第16話 この世界の剣
護衛団が隊列を組み、商会を包み込むように後退していく。
その背中にアイアーベアの叫びが響く。
馬車が闇へ溶けていく中、ノエルは思わず振り返った。
焚き火の前。
少年がただ一人、巨大な影へ向き合って立っている。
本来なら、護られる側のはずだった。
それなのに、その背中は不思議なほど小さく見えない。
前へ立ち、周囲の判断を背負い、退路を切り開こうとしている。
どこかで見たことがある、と思った。
王国騎士団にいた頃。
国境沿いで隣国との小競り合いが起きた時、先頭に立っていた男の背中。
ただそこにいるだけで、不思議と「この人がいれば大丈夫だ」と思わせるような、頼りになる空気。
ラインハルト・フォン・グランツ。
――あの少年は、確かにその血を継いでいた。
ノエルの喉の奥で、言葉にならない祈りが零れる。
(……どうか。戦の神よ――あの少年に、ご加護を)
手綱を握る手に、自然と力が入った。
やがて焚き火の周囲に残ったのは、自警団と傭兵、そして少年とその従者だけだった。
目の前にいるアイアーベアは、明らかに格が違う。
それでも、熊型の魔物は、動きの傾向だけなら大きくは変わらない。
踏み込み。
前脚の振り上げ。
体重移動。
狙うべき関節や、力が流れる瞬間も、おおよそは同じだ。
問題は――その硬さと力に、こちらがどこまで通用するかだった。
だからこそ、カイルは最初に真剣を試すことにした。
大きく踏み込む。
するとアイアーベアも炎の中をくぐり、間を詰めてきた。
カイルは横に体を返し、刃を滑らせる。
だが、硬い。
甲高い音と共に刃が弾かれ、まともに食い込まない。
(……硬ぇな)
やはり違う。
夢の中の冒険者達が使っていた武器は、ただの鉄ではなかった。
希少な鉱石を混ぜた剣。
魔物素材を練り込んだ刃。
大型魔物の牙を加工した武器。
そして、魔力を流すことを前提に作られた装備。
あの世界では当たり前だったそれらが、この世界には存在しない。
なら――柔らかい場所を狙うしかない。
カイルは再び踏み込み、今度は毛皮ではなく関節付近へ刃を滑らせた。
毛へ弾かれた時よりは、まだ通る。
だが。
みしり――と。
手の中で、嫌な音が鳴った。
刃がアイアーベアの硬さに耐えきれず、剣そのものが悲鳴を上げている。
(……何度もやれば、折れるな)
カイルは小さく舌打ちした。
借り物とはいえ、今、自分にある真剣はこの一本だけだった。
カイルは腰のホルダーから青い瓶を抜き、無造作に地面へ放る。
傭兵の一人が息を呑んだ。
さっき商隊を逃がすため、炎を上げた赤い瓶とは色が違う。
次の瞬間、砕けた液体が地面を凍り付かせ、白い冷気が夜の森へ広がっていく。
アイアーベアの足がわずかに滑り、その巨体の踏み込みがほんの一瞬だけ鈍った。
焚き火の火が揺れ、周囲の空気が白く霞む。
その間に、カイルは真剣を鞘へ戻す。
そして――腰へ差していた木剣を抜いた。
「は……?」
誰かの声が漏れる。
真剣すら通じなかった相手だ。
それなのに、少年は今、刃のない木剣を握っている。
傭兵の一人が青ざめた顔で後退った。
「お、おい……何考えてやがる……!」
空気が一気にざわつく。
目の前で起きている行動が、理解できなかった。
残った者たちの間には、まだ逃げ腰の気配が色濃く漂っていた。
誰もが目の前の怪物を見ながら、今からでも逃げるべきではないかという考えを振り払えずにいる。
カイルは静かに言う。
「他の奴らも同じだぞ。逃げたいなら、逃げろ」
空気が揺れた。
カイルは一度だけ、腰に戻した真剣へ視線を落とす。
「今の見ただろ。剣抜くなら、折れる覚悟がいる相手だ」
刃が軋む音は、この場にいた全員の耳へ焼き付いていた。
「無理に残れとは言わねぇ。生き残るのが一番だ」
さらに一歩前へ出る。
「だから――俺が囮になる。その間に、逃げるか残るか決めろ!」
その直後だった。
カイルが踏み込み、木剣を振るう。
ゴッ――!!
鈍い音が響く。
関節を打たれたアイアーベアの踏み込みが、わずかにだけ逸れた。
だが、それだけだ。
関節へ入った一撃も、巨体を止めるには浅すぎる。
しかも、カイルの手にあるのは、いつ折れるかも分からない木剣だった。
勝ち筋など、誰にも見えない。
それが残っていた者たちの恐怖を決定的なものへ変えていく。
「……っ、無理だ!!」
誰かが、堪えきれずに叫んだ。
「俺は死にたくねぇ!!」
声は裏返り、恐怖を隠すことすら出来ていない。
それをきっかけに、張り詰めていた空気が崩れる。
傭兵の一人が後ずさり、そのまま背を向けて駆け出した。
続くように、数人の自警団員も足を動かす。
恐怖は、伝染する。
つい先ほどまで焚き火を囲み、同じ鍋を囲んで笑っていたはずなのに、死が目前まで迫った瞬間、人は驚くほど簡単に背を向ける。
後退していく背中を見ながら、誰も呼び止められなかった。
「ちょっ……待ってください!」
ルークが思わず声を張り上げた。
「今逃げたら――!」
だが、その声は途中で遮られる。
「構うな!」
カイルの声だった。
振り向きもしない。
ただ、目の前の巨体から一瞬たりとも意識を逸らさず、次の一撃を叩き込みながら言い放つ。
「金で雇われてるが、命まで差し出す契約じゃねぇだろ」
ゴッ、と鈍い音が響く。
前脚へ打ち込まれた一撃で、巨体の狙いがわずかに逸れる。
「命の選択くらいさせてやれ」
あまりにもあっさりとした言い方だった。
「……で、でも!」
ルークは食い下がる。
「みんなで戦った方が――!」
その言葉を、カイルは鼻で笑った。
「はっ……」
冷めた、温度のない声だった。
「お前、どんだけ頭ん中、お花畑なんだよ」
呆れたように吐き捨てる。
「絵本の中みたいに、“全員で力を合わせて”なんてな」
木剣が振るわれる。
一瞬の隙を突いて、顎下へ叩き込む。
「そんな綺麗事で生き残れるほど甘くねぇよ」
その言い方は、どこか乾いていた。
まるで――知っている者の口調だった。
ルークは、その声に一瞬だけ言葉を失う。
その間にも、カイルは止まらない。
巨体の振り下ろしを紙一重で避け、転がり、起き上がり、再び懐へ潜り込む。
その動きの裏で、カイルの意識は別の景色を見ていた。
――夢で見た光景。
仲間だと思っていた男が、背後から刃を向けてきた瞬間。
逃げ遅れた誰かを囮にして、自分だけが生き残ろうとする背中。
どれも夢の中のはずなのに、妙に生々しかった。
(……いつだって、そんなもんだ)
人は、追い詰められれば、綺麗には動かない。
だからこそ。
「戦う気のねぇ奴がいる方が、邪魔だ」
低く吐き捨てる。
次の瞬間、さらに一歩踏み込む。
迷いはない。
躊躇もない。
ただ、ひたすらに削る。
生き残るために。
カイルは再び、腰のベルトから青い瓶を抜き、迷いなく地面へ叩きつける。
地面が白く凍りつき、アイアーベアの動きが鈍った。
夜気の中へ広がるそれは一瞬で足場の感触を変え、巨体の踏み込みをわずかにでも乱すための“間”を作る。
その隙に、カイルは走った。
低く沈み込み、狙うのは毛皮ではない。
――眼。
木剣が突き込まれる。
「グャァァァアアアアッッ!!!」
魔物が咆哮を上げる。
鼓膜を揺らす暴音の中でも、カイルの動きは乱れなかった。
前脚が薙ぐ。
跳ぶ。
転がる。
顎下。関節。喉へ続く隙間。
迷いなく木剣を打ち込んでいく。
硬い毛皮は一切狙わない。
内部へ響く場所だけを選び抜き、角度と勢いだけで叩き込む。
その動きは、もはや“打撃”というより、確実に削るための作業に近かった。
ゴッ――!!
鈍い衝撃が夜の静寂を打ち砕くように響き、その余韻が耳の奥にじわりと残る。
巨大な体がわずかに沈み込むように揺れた瞬間、その場に残っていた者たちの喉から、思わずといったように息が漏れた。
たった一人の少年が、自分より数倍も大きい魔物に立ち向かっている。
しかも、刃こそないが、アイアーベアの呼吸は確かに乱れ始めていた。
誰かがかすれた声で呟く。
「……やり合ってる」
刃すらない、ただの木剣で。
それでも今の一撃は、確かに内部へ届いていた。
――神経を打っている。
「嘘だろ……」
傭兵の一人が、信じきれないままに呟き、その続きの言葉を飲み込むように視線を逸らした。
「ただの木だぞ……」
その声は、途中で震え、消えた。
凍った地面を踏みしめる音と、木剣の鈍い衝撃だけが夜へ響く。
――なぜ、あの木剣は折れない。
少年の扱い方が異常なのか。
それとも、グランツ家の木剣そのものが特別なのか。
誰も、答えを持っていなかった。
いつの間にか、後退していた自警団員の一人が足を止めていた。
一撃、二撃、三撃。
淡々と打ち込まれていく動きは派手さとは無縁でありながら、確実に蓄積されていく。
致命には遠い。
それでも、確実に削れている。
アイアーベアの振り下ろされた前脚が地面を砕き、土と石が弾け飛ぶ。
その中に、カイルの姿はない。
半歩だけ横へ外れ、そのまま流れるように体勢を戻し、次の瞬間にはまた関節へと正確に打ち込みを入れる。
まるで決められた手順を、繰り返すかのように動き続けていた。
一撃で魔物を叩き伏せる英雄譚のような派手さはない。
だが、だからこそ分かる。
あれは勢いや才能だけで戦っている動きではない。
生き残るために積み上げられた、実戦の動きだった。
その光景を遠巻きに見ていた者たちの胸の奥で、何かがじわりと動き始める。
――この少年なら。
倒しきれなくても、森の奥へ押し返すくらいなら――。
そんな期待が、残っていた者たちの胸に芽生え始める。
だが同時に。
なら、自分が前へ出る必要はないのではないか――そんな空気もまた、確かに生まれていた。
夜の森。
狭い視界。
アイアーベアの動きは速すぎる。
下手に踏み込めば、巻き込まれて死ぬ。
だから誰も、足を踏み出せない。
幾度となく、カイルの攻撃は入っている。
眼、関節、喉元、毛皮の切れ目。
柔らかい部位だけを正確に狙い、無駄な動きを一切挟まず叩き続けるその戦い方は、傍から見ればむしろ優勢にすら見えた。
――それでも。
アイアーベアは、倒れない。
何度体勢を崩しても、何度呼吸を乱しても、その巨体は地に伏す気配を一切見せない。
ただそこに在り続けるだけで、圧倒的な存在感を保ち続けていた。
(……★二つで、これかよ)
カイルは短く息を吐きながら、わずかに間合いを取り直す。
胸の奥が重く沈み込み、肺の内側がじわりと焼けるように熱を帯びる。
呼吸を整えようとすればするほど、逆に乱れていく。
それでも、頭は妙なほど冷えていた。
距離。
足場。
重心。
攻撃後の硬直。
判断そのものは鈍っていない。
だが、足裏には確実に疲労が溜まり始めている。
踏み込みの一歩が、ほんのわずかに遅れ始めていた。
そのわずかな遅れが、やがて致命に繋がる。
理解していても、止まるという選択肢は存在しない。
アイアーベアが低く唸る。
それは怒りでも威嚇でもなく、ただそこに在る“生き延びる意思”そのもののような音だった。
圧し掛かるような重さを持って、周囲へ広がっていく。
「……っ」
歯を噛みしめながら、カイルはベルトへ手を伸ばす。
指先に触れた赤みを帯びた小瓶を、迷いなく掴み取った。
(……これで削る)
そう決めた瞬間には、もう動いていた。
狙いをつけ、放つ。
パリンッ!と砕け散る音と共に地面が弾け、炎が舞い上がった。
赤い火が黒鉄の毛皮を舐める。
だが、その分厚い体毛に阻まれているのか、燃えているのかすら分からない。
ダメージが入っている気配もない。
次の瞬間には、アイアーベアが前脚で地面を抉り、そのまま巨体ごと一気に距離を詰めてきた。
(……近い!)
反射的に跳び、転がる。
それでも風圧だけで身体はさらに大きく流された。
「――っ、くっ……!」
地面を削るように足を踏み込み、何とか体勢を立て直す。
呼吸が乱れる。
ほんの一瞬、次の動きが遅れた。
咆哮が夜を裂く。
(……まずい)
咄嗟に青い瓶を投げる。
霜が一気に地面を覆い、白が広がる。
それでも、止まらない。
凍結した地面を踏み砕きながら、巨体はそのまま迫り続ける。
さっきまでより、明らかに足が止まらない。
わずかな減速すら感じさせない。
距離を詰めてくる気配に、カイルは奥歯を噛みしめた。
戦況は、じわじわとこちらの不利へ傾き始めている。
それでも。
動けずにいる連中でさえ、カイルにとっては守りたい命だった。
(ここで諦めるわけには、いかねぇ)
きっと、自分がこの場に残ると選択したから、付き合ってくれている連中だ。
何人が自分を心配し、何人がこの場を打開しようと考えているのかは分からない。
もしかしたら、ヴァルディア商会への義理だけかもしれない。
それでも。
(巻き込んだ責任は、俺が取らねぇと)
カイルは木剣を構え直し、呼吸を整えようとする。
――まだやれる。
そう自分に言い聞かせながらも、頭の中は妙なほど冷えていた。
幾度も叩き込んでいる。
関節も、眼も、喉元も。
確かに効いている。
呼吸も乱れ始めている。
だが――まだ浅い。
魔物には、一定以上体力を削られることで肉質が変化する個体がいた。
硬さが崩れ、内部へ通り始める瞬間。
夢の中では、そこから一気に勝負が動くことも珍しくなかった。
(……まだ来ねぇか)
今、木剣越しに伝わってくる感触は、そこへ届く手前で止まっている。
あと少し。
だが、その“あと少し”が遠い。
カイルは再び地を蹴り、打ち込んでいく。
木剣から伝わる感触に全神経を集中させる。
(頼むからいい加減、弱ってくれ)
その時だった。
アイアーベアの前脚が地面を叩き砕く。
爆ぜた土と石が弾丸のように飛び散り、傭兵の一人が咄嗟に顔を庇って身を引いた。
――ガシャン。
慌てて後退した拍子に足をもつれさせ、武具が鳴る乾いた音が夜へ弾けた。
音に反応し、アイアーベアの首がゆっくりと向く。
狙いは――その傭兵。
「……っ!」
動けない。
恐怖が、身体を縫い止めている。
そのわずかな間に、カイルはすでに踏み込んでいた。
「相手は、俺だ!!」
木剣が唸りを上げ、顎下へ叩き込まれる。
ゴッ――!!
鈍い衝撃が響く。
だが、止まらない。
アイアーベアの赤い瞳は、なおも倒れ込んだ傭兵だけを捉えたままだった。
巨体が、そのまま前脚を振り上げる。
(……間に合わねぇ!)
次の瞬間、カイルは躊躇なく木剣を投げ捨てていた。
腰の真剣を抜き、踏み込む。
狙うのは、毛皮ではない。
前脚の付け根――わずかに露出した柔らかい隙間。
「ッ――!!」
刃が突き込まれる。
硬い。
だが――今までとは違う。
ずぶり、と。
確かに肉を裂く感触が、手へ伝わった。
(――来た!!)
木剣で削り続けたことで、ついに肉質が変わり始めている。
通る。
今なら、刃が届く。
アイアーベアが咆哮を上げ、振り下ろしかけていた前脚がわずかに逸れた。
その隙に、傭兵が転がるように離脱する。
助かった。
だが、その直後だった。
――ミシリ。
嫌な感触が、手元から伝わる。
カイルの表情が歪んだ。
無理やりねじ込んだ。
傭兵を助けるため、まともに刃筋を通す余裕もない角度から。
次の瞬間。
バキンッ――!!
真剣が、根元から折れ飛んだ。
砕けた刃が夜へ弾ける。
「なっ……!?」
誰かが息を呑む。
カイルは舌打ちした。
(……クソが)
せっかく通り始めたのに。
最初に試した分の負荷に加え、今の無理な一撃が完全に止めになった。
(……持たねぇのかよ)
それでも。
あの一瞬がなければ、今頃あの傭兵は潰されていた。
派手に血飛沫が上がり、飛び散った血がカイルを染める。
肩で息をしながら、彼は目にかかる血を袖で拭う。
距離をとったアイアーベアを真っ直ぐに捉えるその目に、誰もが理解した。
――この少年は、まだ諦めていない。




