第31話 変人は変人を呼ぶ
カイルと自然学者クラウス・ベルナーという変人が出会っていた頃、アルフォンス殿下の城では別の騒ぎが起きていた。
「聞いたか?」
「何をだ?」
「昨日、団長の三男坊が来てたらしいぞ」
朝の詰所に集まり始めた騎士達が顔を見合わせる。
王弟の城に来客があること自体は珍しくない。
だが、それがラインハルト団長の息子となれば話は別だった。
「本当か?」
「ああ。門の連中が対応したらしい」
ざわめきが広がる中、別の騎士が肩を揺らした。
「それで、失礼なこと言った奴らがいたんだろ?」
「ああ」
――この城の騎士って、誰かを迎える時、相手の陰口を言うのが礼儀なのか?
騎士を辞めたノエル達へ向けられた悪口に対し、カイルがあえて聞こえるよう返した言葉である。
そのやり取りは一晩も経たずに城内へ広まっていた。
「ありゃ団長に告げ口されたら終わりだな」
どっと笑いが起こる。
もっとも、当の本人達は笑えなかった。
面会予定として聞かされていたのは、ヴァルディア商会の会頭エルマーとその同行者だけだったのだ。
「まさかあの中に団長の息子がいるとは、思わないだろ……」
青い顔で呟く騎士達を見て、周囲からまた笑いが漏れる。
そんな空気を裂くように、低い声が飛び込んできた。
「朝から何の騒ぎです?」
振り返ると、一人の若い騎士が立っていた。
燃えるような赤髪を短く刈り込み、鋭い眼光だけで周囲を黙らせるような男である。
セドリック・フォルクナー。
代々槍騎士を輩出してきたフォルクナー家の次男であり、騎士学校時代から将来を期待されていた実力者でもある。
「セドリックか。昨日、ラインハルト団長の息子がここに来たんだよ」
「息子……ですか?」
「ああ。三男坊だ」
「……カイルが?」
普段ほとんど表情を動かさない男の眉間へ、深い皺が刻まれた。
「知ってるのか?」
セドリックは答えず、一歩前へ出る。
「何しに来たんです?」
「いや……殿下へ挨拶じゃないか?」
「ヴァルディア商会の会頭も一緒だったしな」
その名を聞いた途端、セドリックの表情はさらに険しくなった。
発明家兄弟として王弟アルフォンスに招かれた件は、一切城内へ伝わっていない。
騎士達が知っているのは、団長の子が城を訪れたという事実だけだ。
だが、セドリックだけは違った。
カイルを幼い頃から知っている。
ラインハルトの長男アレンと騎士学校で同級生だった縁もあり、グランツ家へ出入りすることは少なくなかった。
その度に、カイルの悪戯へ巻き込まれてきた被害者でもある。
槍へ勝手に鈴を付けられたこともあれば、靴へ虫を入れられたこともある。
捕まえて叱れば逃げ回り、減らず口まで叩くものだから、こちらも大人気ないとは思いつつ手が出る。
気付けば腐れ縁のような間柄になっており、その生意気さに頭を抱えながらも、どこか憎めない年の離れた弟のような存在になっていた。
だからこそ分かる。
アイツが何かを始める時、必ず周囲は巻き込まれる。
セドリックは深く額を押さえた。
(また何か企んでるな、あの馬鹿)
小さく呟くと、そのまま踵を返した。
一方、倉庫では――。
「これは爪か」
クラウスは骨の入った袋から黒ずんだ欠片を摘み上げた。
骨だけを袋へ入れていたつもりだったが、どうやら爪も混じっていたらしい。
クラウスは欠片を脇へ避けると、何事もなかったように手元の紙へ記録を書き込む。
カイルは少し離れた場所から、その動きを眺めていた。
骨を見ただけで特徴を見抜き、爪など別の素材は脇へ避けながら分類と記録を進めている。
重さを量り、番号札を付けるような地味な作業に向いていそうだ。
骨は大きさも重さもばらばらで、今後加工するにしても混ぜる薬草や材料の量は変わってくる。
なので、カイルとしては骨の部位より重さの方が気になっていた。
けれど、クラウスの興味は完全に別方向へ向いている。
(この人を動かすなら、金より好奇心だな)
カイルは秤へ視線を落とし、それを学者の前に持っていった。
「クラウス様」
「うむ?」
「今後もアイアーベアが出ないとは限りません。だから、重さも記録した方が、より比較できるのではないですか?」
クラウスの視線が秤へ落ちる。
「おぉ、そうだな。骨格だけでなく重量差も重要だ」
「それと番号も振りましょう。何番が何キロだったか残しておけば、後から見返す時も楽です」
「なるほど。確かに比較しやすい」
クラウスはすぐに新しい欄を作り始める。
カイルはさらに問いを重ねた。
「他に比較できそうな項目はありますか?」
「あるぞ」
クラウスは骨を持ち上げた。
「骨密度だ。同じ重さでも頑丈さが違う。これが分かれば用途も変わる。傷の有無も重要だな。動物の骨を調度品にするか、矢尻にするかを判断する時、これらのことを基準にしている。魔物も同じかもしれん」
カイルは紙へ目を落とした。
これまで骨は重さや大きさでしか見ておらず、砕いて粉末にするか削るか、その程度の認識だった。
だがクラウスは、素材の先に何が作れるかまで見ていた。
(やるな、このおっさん)
学者というより、職人に近い発想かもしれない。
カイルは紙を取り出した。
「なら、それも仕分けへ組み込みましょう」
重さ、骨密度、傷の有無。
さらにアルファベットを使い分類記号を決め、天日干しする場所にも同じ表示を付けていく。
誰が見ても分かるように、後から探しやすいように、クラウスの知識を作業手順へ落とし込んでいった。
「これでどうです?」
紙を覗き込んだクラウスは、しばらく分類表を黙って見つめた。やがて口元がゆっくりと緩む。
「素晴らしい!」
研究者は多いが、実務へ落とし込める者は意外と少ない。
クラウスは分類表を何度も見返し、まるで新しい知識でも見つけたように目を輝かせた。
「じゃあ、この基準で進めましょう。それと、助手を付けますね」
「何?」
「運搬する人間と記録する人間が別なら、もっと早く進むでしょう」
「おお、確かにそうだ!」
クラウスは上機嫌で分類方法について語り続け、どうやら手伝いが増えることに異論はないらしい。
カイルは辺りを見回し、ノエルの姿を見つけると肩をぽんと叩いた。
「ノエル」
「はい?」
「悪いんだが、あのおっさんと組んで作業してくれないか?」
ノエルの顔が引き攣る。
「私がですか?」
視線の先では、クラウスが骨を抱えながら何やら楽しそうにぶつぶつ呟いている。
近付きたくない、という正直な感情が顔に出ていた。
「ノエルは穏やかだし、人見知りもしないだろ」
「いや、それとこれとは別では……」
「頼むよ。お前しか適任がいないんだ」
そう言われれば、ノエルも断りづらい。
しばらくクラウスとカイルを交互に見た後、観念したように息を吐いた。
「分かりました」
こうして奇妙な組み合わせが誕生した。
骨の運搬はノエルが引き受け、クラウスはその場で記録とタグ付けを行う。
作業の流れが出来る頃には、先ほどまで骨を眺めていただけだった学者が、誰より熱心に手を動かしていた。
本人は働かされているつもりなど微塵もない。記録が進めば進むほど声は弾み、ノエルへ次々と指示を飛ばしている。
離れた場所から見ていたエルマーは、呆れたように息を吐いた。
(どんな人物も労働力に変えるな)
護衛だろうが学者だろうが関係ない。
カイルは相手の興味を見抜き、気付けば自分の仕事へ組み込んでしまう。
商人として見ても、その才覚は群を抜いていた。
やがて昼が近付き、作業場にも一息つけそうな空気が流れ始めた。
「そろそろ昼飯だな」
カイルは汗を拭いながら、近くにいたルークを呼ぶ。
「財布持ってきてるな?」
「もちろんっす」
「じゃあ街へ行ってきてくれ」
「何買うんすか?」
カイルはニヤリと笑った。
その顔を見たルークは、嫌な予感しかしない。
「とびきり高い昼飯だ」
ルークの目が丸くなる。
隣で聞いていたエルマーも片眉を上げた。
「随分と大盤振る舞いだな」
「皆頑張ってるからな。美味いもん食べた方が、やる気も出るだろ」
作業場を見回したカイルに、エルマーは小さく笑った。
金を使うことは誰でもできる。だが、人が喜ぶ場所へ使える者は意外と少ない。
「分かった。なら私も行こう。遠慮なく使わせてもらうぞ」
「あぁ。ただ――」
カイルは指を一本立てた。
「何を買ったか分かるよう、支払い証明書だけは貰ってきてくれよ」
購入品と金額が記された書類であり、商売では何にいくら使ったのか記録を残しておく必要がある。
「ああ、分かった」
返事をしたエルマーが、どこか面白そうに片眉を上げた。
「さては経費で落とすつもりか?」
「まぁ、そんなもんかな」
曖昧に笑うカイルを見て、エルマーは肩を揺らした。
「十六歳の坊主と話している気がしないな」
「商売やってんだから普通だろ。ただ金を使うだけじゃ困る」
「確かにな」
エルマーは笑いを残したまま近くの護衛達へ声を掛けた。
「数人付き合え。買い出しだ」
こうしてエルマーは数名の護衛とルークを連れ、街へ向かう。
カイルは再び氷室へ足を運んだ。
残っていた骨を一つずつ手前へ運び出し、作業しやすいよう並べ替えていく。
冷気の残る地下から地上へ戻るたび、汗が首筋を伝った。
(この調子なら夕方までには何とかなるな)
当初の予想より遥かに早い。
人手が増えたことも大きいが、クラウスの分類が想像以上に役立っていた。
天日干しは明日まで掛かるだろうが、骨の保存作業もようやく先が見えてきていた。
やがて、聞き慣れた声が作業場へ届く。
「戻ったぞ」
大量の料理を抱えて戻ってきたエルマー達を見て、護衛達から歓声が上がった。
包みから漂う香ばしい匂いに、疲れた顔が一斉に緩んでいく。
木箱と板で即席のテーブルが作られる中、一人だけ反応しない者がいた。
クラウスである。
相変わらず骨を仕分けており、付き合わされているノエルも動けずにいる。
カイルはその光景を見て、少しだけ目を細めた。
研究に集中すると周囲が見えなくなる。
おそらく普段からこんな調子なのだろう。
「もう三回は呼んだのですが……」
ノエルが困ったように肩を落とす。
「反応なしか?」
「ありません」
目の前に面白いものがあれば、それ以外が見えなくなる。
完全に研究馬鹿である。
「クラウス様!」
試しに、カイルも声を掛けてみる。
だが返事はない。
骨を手に取ったまま何やらぶつぶつと呟いており、こちらの声など耳に入っていないようだった。
カイルは軽く息を吐く。
「仕方ねぇな」
少し考えた後、声の掛け方を変えた。
「クラウス様。魔物には、動物や鳥に似たもの以外もいるって知ってます?」
沈黙は一瞬だった。
「何だと!?」
クラウスが勢いよく顔を上げる。骨へ向いていた興味が、一気に別方向へ移った。
「そんなものがいるのか!?」
「ええ」
「なぜ先に言わんのだ!」
カイルは笑いそうになりながら、水桶の方を指差した。
「その前に手を洗いましょう」
「うむ!」
返事は被せるように返ってきた。
ノエルはようやく解放されたとばかりに、小さく息を吐いた。
三人はそのまま昼食の用意されたテーブルへ向かう。
食事が始まってからも、クラウスは落ち着かなかった。
席には着いているものの、視線はずっとカイルへ向いている。
「それで!? その魔物とは何だ!?」
「海の生物や虫。爬虫類や植物に似た魔物もいますよ」
「植物だと?」
「例えば銀灯草とか」
クラウスの目が細まる。
「夜になると稀に葉が淡く光る不思議な草だな」
「そうです。でも、俺はあれ植物じゃなくて魔物だと思ってるんですよ」
「……何?」
「銀灯草って、葉に光を蓄積する器官があって、一定以上溜まった時だけ発光すると言われてますよね?」
「そうだ」
「正直、何を根拠にそう言われてるのか分からないんですけど、俺は違うと思うんです」
「何故だ?」
「だって、傷付けたり踏み荒らされた場所ほど光ってることが多い。あれは危険を感じ、魔能を使って光ってる。たぶん威嚇じゃない。虫や小動物を呼んでるんです」
「別の生き物を呼ぶために……?」
「そうです。自分では戦えませんから、助けを呼んでるんだと思います」
クラウスは腕を組んだ。
「なるほど……理屈としては通るな。植物が虫を利用する例は珍しくない。それに、葉へ光を蓄積しているという説も決定的に証明された訳ではない」
カイルは口元を緩めた。
「でしょ? それにあの草は魔物の血を吸いますよ」
「何だと!?」
あまりに衝撃的な内容に、クラウスは思わず大きな声を上げた。
カイルは肩を竦める。
「嘘だと思うなら、近くに魔物の死骸でも置いてみて下さい」
「……」
「あれがただの植物とは思えなくなりますから」
クラウスは頭を抱えた。
「そんなもの、簡単に実験できんぞ……」
カイルは肩を揺らしながら、肉を一切れ口へ放り込んだ。
「まぁ、話だけ聞くと気味の悪い草ですが、俺は利用できると思うんです」
「利用?」
「灯りです。魔物の血を餌にして、刺激や攻撃を受け続ける環境を作れれば、長持ちする灯りになるかもしれません」
クラウスは黙り込み、しばらく考え込んだ後、ふと顔を上げた。
「なら毒針虫などどうだ?」
毒針虫は蟻によく似た昆虫で、尻の針から弱い毒を注入する習性を持つ。
「あれですか。確かに毒は弱いですけど、長時間続きますね」
「そうだろう? 攻撃そのものは弱くとも、じわじわと毒を流し続ける。銀灯草が攻撃へ反応して光るのなら、むしろ相性が良いかもしれん」
「確かに。ただ、そのまま灯りに使ったら今度はそれが、虫や小動物の集合場所になりそうなんで、その辺は考えないと駄目ですけど」
気付けば二人の会話は止まらなくなっていた。
毒針虫の話から始まり、強酸を吐くトカゲや洞窟に棲む発光苔の話へと次々広がっていく。
クラウスが生態を語ればカイルが用途を考え、魔物素材の話になれば今度はカイルが知識を返す。
互いに持つ知識の方向が違うからこそ、会話は途切れなかった。
隣に座るルークは肉を頬張ったまま首を傾げていた。
話の内容はさっぱり分からない。
だが、二人が似た種類の人間だということだけは分かる。
(坊ちゃんも何かに夢中になると周り見えなくなるっすからね)
カイルも十分変人だ。
一人増えたな、とルークは肉を齧りながら苦笑した。
その一方で、クラウスの皿は一向に減らなかった。
どうやら話に夢中になりすぎて、食事どころではないらしい。
カイルは皿の上をちらりと見てから、断りもなくパンを手に取った。
「それでですね」
説明の続きを口にしながら、パンをそのままクラウスの口へ放り込んだ。
「むごっ!?」
護衛達の肩が一斉に揺れた。
だが、クラウスは怒るどころか、もぐもぐと咀嚼しながら真剣に頷いている。
次にカイルが肉を手渡すと、反射のように受け取り、むしゃりと食べた。
完全に餌付けである。
ルーク達が堪えきれずに笑い声を漏らす。
クラウスもつられて肩を揺らし、珍しく声を上げて笑った。
笑いが一段落した頃、不意にぽつりと呟く。
「こんなに楽しいのは久しぶりだ」
カイルはパンを持ったまま手を止めた。
「いつもは一人で研究されてるんですか?」
「ああ」
クラウスはパンを一口かじる。少しだけ視線が下がった。
「昔は助手も沢山いた。だが、有名になってからというもの、誰も意見を言わなくなってな」
「意見を?」
「こうしたらどうだ、とか、別の方法はないか、とかな。皆、私の考えが正しいと思い込んでしまう。だから誰も提案しない。言われたことだけをやる」
クラウスはパンをちぎった。
「なら一人でやった方が早いと思うようになってな。気付けば、誰も置かなくなっていた」
少しだけ視線を落とした後、クラウスはカイルを見る。
「だが君は違った」
「俺がですか?」
「骨の分類だ。重さを記録しろと言った時も、番号を振る話もそうだ。さらに分類記号まで考えた。私は骨だけを見ていた。でも君は作業全体を見ていた」
「まぁ、後で管理しやすいかなと」
「それだけじゃないぞ。私の気付かなかったことを、君は教えてくれる」
「気付かなかったこと?」
「さっきの銀灯草の話もそうだ。私は発光する草としてしか見ていなかった。だが君は、なぜ光るのか、そして何に使えるのかまで考えていた」
クラウスは肉を一口頬張る。今度は自分から手を伸ばしていた。
「私なら観察して終わっていた。君はその先を見る。だから面白いのだ。話が前へ進むからな」
カイルは少し照れ臭そうに鼻を掻いた。
「商売柄ですよ」
「違うな。面白いと思ったことを、すぐ形にできる人間は意外と少ない。それに私は、誰かに頼られるのが好きでな」
「それは意外ですね」
思わず本音が漏れた。
カイルの中でクラウスは、自分の研究しか見えていない学者だった。
「はっはっは。よく言われる」
クラウスはパンを齧り、まるで他人事のように笑った。
「名が売れてからは特にな。周囲も妙に気を遣うようになった。普通に話してくれる相手も減った」
「すみません」
「なぜ謝る。むしろそのままでいい。君は面白い。思ったことをそのまま言う」
カイルは少し考えた。
「じゃあ遠慮なく言っていいですか?」
「いいぞ」
ルークをはじめ、その場にいた全員が固唾を呑んだ。
坊ちゃんの『遠慮なく』は大抵ろくでもない。
「その目にかかった前髪で、前見えてるんですか?」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、護衛達が一斉に口元を押さえる。
あちこちで堪えきれない笑い声が漏れ、エルマーまで肩を震わせていた。
クラウスは自分の前髪を摘まむ。
「そんなに長いか?」
「長すぎますよ。服もしわくちゃですし、正直、あの有名な図鑑や本を書いた人には見えません」
「坊ちゃん!!」
ルークが慌てて横からカイルの口を塞いだ。
「失礼すぎっすよ!!」
「むぐっ!?」
「殿下に呼ばれた学者先生っすよ!?」
「事実だろ!?」
「事実でも言っていいことと悪いことがあるっす!!」
食卓に笑い声が広がる。
だが当のクラウスは、怒るどころか真剣に前髪を摘まんだまま首を傾げていた。
「そんなに酷いか?」
「まぁ、本人が困ってないならいいですけど。ただ、図鑑とか本は子供達も読むじゃないですか」
「それがどうした?」
「こんな学者になりたいって憧れる子もいると思うんですよ。だから、もう少し身なりは整えた方がいいかと。紹介した殿下まで怪しまれますよ」
沈黙。
次の瞬間、クラウスは腹を抱えて笑い出した。
「はっはっはっは!! それは気づかなかった!」
目尻に涙まで浮かべながら、クラウスは自分の前髪をまた摘まんだ。
「分かった。少し考えよう」
しばらく笑い声が続いた後、カイルはふと思い出したように口を開く。
「そういえばクラウス様。明日も来られるんですか?」
「もちろんだ」
返事は被せるように返ってきた。
クラウスは皿の上のパンを片手に持ったまま、もう片方の手でノートを引き寄せる。
そこには今日一日で見つけた疑問や気になったことが、所狭しと並んでいた。
「まだ調べたいことが山ほどあるからな」
「助かります。明日から血と毛皮を扱う予定なんです」
「ほう」
「正直、俺だけじゃ分からないことも多いですし、相談したいこともあります」
そこまで言って、カイルは少しだけ笑った。
「だから頼りにしてますよ、先生」
クラウスは一瞬だけ目を丸くした。
先生。
その呼び方は初めてではない。だが、先ほど自分が口にした言葉を思い出す。
――私は誰かに頼られるのが好きでな。
カイルにそんなつもりはないのかもしれない。
それでも、自分が喜ぶ言葉を選んでくれたような気がして、少しばかりむず痒かった。
クラウスは鼻を鳴らし、照れ隠しのようにパンを一口かじる。
「任せろ」
その声は、先ほどより僅かに弾んでいた。
クラウスの返事に、周囲の護衛達もどこか嬉しそうに顔を見合わせた。
どうやら変人学者は、久しぶりに気の合う相手を見つけたらしい。




