下ろすと、集まった護衛達へ今日の作業内容と手順を説明する。


「了解!」


護衛達の威勢の良い返事が作業場へ響く。


その様子を眺めていたクラウスは、思わず目を瞬かせた。


カイルの指示に迷いはなく、誰が何をするべきかも既に整理されている。


説明が終わると、護衛達も慣れた様子でそれぞれの持ち場へ散っていく。


昨日も感じたことだが、人を動かす時のカイルは年齢を忘れさせる。


(なるほどな……)


ラインハルト団長の息子だと聞いたが、先頭に立って指示を出し、人をまとめ上げるその様子には、確かにあの団長の血が流れていた。


「さて」


カイルが手を叩く。


「始めるか」


氷室から運び出されたのは、瓶へ詰められたアイアーベアの血だった。


それが姿を現した瞬間、クラウスの目が大きく見開かれる。


「おおっ!」


思わず身を乗り出した。


「これか! 言っていた血というのは!」


「ええ」


カイルは瓶の栓を抜き、用意された大鍋へ中身を注いでいく。


どろりとした赤黒い液体が鍋へ落ちるたび、独特の鉄臭さが広がった。


隣ではルークと数人の護衛が薬草を細かく刻み、ノエル達は作業場の脇で火を起こしている。


クラウスはそれを見て、改めて聞いた。


「煮るのか?」


「ええ」


「血を?」


「血をです」


クラウスは鍋とカイルを何度も見比べる。


理解はできない。


だが興味だけは尽きない。


「何故だ?」


「腐らせないためですよ」


カイルは刻まれた薬草を一掴み取り上げた。


「これから薬草を混ぜていきます」


「待て待て待て」


クラウスが慌てて口を挟む。


「薬草を混ぜるのか!?」


「混ぜます」


クラウスは言葉を失った。


薬草とは薬を作るためのもの。


だが目の前の少年は違った。


薬ではなく、素材として扱っている。


「そんな使い方は考えたこともなかった……」


思わず漏れた呟きに、カイルは笑う。


「薬効だけが価値じゃないですからね」


「なるほど……」


クラウスは素早くノートを開き、使われる薬草の名前を書き留めていく。


鍋の中では、血と薬草がゆっくり混ざり始めていた。


カイルは長い木の棒で鍋をかき混ぜながら、色や粘度の変化を確かめる。


火が弱くなれば薪を足し、強すぎれば少し離す。


その手付きに迷いはなかった。


やがてカイルは顔を上げる。


「ルーク。今日は五十グラムくれ」


「はいよ」


ルークは慣れた様子で秤を持ってくると、袋の中から白い粉を取り出して量り始めた。


気になったクラウスが横から覗き込む。


「それは何だ?」


「塩っす!」


「塩?」


クラウスの眉が跳ね上がる。


「血液の保存に塩を使うのか?」


「使います」


カイルは当然のように答えた。


クラウスは鍋へ視線を落とした。


薬草だけではない。


塩の量まで決められているということは、既に手順として完成しているのだろう。


「つまり、君達は既に血液の保存方法を確立しているのか」


「ええ。今やってるのはいつもの作業ですよ。魔物の血は種類が変わっても、やること自体は大して変わりませんからね」


「面白い……」


クラウスの口から、思わず感嘆が漏れた。


鍋の中で血を煮込み、薬草や塩を加えていく様子は、どこか料理にも似ている。


だが扱っているのは食材ではなく魔物の血だ。


その奇妙な光景から目が離せなかった。


一方、ルークは先ほど刈ってきた草を水洗いし、次の指示を待っている。


「ルーク、あれを頼む」


「はいよ」


必要量を告げると、ルークは慣れた手付きで草を計量し、束を抱えて鍋の傍へやって来た。


カイルは興味津々といった様子で覗き込んでいるクラウスへ声を掛ける。


「先生。ここから面白いもんが見れますよ」


「何だ?」


「清め草です」


カイルがルークの抱えた草を指す。


「昔は祭りや葬儀で使われていた草です。穢れを払うとか、場を清めるとか、そういう意味があったみたいですね」


「あぁ、知っている。しかし学者から言わせれば迷信の類だ。昔は傷薬としても使われていた。傷口が化膿しにくくなると言われていたが、薬効は弱い」


だから今では誰も使わず、ただ道端に生える雑草として扱われていた。


カイルは鍋の中を見ながら、小さく笑った。


「――それはどうでしょうね」


「む?」


「入れてくれ」


カイルの合図で、ルークが清め草を鍋へどさりと投入した。


次の瞬間だった。


どす黒かった血が、じわりと色を変えていく。


濁った黒赤色が薄れ、まるで採りたてのような鮮やかな赤が鍋の中へ広がった。


「なっ……!?」


クラウスが思わず身を乗り出す。


「色が変わったぞ!」


カイルは慣れた様子で鍋をかき混ぜた。


「俺も理屈は知りません。ただ、これを入れた方が長持ちするんです」


「長持ちする?」


「ええ。傷口が化膿しにくくなるとも言われてますし、その性質が関係してるのかもしれませんね」


カイルは鮮やかな赤へ変わった血を見つめながら、少しだけ口元を緩める。


「――案外、本当に魔物の穢れを取ってるのかもしれませんよ」


クラウスは思わずノートを取り落としそうになりながら、鍋の中で揺れる鮮やかな赤から目を離せなかった。

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