第17話 最初の合図
肩で息をしながら、カイルは目にかかる血を袖で拭った。
そのまま、距離を取ったアイアーベアを睨みつける。
気づけば、黒鉄の巨体は低く唸りながら、刃が入ったことを警戒するように、これまでで一番森際まで後退していた。
なら、ここで足を止める理由などない。
カイルは折れた真剣を投げ捨て、転がっていた木剣を拾い上げると、そのままアイアーベアへ突っ込む。
綺麗に構えている暇なんてない。
肉質の変化により、刃が通るようになったことなど、もうどうでもよかった。
刃がなくとも、目の前の怪物に“これ以上進めば危険だ”と思わせることができればいい。
そうなれば、森の奥へ退く可能性が生まれる。
なら、攻撃を止める理由はなかった。
(このまま押し切れ!)
木剣へ体重を乗せ、力任せに振り抜く。
ゴッ――!!
鈍い音が夜気を震わせた。
一撃。
さらにもう一撃。
奥へ響かせるように、呼吸を削るように叩き込む。
アイアーベアの巨体がわずかに揺れ、じりじりと後ろへ下がった。
(押せてる……!)
そう感じた瞬間だった。
アイアーベアが、大きく踏み込んできた。
まるで最初から、好きに打たせて体力が削れる時を待っていたかのように。
「っ――!」
カイルは歯を食いしばり、無理やり身体を捻る。
風圧だけで皮膚が裂けたような錯覚が走った。
避けては打ち込み、交わしては叩く。
だが気づけば、押し返したはずの距離は、もう消えていた。
(……やっぱり、ここは刃がいる)
木剣では削れても、内部までは届かない。
そう理解した瞬間、視界の端に、自警団と傭兵たちの姿が映る。
武器は握っている。
まだ使える剣だ。
ほんの一瞬だけ、喉元まで言葉が込み上げた。
――その剣を貸せ。
だが、カイルは奥歯を噛みしめ、それを飲み込む。
答えなど、考えるまでもなかった。
この状況で武器を手放し、魔物の前へ立つ怖さくらい、今のカイルには容易に想像できたからだ。
本来、魔物と向き合うというのは、恐ろしいことだ。
目の前にいるのは、人より遥かに大きく、速く、力の桁も違う怪物。
牙も、爪も、前脚の一振りすら、人間を容易く引き裂く。
その恐怖が脚を止め、思考を鈍らせる。
実際、この国では、そうして多くの人間が死んでいく。
自警団だって同じだ。
この中で一番魔物を知っているはずの連中ですら、恐怖は消えない。
それでも、自分たちが前へ出なければ村が潰れるから、仕方なく武器を握る。
傭兵もまた、金を貰うから命を張る。
国を守る騎士ですら、助けに来ない世界なのだ。
(……これが、民の戦いか)
カイルは奥歯を噛みしめる。
誰も守ってくれない。
だから、自分たちで背負うしかない。
――それなのに、普段はその恐怖を背負っているはずの彼らが、今はただ立ち尽くしてこちらを見ている。
その姿が、カイルには“民を見捨てる騎士”たちと重なって見えた。
だが、無理もない。
誰かが代わりに背負ってくれるなら、その後ろへ下がりたいと思うのは当然だった。
夢で見た“冒険者”たちは、そのために前へ立っていた。
あの世界では、そもそも自警団みたいな素人が魔物と戦うこと自体なかった。
傭兵ですら、守られる側の人間だった。
だが、この国にはそんな存在も、戦い方もない。
知識も連携も積み重ならないまま、人は恐怖に押されるように前へ出て、潰れ、死んでいく。
――こんなやり方じゃ、人はいつまで経っても魔物を恐れ続ける。
その理不尽へ噛みつくように、カイルは強引に踏み込んだ。
次の瞬間、前脚が唸りを上げる。
咄嗟に身体を引くも、避け切れない。
衝撃が正面から叩きつけられ、身体が軽々と宙へ弾き飛ばされた。
そのまま地面へ激突し、肺の空気がまとめて押し出される。
「――ぐはっっっ……!!」
視界が揺れる。
腕が痺れる。
木剣を握る手が、軋むように痛んだ。
(……立て)
意識が沈みかける。
それでも、カイルはその言葉だけを掴み、泥に沈みかけた身体を無理やり起こそうとした。
だが次の瞬間、再び巨体の影が覆いかぶさる。
振り下ろされる爪が、確実にカイルを捉えようとしていた。
「坊ちゃんっっ!」
ルークの叫びが夜空へ響く。
視界の向こうで、巨大な鉤爪がゆっくりと迫ってくる。
実際には、一瞬だ。
もう避ける時間など残されていない。
(……間に、合わねぇ)
肺は熱い。
足は重い。
今この場で絞り出せる反応のすべてが、これまでの戦いで削り取られていた。
終わる。
そう理解した、その瞬間だった。
「坊ちゃん、立って下さい!!」
夜を裂くような叫び。
直後――
――パリンッ!!
小瓶が砕け、炎が爆ぜた。
暗がりを押し返すように熱が広がり、赤い光がアイアーベアの顔面を照らす。
アイアーベアは反射的に首を振った。
本来なら真っ直ぐ振り下ろされていたはずの爪が、ほんのわずか軌道を逸れる。
その爪先が、カイルの頬をかすめるように風を裂いて過ぎていった。
「――っ、は……!」
押し潰されていた肺へ、一気に空気が流れ込む。
カイルは咄嗟に地を蹴り、転がるように距離を取った。
呼吸も整わないまま、先ほどまで自分がいた場所を見る。
地面は深く抉れていた。
もし直撃していれば、自分の身体は跡形もなく潰れていただろう。
視線を上げる。
そこにいたのは――ルークだった。
顔は青白く、膝も震えている。
それでも、カイルに「お前も持ってろ」と言われ、腰につけていた瓶を抜き、放っていた。
自分が狙われる可能性も、その後どう逃げるかも、何ひとつ考えていない。
ただ、カイルを守るためだけに身体が前へ動いたのだと分かるような、無茶苦茶で、真っ直ぐな姿だった。
(……あの馬鹿)
でも、助かった。
そう思った直後、別の冷たさが背筋を走る。
アイアーベアの赤い眼が、ゆっくりと動いた。
火を投げた存在。
その視線が、確かにルークへ向く。
獲物を選び直す目だった。
(このままじゃ、次はルークだ)
ルークは震える手で、もう一本、瓶を放った。
「逃げて下さい! もう十分っす! アンタだけでも逃げて下さい! 俺が、俺が代わりになります!!」
声は裏返り、最後は悲鳴みたいになっていた。
それでも、ルークは退かない。
(何言ってんだよ……)
ルークじゃ無理だ。
剣も持たずに、まともに扱えもしない。
それでも、あいつは前に出た。
自分が守ろうとしていたはずの相手が、今、自分のために死にに来ている。
――アイツがやられるくらいなら。
俺が――
「ルーク下がれ!!」
肺を裂くような大声が夜の森へ叩きつけられる。
カイルは地面を強く踏み込み、転がっていた折れた真剣の刃を足先で跳ね上げた。
砕けた金属片が焚き火の周りを囲う石へぶつかり、甲高い音が激しく弾ける。
キィンッ――!!
静まり返っていた森へ、不快なほど鋭い音が響いた。
同時に、カイルは木剣を地面へ叩きつけ、さらに怒鳴る。
「こっちだ、クソ熊ァ!!」
赤い眼が揺れた。
ほんの一瞬だけ、アイアーベアの意識がルークから外れる。
その隙を逃さず、カイルは前へ出た。
木剣を振り抜きながら、無理やり巨体の前へ立つ。
ルークを守るため。
皆を生かすため。
自分が前に立てばいい。
――そう思った瞬間だった。
違う。
これは魔物だ。
一人食えば満足して引くような、都合のいい相手じゃない。
次はルーク。
その次は自警団。
その次は傭兵。
下手をすれば、逃した商会の連中にまで追いつく。
(……俺が死んでも、順番が変わるだけだ)
それは守ったことにはならない。
ただ、自分が先に倒れるだけだ。
木剣を振りながら、カイルは熱を帯びた肺の奥で思考を無理やり回す。
(何か……何かねぇのか)
ただ前へ出るだけじゃ駄目だ。
このままじゃ、いずれ力尽きる。
その時だった。
脳裏に、さっきの光景が焼き付く。
震えながら瓶を投げたルーク。
逃げきることも、まともに戦うことも出来ない。
それでも、あいつは瓶を投げ、ほんの一瞬だけ隙を作った。
たったそれだけで、自分は死なずに済んだ。
(……そうか)
その瞬間、カイルの中で何かが噛み合った。
今まで、自分は全部を一人で背負おうとしていた。
だが、そもそもそれが間違っていたんだ。
頭の奥で、夢の光景が高速でめくられていく。
混乱した戦場の中でも、誰を前へ出し、誰を下げ、誰に何をさせるかを、一瞬で見極めていた“あの男”。
その声が、脳裏で重なった。
『一人で戦おうなんて思うなよ。それぞれ大事な役割がある。それでこそ、冒険者パーティだ』
パーティ。
それは、一人では成立しない戦いの形だった。
剣を振る者。
隙を作る者。
敵を引きつける者。
支える者。
互いに役割を分け、足りない部分を埋め合う。
だから踏み込める。
だから、生き残れる。
“冒険者”は、ただ無謀に魔物へ挑む連中じゃなかった。
(……だったら、俺が今ここで作ればいい)
全員が、自分みたいに前へ出る必要なんてない。
怖さを消せないなら、一人で背負わせなければいい。
無茶をしなくても戦える形がある。
それなら――動けるはず。
カイルは腰のホルダーへ手を伸ばした。
残っている瓶は、もう数本しかない。
青。
赤。
色を選んでいる余裕などなかった。
掴んだ順に、叩きつける。
――パリンッ!!
――パリンッ!!
白と赤が夜の森へ広がり、アイアーベアの動きがほんのわずか鈍った。
完全には止まらない。
それでもいい。
半歩。
ほんの一秒。
その“間”があれば、人は動ける。
もう瓶の残りは少ない。
だが、出し惜しみしている場合じゃない。
今ここで使わなければ、次に使う未来そのものが消える。
それでも届けたい声が生まれた。
砕ける音と共に白と赤が重なり、夜の森の一角だけが一瞬、息を止めたように静まった。
カイルは声を張り上げた。
「みんな聞いてくれ!!」
その叫びは、焚き火の向こうで立ち尽くしている者たちへ向けられていた。
「怖いのは分かる! 動けねぇのも分かる! でも――生きることまで諦めんな!!」
血の味を飲み込みながら、カイルは叫ぶ。
「魔物に出会ったら死ぬ? やられて当たり前? そんなの、誰が決めた!?」
アイアーベアが低く唸り、黒鉄の巨体が一気に距離を詰めた。
「っ――!」
振り下ろされた前脚を飛び退いて避ける。
土が爆ぜた。
それでも、カイルは木剣を叩き込む。
鈍い衝撃。
押し返されながら、それでも叫ぶ。
「帰る場所があんだろ!? 明日も生きるつもりでここに立ってんだろ!?」
肺が焼ける。
足元がふらつく。
それでも木剣は止めない。
顎を打たれた巨体が僅かに揺れる。
その隙へ、カイルはさらに声を叩き込んだ。
「頼む! 力貸してくれ!!」
焚き火の向こうへ叫ぶ。
「一人じゃ勝てねぇ! 刃がいる! あんた達の力が必要なんだ!!」
静寂が落ちた。
血に濡れ、息を荒げながら、それでも立ち続ける少年の声だけが夜の森へ残る。
それは命令でも、鼓舞でもなかった。
助けを求める声だった。
だが――返事はない。
だから、カイルは叫ぶ。
「俺が前で注意を引く!」
アイアーベアが唸り、黒鉄の巨体が迫る。
カイルは木剣を構えたまま踏み込んだ。
「合図した瞬間だけでいい! 横から切り込んで、すぐ下がっていい!」
木剣と前脚がぶつかる。
衝撃が腕を軋ませた。
それでも止まらない。
「深追いはいらねぇ! 浅くていい!!」
爪を避け、打ち返しながら叫ぶ。
「全部背負わなくていい! 出来ることだけでいいんだ!!」
その時だった。
背後で、土を踏む音がした。
誰かが、一歩前へ出た音。
だが、まだ足りない。
アイアーベアが再び踏み込む。
黒鉄の巨体が迫った。
このまま押し切られる。
そう理解した瞬間、カイルの手が腰へ伸びる。
指先に触れたのは――最後の一本だった。
「……頼むよ」
――パリンッ!!
砕けた瞬間、白い霜が地を走る。
アイアーベアの前脚が、ほんの一瞬だけ止まった。
たったそれだけ。
だが、その“間”は確かに生まれた。
カイルは振り返る。
血と泥に塗れた顔で。
「……俺、剣の街に行くの楽しみにしてんだ」
誰も言葉を返せない。
それでも、耳だけは確かにその言葉を拾っていた。
「だからさ。ここで終わりたくねぇんだよ」
木剣を握り直す。
痺れた指先へ無理やり力を込める。
そして――
「……みんなで行こうぜ」
血に濡れ、今にも倒れそうな顔のまま、それでもカイルは笑った。
まるで本当に、この戦いの先に“続き”があると信じているみたいに。
その笑顔と言葉で、空気が変わった。
誰かが武器を握り直す。
誰かの息が、さっきより深くなる。
恐怖が消えたわけではない。
足が震えなくなったわけでもない。
それでも、彼らの中で何かが変わった。
そうして、傭兵の一人がぽつりと呟いた。
「……そうだよな」
その声は小さい。
だが、夜の森では十分すぎるほどはっきり響いた。
「一緒に行こう」
震える足で、一歩前へ出る。
それでも剣を握り直し、視線だけは逸らさずに低く言った。
「どうすりゃいい」
普段、誰の指揮も受けない傭兵が。
「……指示をくれ」
それが――最初の合図だった。
次の瞬間、アイアーベアが唸りと共に前脚を振り抜く。
カイルは咄嗟に身を沈め、鼻先を掠める爪を紙一重で避けた。
土を抉る轟音。
跳ねた泥を浴びながら、それでもカイルの口元が僅かに吊り上がる。
背中に、人の気配が集まり始める。
一歩。
また一歩。
恐怖に押し潰されていたはずの足音が、今度は自分へ続くように重なっていく。
誰かが剣の柄を握り直し、鎧が軋む。
それだけで、森の空気が変わった。
カイルは振り返らないまま、呟く。
「……ようやくお出ましかよ」
軽口だった。
ついさっきまで命を賭けて叫んでいたとは思えない、いつもの調子。
だがその一言が、背後に張り詰めていた緊張をほんの少しだけ緩める。
「悪ぃな、坊主。覚悟決めんのに時間かかった」
傭兵の男が低く笑う。
もうその声は震えていなかった。
恐怖を飲み込み、それでも自分の足で立つと決めた者の声だった。
カイルはアイアーベアから目を離さないまま答える。
「いいよ。間に合ったなら十分だ」
次の瞬間、その声の温度が変わった。
戦場の声だった。
「傭兵――囲め。距離取れ。まだ手は出すな! 正面は俺が行く」
短く、明確な指示。
アイアーベアが低く唸る。
だが今度は違った。
視界の端で、人影が散開していく。
左右へ、背後へ、互いの間合いを確かめながら、獣を囲むように広がっていく。
それによって、これまで一点に集中していたアイアーベアの意識が、初めて分散した。
低く唸りながら、巨体が落ち着きなく左右へ揺れる。
赤い眼が周囲を忙しなく動き、獲物を見失うまいとするように、その場をうろつき始めた。
「いいぞ。そのまま圧かけろ。近づきすぎんなよ、死ぬぞ」
冗談めかしたその言葉に、傭兵たちは鼻で笑う。
それでも視線は逸らさない。
武器を構えたまま、じりじりと間合いを維持する。
その時――
「お、俺たちは……!?」
震えた声が上がる。
自警団だった。
焚き火のそばから、一歩、二歩と前へ出ながら、それでも何をすればいいのか分からず、槍を握ったままカイルを見ている。
カイルは一瞬だけ目を見開く。
(……マジかよ)
傭兵が動くのは分かる。
あいつらにとって戦いは仕事だ。
だが彼らは違う。
普段は魔物を森の奥へ追いやるだけで、自分からこんな怪物の懐へ飛び込む側ではない。
それでも踏み出した。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
(……勇気あんじゃねぇか)
その熱を、そのまま指示へ変える。
「自警団! 前に出なくていい!」
戸惑いが走る。
だが、彼らは逃げない。
ただ、次の言葉を待っていた。
「その代わり――松明だ! 灯りを絶やすな!」
焚き火を顎で示しながら続ける。
「火を回せ! 影作るな! こいつは暗がり使う!」
自警団が慌てて動き出す。
松明が掲げられ、火が増え、揺れる光が森の闇を押し返していく。
それによって影は薄れ、アイアーベアの輪郭がよりはっきりと浮かび上がる。
アイアーベアがわずかに目を細めた。
「それでいい! 十分戦える!」
カイルの声は、背中を押す言葉だった。
その一言で、自警団の呼吸が少しだけ揃う。
もう誰も、ただ立ち尽くしているだけではなかった。
ルークもまた、一歩前へ出ていた。
震える手で瓶を握りしめ、カイルの背中だけを見ている。
そこにあるのは迷いではなく、合図を待つ目だった。
カイルは小さく笑う。
(……これだ)
一人で戦うんじゃない。
役割で戦う。
刃を持つ者。
守る者。
導く者。
互いに足りないものを補い合い、生き残るために噛み合う戦い。
アイアーベアが、低く唸った。
今度の声は、さっきまでのようにただ獲物を見るものではない。
敵を見る声だった。




