第21話 剣都への道
朝日が昇り始める頃、最後の出発準備が始まる。
カイルとルークは、傭兵たちと一緒に、近くの川で返り血と泥を洗い落としていた。
顔についた赤黒い汚れを流し、髪を濡らし、包帯を避けながら腕や首筋を洗っていく。
そんな何気ない動作でさえ、昨夜の死線を思えばひどく贅沢なものに思えた。
川辺には、束の間の穏やかな空気が流れている。
——けれど、それは長く続かなかった。
「坊ちゃん、なんでこんなもんまで持ってきてるんすか……」
ルークが呆れ顔で掲げたのは、小さな透明瓶だった。
中には淡い琥珀色の液体が入っている。
カイルのブランド、トリニティ・クロスで扱っている洗浄液だ。
「旅の途中に、魔物の血を浴びるかもしれねぇだろ。普通の石鹸だけじゃ匂いが落ちないからな」
「いや、それどんな旅っすか……」
「今回がまさにそれだろ。なら正解だ」
ぐうの音も出ない正論だった。
それでもカイルは、小分けされた洗浄液の小瓶を何本も持ち込んでいる。
この本数を見る限り、どう考えても自分用だけではない。
魔物素材こそ使っていないが、香りと使い心地の良さから、トリニティ・クロスの中でも人気の商品だった。
ルークは嫌な予感を覚えながら液を髪へ擦り込み――目を見開く。
薬草と花、それに爽やかな実の香りが混ざり、朝の風に乗って広がった。
ルークは「あっ」と声を漏らす。
「これ、俺のお気に入りの匂いっす」
「俺もこれが一番好きなんだよな」
カイルはどこか満足げに笑った。
その匂いに気づいた傭兵たちが、次々とこちらを振り返る。
「……なんだその匂い」
「貴族の香油か?」
それを聞いた瞬間、カイルの目がすっと商人のものへ変わった。
営業用の笑みを浮かべ、小瓶を掲げる。
「血の臭いも落ちる優れものだ。服や装備にも使える。知り合いがやってるブランドなんだけど」
カイルはさらりと嘘をついた。
「今ならお試し価格の小瓶があるぞ」
「……は?」
嫌な予感を覚えたルークが振り返る。
だがカイルは当然のように親指でルークを指した。
「コイツが委託販売してる」
「えっ!? いや、してな――っ!?」
カイルは黙れと言わんばかりに、肘でルークの腹を小突く。
そのまま、じろりと睨みつけた。
“俺が売ってるってバレたら面倒だろ”――その圧だけは嫌というほど伝わってくる。
ルークは嫌そうに顔をしかめた。
「……まぁ確かに、騎士学校に話飛んだらまずいっすね」
ルークが渋々納得すると、カイルは何事もなかったように営業用の笑みへ戻る。
「通常瓶は銀貨一枚。だがこれはお試し用だから銅貨五枚だ」
カイルは小瓶を軽く振った。
「安酒一杯と同じ値段で、ここで血の匂い落として街へ着いてすぐ休めると思えば安いだろ?」
その言葉で、傭兵たちは一瞬でその価値を理解した。
次の瞬間、一斉に群がる。
「一本くれ!!」
「俺にも寄越せ!!」
「押すな馬鹿!!」
朝の川辺は、男たちの怒号と水音と泡だらけの騒ぎへ変わっていく。
チャリン、チャリン、と小気味いい硬貨の音が飛び交った。
「毎度あり」
その横で、カイルだけが満足そうに笑っていた。
「気に入ったならまた、ヴァルディア商会で買ってくれ。“トリニティ・クロス”って覚えて帰れよ」
カイルの声は、妙に生き生きとしていた。
――その頃。
「……やけに遅いな」
荷馬車の準備を終えたエルマーが、川の方角を見て眉をひそめる。
嫌な予感を覚え、近くの護衛へ視線を向けた。
「見てきてくれ」
数分後。
戻ってきた護衛は、何とも言えない顔で口を開く。
「……カイル殿が、川辺で商売しておりました」
「…………は?」
「傭兵たちへ洗浄液の販売を」
エルマーは静かに額を押さえた。
「……あの子は命懸けの翌朝でも通常営業なのか」
「どうやら、そのようです」
しばし沈黙した後、エルマーは小さく苦笑する。
「……まあ、それだけ騒げるなら問題ないか」
昨夜のことが嘘だったかのように、いつもの調子で商売を始めている。
それだけで十分だった。
「まったく、心配して損をする子だ」
そう零しながらも、その声音はどこか安堵を含んでいた。
やがてカイルとルークが戻ってきた。
服も着替え、髪も整えられ、川へ向かう前よりずっと“貴族の坊ちゃん”らしい見た目に戻っている。
カイルは稼いだ硬貨を袋へ放り込み、満足そうに笑った。
「街に着いたら、これでなんか奢ってやるよ」
「はぁ!? 俺が稼いだ金っすよね、それ!?」
ルークが即座に突っ込む。
だが、戻った瞬間にカイルは場の空気がおかしいことに気づいた。
馬車の周囲に漂う、妙に張り詰めた空気。
その先にいたのは――昨夜、戦場から逃げた傭兵と自警団たちだった。
どうやら夜明けと共に戻ってきたらしい。
命懸けで戦った者と、逃げた者。
それだけで十分すぎるほど場は重たかった。
エルマーの横顔にも、静かな怒りが滲んでいる。
(……そういうことか)
カイルは、あえて何でもないことのように笑った。
「お、戻ったな」
その軽い一言に、その場の全員が目を見開いた。
責めるでもなく、咎めるでもなく、ましてや皮肉ですらない。
本当にただ、“無事でよかった”とでも言うような声音だったからこそ、逃げた側の男たちは言葉を失った。
カイルはそのままエルマーの横へ歩いていく。
「んじゃ、早く行こうぜエルマー」
散々待たせた張本人が、である。
エルマーは一瞬だけ呆れたように目を細め、それから小さく息を吐いた。
「……そうだな」
それ以上何かを言う気も失せたように呟き、そのまま馬車へ乗り込む。
カイルも続き、扉が閉まった。
やがて馬車が動き出し、軋む音と共に列が再び進み始める。
揺れる車内で、エルマーは向かいに座るカイルをじっと見た。
「……なぜアイツらに、何も言わなかった」
その問いに、カイルは肩をすくめる。
「逃げていいって言ったの、俺だ」
あまりにもあっさりした答えだった。
「だから、給金から引いたり、叱ったりすんな。むしろ、あの場に残った連中には追加で払ってやってくれ」
カイルは当然のように言った。
「俺の稼ぎから引いていい」
その言い方は、妙に現実的だった。
カイルは一度だけ言葉を切った。
「……それでも納得いかないって言うなら、責任は俺が取る。その方法は、エルマーが決めてくれ」
エルマーはしばし沈黙する。
この子は、本当にどこまで背負うつもりなのだろう。
誰よりも前へ出て、危険を引き受け、それでも他人の責任まで背負おうとする。
呆れるほど不器用で、眩しいほど真っ直ぐだった。
エルマーは小さく息を吐き、苦笑する。
「……いいから寝てろ」
「ん?」
「寝不足の顔してるぞ、英雄殿」
「誰が英雄だよ」
そう言い返しながらも、カイルは抗わなかった。
張り詰めていた糸が切れたのだろう。
背もたれへ身体を預けると、数分も経たぬうちに瞼が落ちる。
その寝顔を見ながら、エルマーは小さく笑った。
「……本当に、放っておけんな」
馬車は揺れながら進んでいく。
――数刻後。
揺れ続けていた馬車は、やがて速度を落とし始めた。
昼をまわり、静かな森を抜け、石畳の街道へ戻る。
木々の隙間から差し込んでいた緑の光は途切れ、代わりに遠くから金属を打つ澄んだ音が風に乗って届いてきた。
カン、カン、と乾いた音が一定のリズムで鳴り響く。
それはまるで、街そのものの鼓動みたいだった。
エルマーは小さく身じろぎし、自然と目を覚ます。
「……着いたぞ」
最初に反応したのはルークだった。
窓の外を覗き込んだ瞬間、思わず息を呑む。
「……すっげぇ!!」
その声に、寝起きの悪いカイルが眉をひそめる。
「……うるせぇ……」
不機嫌そうに呟き――その瞬間、完全に目が覚めた。
城壁に囲まれた巨大な街。
もくもくと立ち上る煙。
絶え間なく鳴り響く金床の音。
火花が弾けるたび、街そのものが熱を帯びて呼吸しているかのようだった。
大通りには鍛冶屋が軒を連ね、剣身を冷ます水音と鉄を叩く衝撃音が重なり合う。
路地では傭兵や騎士が剣を携えて歩き、酒場からは早くも豪快な笑い声が漏れていた。
どこを見ても、剣、剣、剣。
エルマーは微笑んだ。
「ここはグランツェル。“剣都”と呼ばれる街だ。王国でも指折りの剣の生産地であり、剣士たちの聖地でもある」
「……聖地、か」
カイルは静かに呟く。
その瞳は、少年のような期待に明るく輝いていた。
カイルもルークも、馬車の窓へ額がつきそうなほど身を寄せ、食い入るように街の景色を眺める。
まだ街の中心へ入る前だというのに、ここが他のどんな土地とも違う場所であることを嫌でも理解させてくる。
熱気。
鉄の匂い。
地面へ伝わる振動。
馬車の中にいるだけなのに、胸の奥が妙にざわついた。
そんな二人の反応を見ながら、エルマーは小さく笑う。
「そしてここは――お前の父上が団長になる前、王国騎士団を束ねておられた、リューゲン・フォン・バルガス卿の街でもある」
「……リューゲン卿……」
ルークの背筋がぴんと伸びる。
その名が出た瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
「え、ちょ……あのリューゲン卿っすか?」
「お前、知らなかったのか?」
カイルは呆れたように言った。
各貴族の名や領地、王国の成り立ちを学ぶ授業では必ず出てくるような人物だ。
この国で生きる者なら、誰でもその名を知っている。
それほどの大物だ。
だからこそ、父が今回の旅行を許したことに、カイルは少なからず驚いていた。
「行ってこい」と言いながらも、あの時の顔色は決して晴れやかではなかった。
何故なら、父とリューゲン卿の間には、確かな確執がある。
それは息子である自分も知っていたし、家の空気として肌で覚えていた。
エルマーは少しだけ目を細めると、ルークへ向き直った。
「ルーク。“フォン”の名を賜る意味が、どれほど重いものか知っているな?」
ルークはごくりと喉を鳴らし、真面目な顔でうなずく。
――フォン。
その響きを名の中に持つ家系は、王国でも数えるほどしか存在しない。
王家に次ぐ地位を許された、古き公爵家の証。
本来それは、幾代にもわたって血を繋ぎ、歴史を重ね、王国へ忠誠と功績を積み続けてきた家にのみ与えられる名だった。
カイルの家も、その一つだ。
だが――例外が、一人だけいる。
リューゲン・フォン・バルガス。
彼は家の歴史ではなく、己自身の功績だけでその名を賜った男だった。
代々受け継がれる血統の重みなど関係なく、ただ剣の腕と戦で積み上げた戦果、そして誰にも否定できない統率の力によって、その名を一代で勝ち取った。
それは本来あり得ないことだった。
だからこそ彼の存在そのものが伝説となり、“フォン”という名にすら別の意味を与えてしまった。
血統だけではなく、実力で頂点へ立った者。
いつしか人々は、そんな存在へ畏れと敬意を込めてこう呼ぶようになった。
高位貴族、と。
ルークが小さく呟く。
「でも坊ちゃん……それ、グランツ家と……」
王国騎士団長の座は、本来なら代々グランツ家が担ってきた。
しかし、ただ一度カイルの祖父の代を除いて。
四十代後半が当たり前と言われる騎士団長の座を、リューゲンは三十歳という史上最年少で奪い取った。
しかも当時、祖父より十以上も年下だったという。
カイルは肩をすくめる。
「すげぇ人なんだろな」
あっさりした声だった。
幼い頃、遠目に見たことはある。
まだリューゲン卿が団長だった頃、王都の任務で出陣する王国騎士団を見かけた時、先頭を進むあの背中は確かに圧倒的だった。
(親父と仲悪すぎて、話したことねぇけど)
それでも、カイルの声音に恨みや棘はない。
ルークはカイルの顔色を窺うように、何度かちらちらと視線を動かした。
だが、それに気づいたカイルはむしろ少し笑った。
「爺ちゃんは好きだけどさ。団長ってのは血筋じゃなくて実力で決まるもんだろ」
「……坊ちゃん……冷めてるっすね」
「現実的って言えよ」
カイルは淡々と続ける。
「剣の腕と統率で負けたなら、それが正解だったってだけだ」
恨みも怒りもない。
ただ事実を事実として置いているだけの声音だった。
そこにあるのは血ではなく結果。
勝った者が立ち、負けた者が退いた。
それだけの話だ。
エルマーは静かに目を細めた。
(……なるほど)
家ではなく、結果を見る。
この少年は、本当にそういう男なのだと改めて思う。
ルークは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、それぐらい、すごいってことっすね」
だがエルマーは小さく笑って首を横に振る。
「すごいなんてもんじゃない」
その声音が、わずかに低くなった。
エルマーは、剣都に立ち上る鍛冶煙を眺めながら語る。
「リューゲン卿のその剣技は、人の域を超えるとまで謳われ、現役時代にはただの一度も敗北を喫することなく、無敗のまま騎士団長の座を退いた――まさしく伝説の男だな」
ルークがごくりと喉を鳴らす。
「そして何より有名なのが、あの御方が常に仰っていた言葉だ」
その視線が、剣の街へ向けられる。
「――“人が剣を選ぶのではない。剣が人を選ぶ”」
静かな声だった。
だが、その一言には、この街そのものを変えてしまうだけの重みがあった。
「リューゲン卿は本気でそう信じておられた」
エルマーは続ける。
「故に、自らが振るうに値する剣を求め続け、妥協なくこの街の鍛冶師たちへ要求を突きつけたそうだ。より強く、より美しく、より己に相応しい剣を――とな」
その結果、国中の鍛冶師たちが競うようにこの地へ集まった。
“リューゲン卿に認められる剣を打ちたい”
“あの伝説の騎士に選ばれる一振りを作りたい”
そんな名誉を求め、腕自慢の職人たちがこぞって工房を構えたのだ。
「そうして鍛冶師が鍛冶師を呼び、名工が名工を呼び……気づけばこの街は、王国随一の剣の街となった」
エルマーは誇らしげに告げた。
「つまりこの剣都グランツェルは――あの御方が作ったと言っても過言ではない」
「……ヤバっ……」
ルークが思わず引いたように呟く。
エルマーは小さく笑った。
「もっとも、騎士としてはまだ若い歳で騎士団を退き、今はこの街で半ば隠居同然の暮らしをしているがな」
「……えっ? まだ生きてるんすか、あの人」
「勝手に殺すな」
カイルは呆れたように言った。
エルマーは思わず吹き出す。
「あの御方がそう簡単にくたばるわけないだろ」
その言葉に、ルークは乾いた笑いを漏らした。
カイルは黙ったまま、街並みを見つめる。
鍛冶場から立ち上る煙。
絶え間なく響く鉄を打つ音。
剣を帯びた者たちが当たり前のように行き交う光景。
街そのものが、まるで巨大な鍛冶炉のように熱を帯びて見えた。
――このすべてを、一人の男が生み出した。
王都で騎士団を率いながら、それでも己の故郷へ人と技術を呼び寄せた。
その結果、生まれたのがこの剣都グランツェルだ。
(……街を作った男、か)
ただ強いだけではない。
ただ名を馳せただけでもない。
一人の価値観が、言葉が、生き様が、多くの人間を動かし、一つの街の在り方すら変えてしまったのだ。
そして、通りを埋め尽くす無数の剣を見た時――ふと、父の言葉が脳裏をよぎった。
(……親父は、逆のことを言ってたな)
人が剣を選ぶのだ、と。
その意思こそが剣を振るい、
その覚悟こそが人々を守るのだ、と。
――まるで正反対だ。
だからこそ、余計に相性が悪いのだろう。
剣が人を選ぶと語った伝説の騎士。
人が剣を選ぶと教えた現騎士団長。
同じ頂へ立った二人でありながら、その思想は驚くほど噛み合っていない。
カイルは剣都の景色を見つめながら、無意識に口元を緩めた。
(……面白ぇ)
どちらが正しいのか。
あるいは、どちらも正しいのか。
だが、だからこそ興味を惹かれた。
この街で、自分が何を感じ、何を得るのか。
何を学び、何を否定し、何を拾い上げるのか。
その答えを、無意識に求めている自分がいた。




