第1話 完璧な模範生
その日、王都の外れにある騎士学校は、いつもより静かだった。
朝露の残る訓練場には、今日も木剣の打ち合う乾いた音だけが、一定の間隔で響いている。
冷えた空気の中で吐く息は白く、踏み込みのたびに砂がわずかに舞い上がる。
同じ構え、同じ歩幅、同じ剣筋。すべてが揃っている。
教えられた通りの動きを、誰もがなぞるように繰り返していた。
何度も、何度も。
ここは、“正しい騎士”を作り上げる場所だった。
「――始め!」
教官の号令と同時に、模擬戦が始まる。
二人一組の勝ち上がり制で、勝った者だけが次へ進み、負けた者はそこで終わる。
年相応の動きだ。剣は軽く、力もまだ足りない。
踏み込みは甘く、間合いの取り方にも迷いがある。
ほんのわずかな差で、勝敗が入れ替わる。
だが、その中でただ一人だけ、明らかに流れの違う者がいた。
相手の踏み込みに合わせ、木剣を滑らかに受ける。
無駄のない軌道で交わされるそれは、一つ一つが整い、崩れる気配を見せない。
その正確さは、まるで教本に記された動きそのものだった。
ふと、流れが揺れる。
相手の足がもつれた。
ほんの僅かな綻び。
次の瞬間、そこへ剣が差し込まれる。
押し込むでもなく、叩きつけるでもない。
ただ、あるべき位置に収まるように。
相手が気づいた時には、すでに喉元にぴたりと止まっていた。
勝負は、それで終わる。
一連の動きには、一切の無理がない。
流れるようでいて、どこか静かで、優雅だった。
「……そこまで」
教官の声が落ちるより早く、少年は木剣を下ろした。
呼吸は乱れていない。
対峙していた相手は肩で息をしながら、その場に立ち尽くす。
悔しさよりも先に、理解できないという戸惑いが表情に浮かんでいた。
「勝者、カイル!」
その名が呼ばれた瞬間、訓練場に小さなどよめきが走った。
それも無理はない。
この騎士学校において、カイル・フォン・グランツの名は、すでに“模範解答”として知られている。
十二歳で入学して以来、一度も成績上位から外れたことはなく、現在は十六歳。
騎士学校の卒業は十八歳と定められているため残りはあと二年となるが、その時を待たずして近衛候補として名が挙がっていること自体が、彼の実力を何よりも物語っていた。
剣術成績は常に首席。
戦術学、座学ともに優秀。
規律違反なし、遅刻なし、素行も文句なし。
王国騎士団団長の三男として生まれ、王族に次ぐ高位貴族の家に育った彼は、騎士として育ち、騎士になることを当然とされてきた存在――
これ以上なく“正しい少年”だ。
「さすがだな、カイル」
「今日も完璧だ」
同級生たちが口々に称えながら集まってくる。
だが、当の本人は静かに頭を下げただけだった。
「調子が良かっただけだよ」
勝利を誇ることはない。
言葉も態度も、どこまでも穏やかだ。
艶のある黒髪は整えられ、切れ長の目元は柔らかく伏せられている。
その奥にある淡い青の瞳は、光を受けると静かに澄んだ色を帯び、揺るがない落ち着きを宿していた。
同級生より頭一つ高い背丈もあってか、その姿は年齢よりも大人びて見える。
整いすぎた容姿と隙のない立ち振る舞いは、どこか完成されたものを見るような距離を感じさせる。
だがその印象は、すぐにやわらぐ。
ふと浮かべる柔らかな笑みと、穏やかな物腰が、張りつめた空気を自然とほどいてしまうからだ。
それゆえ、その姿は騎士というより、まるで絵本から抜け出してきた王子のようだと囁かれている。
それは顔立ちの美しさだけではない。
一つ一つの所作に無駄がなく、言葉の選び方も柔らかく、相手に不快を与えない“品の良さ”が、そう思わせていた。
謙虚で、誰とでも距離が近く、嫌味がない。
だからこそ、誰もが信じていた。
彼は近い将来、王族の近衛騎士になる、と。
中には、その先、騎士団長の座にさえ届くのではないかと、半ば本気で語る者もいた。
しかし、正しさが強く光るほど、その足元に落ちる影は濃く、長く伸びる。
そしてその影が、この日、表へ引きずり出されようとしていた。
訓練が終わり、武具の手入れをしていたカイルのもとへ、教官が近づく。
「カイル!」
低く、いつもより慎重な声だった。
「教官室へ来い。……数名、同席している」
その一言で、空気がわずかに揺れる。
「え、複数……?」
「マジかよ、何したんだ?」
「いや、あいつがやらかすとかなくね?」
呼び出し――それも複数の教官となれば、ただ事ではない。
だがカイルは驚いた様子も見せず、木剣を置いた。
「分かりました」
それだけを答え、静かに歩き出す。
その背中に、不安そうな視線が集まっていた。
教官室の扉を開くと、重苦しい沈黙が待っていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
机の上に置かれた書類が、やけに重く見える。
「座りなさい、カイル」
促され、彼は素直に腰掛ける。
沈黙。
そして、咳払いが一つ。
「……実は最近、噂が上がっている」
カイルの心音が、わずかに跳ねる。
教官は指を組み、言いづらそうに続けた。
「君が……商売をしている、という噂だ」
一瞬、視線が集まる。
ただしそれは追及ではなく、確認に近いものだった。
「もちろん我々は最初から信じていない。君ほどの成績と素行、家柄があれば尚更だ。妬みだろう」
「近衛候補などと騒がれれば、面白くない者もいますからな」
だからこそ、これは確認に過ぎないという空気だった。
「この話は、まったくの虚偽、だな?」
カイルは視線を伏せた。
床に落ちる朝の光が、机を淡く照らしている。
そして、静かに息を吸う。
「……それは、酷い噂ですね」
ふっと肩の力を抜くように、小さく笑って返した。
教官たちは、彼以上に胸を撫で下ろしていた。
「やはり、そうか」
「まったく根も葉もない……」
小さく息を吐く音が、いくつか重なった。
「……これで、上に話を上げずに済むな」
父――騎士団長ラインハルトの名は、この学校では絶対的だ。
その息子を、教官といえど軽々しく扱えない。
だからこそ、学園長の耳に入る前に、まず自分たちで事実を確かめたのだ。
「気にする必要はない」
「君の兄たちも在学中はいろいろ言われた」
諭す声。守る視線。
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
教本通りに整えられた礼。
カイルは“模範生”の微笑みを崩さない。
「今後も、お手本となる騎士を目指しなさい」
「はい」
カイルはもう一度頭を下げ、扉を出た。
バタン、と扉が閉まる。
数歩歩いた、その瞬間。
「……やっば」
肩から力が抜けた。
背筋が崩れ、歩調が乱れ、言葉が崩れる。
「どっからだ……? 七年だぞ……七年。誰にもバレてなかったのに……!」
足を止め、周囲を見回す。
誰もいない。
壁に背を預け、低く吐き捨てた。
「クソ……」
噂、だよな。
誰かが勝手に言ってるだけだよな。
――あの教官たちの反応。
否定を、あまりにも素直に信じた安堵。
(信じたいだけだ。今は、まだ“信じたい側”だ)
「……何とか誤魔化せた……か?」
苦々しく笑う。
だが、聞かれた内容は――事実だ。
完璧な模範生の仮面の裏で、彼は驚くほど口が悪く、そして計算高い人間だった。
疑いがかかることすらないよう、ここまで徹底して“模範生”を演じてきた。
だからこそ、この事実は表に出なかった。
だが一度“噂”として形を持てば、もう同じやり方は通用しない。
「ったく……あと二年で卒業できんのに……マズいな」
髪をかき上げ、深く息を吐く。
落ち着け。ここで焦れば、余計に怪しまれる。
呼吸を整え、背筋を伸ばし、口角をいつもの位置まで引き上げる。
「……よし」
模範生の仮面を被り直し、教室の扉を開いた。
「お、カイル!」
「何だった? 怒られたのか?」
わっと寄ってくる同級生たち。
カイルは柔らかく微笑む。
「呼び出し? ああ、今度の剣術大会の形式確認だよ。少し変わるらしい」
「なんだ、驚かせるなよ!」
「だよな、お前が叱られるわけない!」
教室はすぐに、いつもの日常へ戻る。
誰一人として、その笑顔の裏で何が進んでいるのかなど、知る由もない。
商売がバレるだけでも致命的だ。
だが、本当に終わるのは――
彼が何を狩り、何を売っているのか。
その中身まで知られた時だ。




