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第15話 月夜の来訪者

翌朝、森を発つ準備が始まる頃には、野営地の空気は昨日とは明らかに違っていた。


夜のあいだ張り詰めていた気配は、朝露とともに少しずつ薄れ、荷馬車の車輪を確かめる音や、畳まれていく天幕の布擦れ、火の消えた焚き跡を踏みならす靴音の中に、どこか安堵に近い緩みが混ざっている。


「昨日の匂い袋、すげぇな。一晩中、魔物が一匹も寄ってこなかったぞ」


「数を増やせば野営でも十分使えるんだな」


「王国も、いいもん作ったよな」


自警団も傭兵も、小袋を回収しながら口々に感想を交わしている。


手の中にあるのは、布と草と実で作られた小さな袋に過ぎない。それでも、夜を越えた者たちにとっては、確かに命を遠ざけてくれた実感のある道具だった。


焚き火の灰を踏み消しながら、誰かが笑う。


「これなら剣の街までは楽勝だな」


否定の声は上がらない。


その言葉が軽率だと分かっていても、昨夜何も起きなかったという事実は、誰の胸にも小さな油断を植え付けていた。


次の野営地でも手順は同じだった。


荷を下ろし、馬を落ち着かせ、見張りの位置を決めると、枝から枝へ一定間隔で匂い袋が吊るされていく。前夜は半信半疑だった者たちも、今夜は手順を覚えたように動き、袋の間隔を確認しながら、まるでそれが当然の防壁であるかのように森の縁へ並べていった。


夜も深まり、焚き火の炎が揺れ、森は不自然なほど静かだった。


本来なら、夜の森には獣の鳴き声や虫の羽音、枝葉の擦れる気配が混ざる。だが匂い袋の香りが広がった周囲だけは、それらが一歩引いたように遠のき、音のない空間が焚き火の周りを包んでいた。


そんな静けさの中、野営地の外れから馬の蹄の音が近づいてきた。


見張りに立っていた護衛が即座に槍を構えたが、近づいてきたのは魔物でも盗賊でもない。商会の印が入った外套を羽織った男が、息を整えながら馬を止め、エルマーの前で深く頭を下げた。


「会頭。お手紙です」


差し出された封筒には、蝋で封がされていた。


夜の森の中、焚き火の明かりを受けて光るそれを見て、カイルとルークは思わず顔を見合わせる。


「旅先でも手紙って届くんすね……」


ルークが半ば感心したように呟く。


カイルも同じことを考えていた。


商人の旅というものは、荷を運び、人を動かし、道を選ぶだけではないらしい。


「でも、よくここにいるって分かりましたね」


ルークが首を傾げる。


その言葉に答えたのは、向かいで武具の手入れをしていた元騎士の護衛、ノエルだった。


気づけば、ノエルは自然とカイルたちの輪へ混ざるようになっていた。


「こういうことは、案外多いんですよ」


ノエルは穏やかに笑った。


「そうなんすか?」


ルークが目を丸くすると、ノエルは焚き火の向こうへ視線を向けた。


「旅の計画というのは、適当に作られるものではありません。馬の速度、休憩の回数、天候、道の状態、危険地帯の有無。そういったものを考えた上で、何日目の夜にどこへ着くかまで、かなり細かく組まれます」


「へぇ……」


カイルは素直に声を漏らした。


商売ってのは、思ったよりずっと面倒らしい。


ノエルは続ける。


「会頭ほどの方になると、緊急の連絡も多いですからね。荷の値段、取引先、街道の状況……時には貴族からの呼び出しもあります」


「すげぇな……」


ルークが呟く横で、カイルも封筒へ視線を向ける。


ただの紙一枚。

だが、その裏では多くの人間が動いている。


エルマーは静かに封を切り、手紙へ目を落とした。


読み進めるうち、その表情がわずかに変わる。


警戒でも、不安でもない。


満足げな、しかしどこか慎重さを残した頷きだった。


実のところ、この旅は完全に準備が整ってから始まったものではなかった。


カイルの商売を守るためにも、そして何より、あの少年が騎士を目指しながら商売を続けていくためにも、いずれ相談を持ちかけなければならない相手がいた。


だからエルマーは、この旅の先で開くべき“別の扉”を見定めていた。


手紙の返事は長くない。


だが、こちらの話を聞くための時間を作る――その意志は十分に伝わってきた。


それだけではない。


文面には、単なる社交辞令では終わらない熱があった。


添えられていた日取りにも無理はない。


剣の街へ着いてから準備を整える余裕もある。


エルマーは小さく息を吐く。


――切り札を使った甲斐はあった。


エルマーは、手紙を折り直して簡易金庫へしまい込む。


かちゃり、と鍵の音が夜へ響いた。


それからまた、野営地には穏やかな空気が戻ってくる。


焚き火の炎がゆらゆらと揺れ、匂い袋の香りが森の闇へ薄く広がっていく。


見張りは立っている。


だが、武具を外して腰を下ろす者も現れ始めている。


「今日も大丈夫だろ」


その言葉に、誰も異を唱えなかった。


――油断ではない。


少なくとも、そう思っていた。


だが、緊張が解け始めていたのは確かだった。


そして、異変は深夜に訪れた。


ドスン……。


ドスン……。


それは、静まり返った夜を内側から揺らすような音だった。


最初は、遠くで大木でも倒れたのかと思うほど低く鈍い響きだった。だが次の音が続いた瞬間、それが倒木ではなく、何かが歩いている音だと、誰もが本能で理解する。


地面そのものを叩くような重い足音が、森の奥からゆっくりと近づいてくる。


そのたびに、焚き火を囲んでいた空気は一瞬で張り詰めた。


遅くまで木を相手に木剣を振っていたカイルも、ぴたりと動きを止める。


振り下ろしかけていた木剣の先が宙で止まり、息を殺すように森の奥へ視線を向けた。


音の間隔。


地面へ伝わる振動。


距離。


その全てを拾いながら、表情から先ほどまでの緩さが消えていく。


「……なんだ……?」


見張りに立っていた傭兵が、乾いた喉を鳴らしながら低く呟く。


だが、その声は問いかけというより、目の前で起きようとしている現実を自分自身が信じきれないまま漏れたものに近かった。


闇の奥。


月明かりの差し込む森の中に、それはいた。


最初に見えたのは、赤い光だった。


獣の目とは思えないほど硬質な、ルビーのような赤。


続いて、ゆっくりと巨体が輪郭を現す。


熊に似た体躯。


だが、それは“似ている”だけだった。


黒鉄のような毛皮は月光を鈍く反射し、その一歩ごとに森の影が揺れる。肩までの高さだけで大人の背を軽く超え、丸太のような前脚の先には、鈍く光る鉤爪が並んでいた。


一歩踏み出すたび、低く地面が震える。


まだ距離はある。


だが、そこにいるだけで、圧が届いた。


「……熊か?」


「……いや、違う。でかすぎる」


誰かが呟き、別の誰かがかろうじてそれを否定する。


だが、その言葉に確信はない。


目の前の異様さに、頭が理解を拒んでいた。


枝から吊るされた匂い袋が、夜風に揺れる。


昨夜は確かに森の気配を遠ざけていたそれを、黒鉄の巨体は気にも留めない。


匂いへ反応した様子すらなく、ただ重い足音だけを響かせながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


どう見ても、あれは魔物だ。


だが、頼みの綱のひとつだった匂い袋が通じないとなれば、空気は一気に冷え切った。


その瞬間、カイルの脳裏に、夢で見た光景が鮮明に蘇った。


硬質の毛皮。


異様な筋肉量。


巨大な鉤爪。


そして、あのルビーのように赤い瞳。


(……間違いない)


夢の中で見た依頼書の一文が浮かぶ。


――討伐対象:アイアーベア

――危険度:★ ★ ☆☆☆

――単独遭遇時、即時離脱を推奨

――複数名での討伐を前提とする


(★二つ……か)


夢の中の世界では、それは決して最高位の魔物ではなかった。


対処法が知られ、素材価値もあり、熟練した冒険者ならば討伐対象として扱える相手だったはずだ。


だが、この世界にギルドも冒険者もいない以上、その基準は当てにならない。


だが――単独遭遇で即時離脱を推奨。


(……要するに、ヤバいってことだ)


カイルは一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。


そして、視線を魔物へ据えたまま、低く言う。


「……アイアーベアだ」


その名が落ちた瞬間、誰も反応できなかった。


名前が分かったからといって、安心できるわけではない。


むしろ、名を持つ魔物だと知ったことで、焚き火の周囲にいた者たちの顔からさらに血の気が引いていく。


「聞いたことはあるが……」


「だが実物は……」


言葉が続かない。


森の奥に棲む存在。


遭遇者が生きて戻らないと噂される希少種。


随分昔、一晩で村一つを壊滅させた――そんな話すら残っている。


だが、だからこそ“本当にいる”と信じ切っていた者は少なかった。


それが今、月明かりの差す森の奥で赤い目を光らせている。


「……嘘だろ……」


自警団の一人が、乾いた声を漏らした。


後ずさる傭兵。


震え出す自警団員。


身体は動かず、喉だけが渇き、握った武器だけがやけに軽く、頼りなく思える。


その騒ぎに、テントで眠っていた者たちもぱらぱらと起き出してきた。


寝ぼけた目で外へ出た商会員たちは、最初こそ何が起きているのか分からず辺りを見回していたが、森の奥に立つ黒鉄の巨体を見た瞬間、眠気も言葉もまとめて喉の奥へ押し込まれた。


外の世界は、まるで地獄の始まりのような光景だった。


エルマーの眠気も一気に覚める。


すぐに周囲へ目を走らせ、商会員たちを起こすよう指示した。


商人として修羅場は幾度も経験している。荷を失う危機も、盗賊に襲われた夜もあった。


だが、目の前のこれは金勘定や交渉でどうにかなる類の危機ではないと、見た瞬間に分かった。


そんな中で――


カイルだけが静かに動く。


慌てる様子も、息も乱れていない。


まるで訓練前の準備でもするように、カイルは手にしていた木剣をルークへ放った。


「え?」


反射的に受け止めたルークが戸惑った声を漏らす。


カイルは視線を魔物から外さないまま、短く言った。


「瓶のホルダー、寄越せ」


その声に、ルークは弾かれたように顔を上げた。


「あ、はい!」


慌てて手に持っていた腰のホルダーを、カイルへ差し出す。


青い液体の瓶。


赤い液体の瓶。


発明家兄弟が作った、氷と火を生み出す魔物素材の加工品だ。


ルークの喉がひゅっと鳴った。


カイルはそれを受け取ると、迷いなく腰へ巻き付けた。


革ベルトが鳴る。


瓶同士が小さく触れ合い、かちゃり、と乾いた音を立てる。


その間も、赤い瞳は一切逸れない。


月明かりの下。


黒鉄の巨体は、ただ静かにこちらだけを見据えている。


カイルはルークから木剣を受け取ると、それを腰へ差した。


そして、足元の石を拾い、森の奥へ向かって投げる。


カランッ。


乾いた音が夜へ弾けた瞬間、アイアーベアの首が跳ねるようにそちらへ向いた。


どよめきが広がる。


カイルは、その反応を見て、口を開く。


「……アイツは、動いた“音”と振動を追う」


それは説明というより、目の前の現象を使って恐怖に沈みかけた者たちの理解を無理やり引き上げるための確認だった。


「嗅覚が鈍いから、匂い袋は効かない」


だが、その直後。


アイアーベアの赤い瞳が、ゆっくりとこちらへ戻る。


石を追った首が止まり、野営地の前に立つカイルへ視線が定まった。


獲物を見失った目ではない。


逆だ。


最初から、誰を狙うか決めていたような視線だった。


その瞬間、カイルは短く目を細める。


今、こいつは“この場で一番大きく動く存在”を捉えている。


(……チッ、こっちを逃がす気はねぇか)


なら、やることは一つだ。


カイルは魔物から視線を外さずに叫んだ。


「エルマー! 商会の人間と護衛団は今すぐ引け!」


一瞬、空気が止まった。


「な、何を言っている!」


即座に返ったのは、エルマーの怒声だった。


「お前を残して退けるわけがないだろう! 相手は――!」


だが言葉の途中で、森の奥からまた重い足音が響く。


闇の向こうで巨大な影が揺れ、月明かりに黒鉄の毛皮が鈍く光った。


エルマーの言葉は正しい。


ここにいる誰よりも、カイルは守るべき存在だ。


未成年で、騎士団長の息子。


何かあれば、商会では責任を負いきれない相手だった。


しかし、カイルは視線を外さないまま、短く息を吐いた。


「……だからだよ。アンタらがここにいたら、俺が動けねぇ」


エルマーが言葉を失う。


カイルはさらに一歩だけ前へ出る。


まだ距離はある。


だが、あの巨体が本気で踏み込めば、一瞬で届く距離だ。


「護衛対象を守るために、全員の意識が後ろに向く。それが一番危ねぇからな」


短く言い切ったあと、わずかに息を吐く。


カイルが見ているのは、目の前の魔物だけではない。逃げ遅れる商会員、怯えて動けない使用人、荷馬車、馬、護衛の配置、火の位置、森の暗さ。


その全てを並べた上で、どこに誰がいれば一番死ぬかを瞬時に見ていた。


「……俺を信じてくれ」


沈黙が落ちた。


森の音だけが残る。


カイルはわずかに息を吐き、視線を魔物へ戻したまま続ける。


「この場で、こいつのことを一番分かってるのは――俺だ」


低く、だがはっきりとした声だった。


「商売でも同じだろ。分かってる奴にやらせる。それが一番損しねぇやり方だ」


焚き火が小さく爆ぜる。


その言葉は強がりではない。


感情でも、勢いでもない。


ただの――最も効率のいい選択だった。


エルマーはしばらく何も言わなかった。


(……なんとも、あの子らしい言い方だ)


理屈を並べているように見えて、突き詰めれば一つしか言っていない。


――ここは任せろ、と。


遠回しで、ぶっきらぼうで、だが芯だけは一切ぶれていない。


これまで幾度も見てきた。


無茶に見える選択を取りながらも、あの少年は必ず結果を引き寄せてきた。


そして――その裏付けとなるだけの腕も、確かに持っている。


「……分かった」


迷いを断ち切るように短く告げると、エルマーはすぐさま声を張り上げた。


「全隊、撤退準備!」


護衛たちが即座に動く。


「これは命令だ。商会の人間を安全圏まで下げる!」


そして、エルマーはカイルへ向き直る。


「必ず戻れ」


短い言葉。


それ以上は言わない。言えば、止めてしまう。


カイルは小さく手を上げただけだった。


「任せとけ」


腰へ差しているのは、訓練用の、刃すらない木剣だった。


それを見た瞬間だった。


「っ……!」


離脱しかけていたノエルの表情が変わる。


思わず足が止まった。


「カイル殿!」


気づけば声を張っていた。


離脱の列から半歩飛び出すようにして荷馬車へ駆け寄り、積まれていた予備の真剣を掴む。


本来なら、未成年のカイルへ真剣を渡すなど許されない。


だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。


そのまま鞘ごと振りかぶり、迷う暇もなく投げた。


「使ってください!!」


夜気を裂いて飛んだ剣を、カイルはわずかにだけ振り向き、片手で掴み取る。


そして、そのまま受け取った真剣も腰へ収める。


抜かない。


まだ、その時ではない。


背後では、既に商会の撤退が始まっている。


馬を引く声。


荷を抱えて走る使用人たち。


車輪が土を軋ませる音。


護衛団が周囲を警戒しながら、商会員たちを後方へ下げていく。


その音に、アイアーベアの赤い瞳がゆっくりと流れ、巨体がわずかに、そちらへ傾く。


(そっちを見るな)


カイルは即座に、腰へ巻いたホルダーへ手を伸ばした。


指先が迷いなく掴んだのは、赤い液体が入った瓶だった。


そして、商隊とは逆方向へ向けて放る。


瓶は弧を描き、森の手前の地面へ落ちた。


ガシャァン!!


乾いた破裂音と同時に、赤い液体が弾ける。


次の瞬間。


ボォッ――!!


火柱が夜の森を照らし上げた。


赤い炎が揺れ、黒鉄の毛皮を鈍く染める。


ルビーのような赤い瞳が、炎越しに完全にカイルを捉える。


カイルは低く息を吐き、わずかに口元を吊り上げた。


「……なぁ、ルーク。あれ、いくらになると思う?」


「は……?」


ルークの声が裏返る。


次の瞬間、アイアーベアの圧を思い出したように半歩後ずさった。


「ば、バカなこと言ってる場合じゃないっすよ……!」


震えた声だった。


だが、カイルは笑っていた。


恐怖ではない。


目の前へ現れた巨大な魔物を前にしてなお、その瞳には獲物を見つけた時のような熱が宿っている。


次の瞬間。


アイアーベアが咆哮した。


「グァァァァアアアアッ!!」


鼓膜が震え、胸の奥が殴られたように跳ねる。


森そのものを揺らすような咆哮に、焚き火の炎が大きく揺れ、何人かが耳を押さえて膝を折りかけた。


その咆哮は、夜空を裂くように森の奥まで響き渡った。

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