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第10話 街での顔

翌日、カイルは朝からどうにも落ち着かなかった。


(……明日から、旅行だ)


胸の奥がそわそわと浮き立ち、期待と不安が同じ場所で小さくぶつかり合っている。


装備は揃っているし、路銀も同行者も行き先も決まっている。


けれど、ランプや保存食、道中で使う細々した雑貨まではまだ手が回っていなかった。


昨日決めた通り、今日は街へ出るつもりだ。


「まずはヴァルディア商会だな」


必要な物を最も早く無駄なく揃えられる場所であり、今回の旅を共にする相手の商会でもある以上、こちらの事情も動きも、すでにある程度は把握されているはずだった。


ルークと共に街行きの服へ着替え、屋敷の馬車へ乗り込む。


やがて街へ着き、石畳の上で馬車がゆっくりと止まった。


カイルは先に降りると、御者へ振り返り、いつものように告げる。


「迎えはいらない。帰りは歩く」


時間に縛られず、好きに動きたい時は、いつもそう伝えていた。


御者は慣れた様子で頷き、その場で二人を見送った。


露店の呼び声、焼き菓子の甘い匂い、通りを行き交う人々の笑い声に包まれながら歩いていくと、その流れの先で一際人の出入りが激しいヴァルディア商会へ入る。


ほどなくして支配人が姿を見せた。


「これはこれは、カイル様。旅のご準備ですね」


説明するまでもないらしい口ぶりに、カイルが軽く頷くと、支配人は笑みを崩さぬまま続けた。


「必要な物は、すべてこちらで揃えております。本日中に最終確認を終え、馬車へ積み込む予定です」


ルークが思わず目を丸くする。


「……え、もう準備済みなんすか?」


カイルは一瞬だけ瞬きをしてから、短く息を吐いた。


「相変わらず、仕事が早ぇな」


急かしはしないが、遅れも作らせない。


それがエルマーという商人だった。


「……じゃあ、俺たち特に買うもん無かったな」


「ですね」


そう返しながらも、カイルは少し考えて視線を上げる。


(今週は顔出す時間、取れねぇと思ってたんだが)


頭に浮かんだのは、自身が持つブランド――トリニティ・クロスの品を作る工房だった。


仲間たちが集まり、試作と改良を重ねるあの場所へは、毎週必ず顔を出している。


何かを頼まなくても、ただ様子を見るだけで意味がある。


あそこが止まれば、商売も止まる。


言うならば、心臓部だ。


しかし、旅に出てもすぐ王都へ戻る。


今日行けなくても構わないと思っていた。


だが、時間が出来たなら話は別だった。


「……せっかくだしな」


「何っすか?」


「時間が空いたなら、行ける」


支配人へ向き直る。


「いつもの部屋、借りるぞ」


支配人は一瞬で察し、静かに頷いた。


案内されたのは商会の奥にある小さな個室で、表向きは商談用だが、この部屋だけは反対側の扉を抜ければ裏口へ出られるようになっている。


エルマーの計らいで、作られた専用の部屋だ。


扉が閉まると、二人は同時に息を吐いた。


「……工房に通うようになってからっすよね」


ルークがぼそりと言う。


「変装、ちゃんとやるようになったの」


「仲間に言われたからな」


カイルは肩をすくめる。


「“その顔で街出歩くな”ってな」


昔は人けのない路地裏で着替えていた。


壁へ背をつけ、服を抱え、誰かが通るたびに息を止めながら。


だが今は違う。


商会という“壁”があり、道具も場所も、精度も上がった。


「……じゃ、着替えますか。兄弟設定っすもんね」


二人は手慣れた動きで、支度を始める。


上等な上着を脱ぎ、質は良いが派手ではない庶民向けの服へ替え、靴を履き替える。


腰紐を締め直し、最後に髪へ手を入れる。


カイルの黒髪には染め粉で少し茶を混ぜ、輪郭を曖昧にし、ルークの金髪も暗く沈めた。


「カイリス、出来たぞ」


ルークの喋り方まで、いつもと違う。


「おぉ、腕上げたな、ルー兄」


「弟の方が生意気なの、気にくわねぇけど」


「そう言うなよ」


カイルは最後に伊達眼鏡をかけ、鏡の中の自分が少しだけ遠くなるのを確かめると、ルークを見て頷いた。


「よし。ルー兄。まずは、菓子を買いに行こう」


「旅のお供ってか?」


「ああ。腹減ってると、判断鈍るからな」


「ついでに工房にも差し入れ買うか?」


「当然だろ」


裏口から出た途端、王都の空気がまた少し違う顔を見せる。


「おぅ、カイリス! ルーカス!」


果物屋の親父が声を張る。


カイルは視線を向け、笑顔で答えた。


「今日も繁盛してるな」


「ありがたいことにな。今度、珍しい果物が入るぞ。カイリスが好きそうな味だ」


「そりゃ楽しみだ」


手を振って進むと、今度は子どもたちが駆け寄ってくる。


「カイリス兄ちゃん!見て!この枝、僕の剣!」


「お、いいな。振る時は、手首を柔らかく使え」


「分かった!」


カイルはまた手を振り、歩きだす。


ここでの彼は、ただの人懐っこい若者だった。


誰も貴族だとは気づかず、気さくに声をかけてくる。


よく行く菓子屋で干し果実の焼き菓子と蜂蜜飴を買えば、袋は二つになった。


ひとつは旅用、もうひとつは仲間たちの待つ拠点への差し入れだ。


「行くか」


「はいはい」


変装は、街に溶け込むためだけのものではない。


毎週変わらず、同じ場所へ通い続けるための顔でもあるのだ。


しばらく歩くと、トリニティ・クロスの工房は通りの奥に構えている。


一見すれば少し大きめの工房だが、近づけば分かる。


金属の音、革を打つ音、木を削る音、布を切る音、それぞれ違う作業音が壁越しに重なり、ひとつの呼吸のように続いている。


扉を開けた瞬間、音の輪郭が一気に鮮明になり、乾いた匂い、熱を含んだ匂い、長く使われた道具の匂いが鼻を打つ。


外とは明らかに違う。


ここでは、音も匂いも、止まらない。


――生きている。


そう感じさせる場所だった。


「お、来たぞ」


誰かの声で、いくつかの手が止まる。


「……カイ坊じゃねぇか」


奥から現れたのは、がっしりした体格の男、ユルグだった。

街で金物師として鍋を直し、刃を研ぎ、金具を打つ“何でも直す”職人だ。


だがその腕は修理に留まらず、異なる素材同士を違和感なく繋ぐ技術にも長けており、カイルが持ち込んだ“普通ではない素材”にも迷いなく手を入れられる数少ない存在だった。


「今日は早ぇな」


「予定がなくなってな」


そう返すと、ユルグは鼻で笑う。


「相変わらず落ち着かねぇな。貴族の坊ちゃんのくせに」


声は低いが、周囲には聞こえない距離だった。


「また背ぇ伸びたんじゃねぇか?」


「それ、先週も言ってたぞ」


彼との出会いのきっかけは、一本のペーパーナイフだった。


魔物素材で何か作りたくなったカイルは、母への誕生日の贈り物と称し、素材を拾い集め、牙を刃へ加工した。


しかし、持ち手部分とどう繋げるか分からず、執事長に紹介されたのがユルグだった。


グランツ家から受けた依頼に、現れたのは小さな子供だった。


「刃と持ち手を、繋ぎたい?」


当時のユルグは、持ち込まれたそれに、簡単な仕事だなと感じる。


しかし、どう見ても刃は鉄ではない。


動物の骨か牙なのか、白いながらも薄い青みがかかっていた。


これは実用品じゃないな。飾りにするのか?と思いながらも、試しに紙を切ってみる。


すると、その異様な切れ味に震えた。


――これは、普通じゃねぇ。


それがカイルにとって、初めて“形になった魔物素材での完成品”であり、出会いだった。


「カイ坊、戻ってたのか」


メガネをかけた細い男、ハンスがそう言ってほっとしたように笑う。


革を扱う靴職人で、今はこの工房の要だ。


滑りにくい靴底の試作を、最初に“商品”として形へしたのが彼であり、それがカイルの商売の始まりでもあった。


そこへ首を突っ込んできたのが、ユルグだ。


「俺も混ぜろ」


ペーパーナイフの切れ味を見て、この素材は何だと、しつこく食い下がり、カイルの作るものに関わるようになる。


「おぉ、カイ坊。今週も怪我人ゼロだぞ」


日焼けした筋肉質の体をした、がたいのいい男、ドルフが声を張る。


元・自警団の隊長で、その人脈で怪我で自警団を退いた者や、働き口を失った者、腕はあるのに居場所をなくした者たちが、この工房へ少しずつ集まってきた。


「カイリス、頼まれてた森の新しい地図、出来たぞ」


いつの間にか背後に立っていたベイルが、紙束を置く。


ルークがびくりと肩を跳ねさせた。


猟師のベイルは無口で気配が薄く、そこにいるはずなのに意識から抜け落ちるような男だった。


森を知り、魔物素材を拾い、ドルフと一緒に元自警団の者たちをまとめる。


必要な材料を集める彼は、ユルグの幼なじみだ。


彼ら四人はトリニティ・クロスの立ち上げメンバーであり、カイルの正体を知る数少ない存在で、この工房を引っ張る中心だ。


ラインハルトほどの年齢ではないが、誰もがカイルをどこか息子のように見ていた。


そして、ここでは誰も“坊ちゃん”とも“カイル”とも呼ばない。


使われる名は、もちろん偽名だ。


「カイ坊」

「カイリス」


それは本当の正体から距離を取るための仮面であり、同時にこの工房を守るための共通認識だった。


工房には他にも職人がいるが、全員が貴族の正体まで知っているわけではない。


ここでは発明家兄弟、カイリスとルーカス。


それでいい。知っている者が、あえて隠す。


それが、この工房のやり方だった。


カイルは皆へ新作の売れ行きを話す。


「この前の肩からかけられる袋、売れてるぞ」


「本当か!?」


「布と革の合わせ、あれが効いてる。街歩きにも向いてるしな」


カイルが小さく頷く。


「ハンスの革選びがよかったし、ユルグの金具も映えてる」


皆が互いに顔を見合わせ、やったなと笑う。


ルークはそんな様子を見て、くすりと笑った。


今や一大ブランドとなったトリニティ・クロスの商品を、実際に量産している場所は別にあり、その大半は今やヴァルディア商会が担っている。


ここは量を作る場所ではない。


考えて、作って、壊して、次を生む場所だ。


この工房そのものも、のちにヴァルディア商会が金を出して建てたものだ。


長い付き合いの中で積み上げた信頼と、成功を見せてきた結果でもある。


「で?」


ユルグが腕を組む。


「今日は何やらかす気だ」


カイルは苦笑して肩をすくめた。


「今回は何もねぇよ。明日から旅行だ。しばらく来れねぇからな」


一瞬、工房の空気が止まり、それから笑い声が上がる。


「お前だけズルいぞ!」

「私もついて行きたいですね」

「俺も行きてぇな」

「気をつけろよ」


好き勝手に飛び交う言葉のどれもが、結局は同じ意味を持っていた。


工房にいる者たちの視線が自然とカイルへ集まり、それは送り出す者の目だった。


期待と心配が同じ温度で混じった眼差し。


誰も引き止めない。だが、帰ってくることだけは疑っていない。


「だから聞きに来た。土産はどんなのがいい?」


肩をすくめて笑うカイルへ、ハンスが穏やかに首を振る。


「無事に帰ってきて下さい」


ドルフも頷く。


「怪我せず戻ってこい」


ベイルは小さく笑う。


「道中死ぬな。それだけだ」


ユルグが、どん、と自身の胸を叩く。


「こっちは任せてけ。留守中、回しとく」


カイルは少しだけ目を細めた。


「……頼む」


工房は、自分がいなくても回る。


だからこそ、安心して背を向けられる。


だが、守るだけでは足りない。


商売が広がれば、匂いも広がる――すでに、それを辿る者もいる。


隠し続けるだけでは、いずれ追いつかれる。


エルマーが何かを考えて動いているのは分かっている。だが、それを待つだけでは足りない。


自分の手で、次を打つ。


この場所を守るために。


そのきっかけを――この旅で掴む。


カイルはそう考えながら、しばらく工房の中を見て回った。


炉の熱がじわりと肌にまとわりつき、鉄や薬品、薬草の混ざった匂いが鼻に残る。その中で交わされる声や道具の音は雑然としているようでいて、工程ごとに役割が分かれている分、どこか秩序だった流れを保っていた。


皆がカイルとルークを見るなり、今週も来たのかと嬉しそうに笑う。


それは単なる挨拶ではなく、“来てくれること”そのものへの安心だった。ここにいる者たちにとって、カイルの来訪は仕事の進み具合を確認する場であると同時に、自分たちの存在価値を確かめる機会でもある。


ここには自警団だった頃、魔物に襲われ、腕や足を失った者もいる。


本来なら領地の盾であるはずの自警団が、守る側として使い潰され、使えなくなれば切り捨てられる――そんな構造の中で弾き出された者たちだ。


それでも、座って出来る作業や、鍋をかき混ぜるなど、魔物の素材を加工するには、様々な工程がある。


単純な力仕事だけではなく、時間をかけて煮詰める工程や、繊細な手作業を求められる部分も多い。だからこそ、体を失っても“仕事として成立させる余地”は残っていた。


その人に合った作業を考えるのが、カイルは上手かった。


いや、正確には“その人にどれだけ仕事をさせられるか”を見極めるのが上手いと言った方が近い。無理をさせて壊せば元も子もないが、余力を残しすぎるのも無駄だ――その境界を測る感覚が鋭かった。


先週やりにくそうに、革を切っていた元自警団の男の元へ近寄る。


彼は片足がないが、指先は器用だ。


しかし、座ってやる長時間の作業に、足の踏ん張りが効かず、姿勢が安定しないために余計な力が腕へと逃げてしまい、その分だけ疲労が早く溜まっていた。


そこでカイルは、体を楽に支えられるように椅子を改造した。


単に座面を広くするのではなく、重心が自然に前へかかるよう角度を調整し、残っている足で軽く支えれば上半身に余計な負担がかからない構造にしている。


長時間の作業でも効率が落ちにくくなる――そう計算した上での変更だった。


「どうだ?少しは疲れなくなったか?」


そう聞くと男は頷き、随分よくなったといい、休憩もしなくて良くなったと答える。


その言葉には、単なる使い勝手の改善以上に、“自分がまだ役に立てている”という実感が滲んでいた。


カイルは満足そうに笑い、男の肩を叩く。


「よかった、よかった。これで、前の倍は働けるようになったな」


あまりにも自然に出たその言葉に、男は一瞬ぎょっとしたように目を見開く。


その横で、ユルグが呆れたように鼻を鳴らした。


「お前は本当に、人をこき使うのが上手ぇからな」


だが、すぐに周囲の空気が緩む。


カイルの思考を、ここにいる皆が知っている。


笑いには、自嘲も混じっているが、それ以上に“ここに居場所がある”という安堵があった。


怪我をして、働き口のなかった者達に、国や貴族からの補助金はない。


勝手に招集され、使いものにならなくなったら、それまで。


それが、この国の当たり前だった。


そんな現実を変えてくれたのは、カイルだ。


だが、彼はそれを“救った”とは思っていない。


ただ、使える力を使える形にしただけだと、合理的に割り切っている。


「そろそろ帰るか」


一通りの確認を終えたことで、この場でやるべきことは終わったと判断し、カイルは余計な言葉を足すことなく、静かに工房の扉へと足を向ける。


「行くぞ、ルー兄」


「はいよ、カイリス」


工房を出る時、背中へ声が飛んだ。


「帰ってきたら、また面白いもん考えろよ!」


カイルは振り返らず、受け取った森の地図を掲げて振った。


「ああ」


正体を知っている者が前に立ち、知らない者には余計な重さを背負わせない。


その均衡が保たれている限り、この心臓は止まらない。


そう思いながら、カイルたちは再びヴァルディア商会へ戻り、奥の個室で髪に馴染ませた染め粉を落としていった。


濡れた布で黒に混ぜた茶を拭いながら、鏡の中に少しずつ戻っていく自分の顔を眺めていると、先ほど見た工房の光景が脳裏をよぎった。


あの場所も、あいつらも、守らなければならない。


そのためには、待つだけじゃ足りない――自分も動くしかない。


そう決めたはずなのに。


鏡に映った自分の目を見た瞬間、不意に胸の奥へ不安が差し込む。


もし、全部バレたら。


その引っかかりが、そのまま言葉になった。


「……もし俺のやってたことが表に出ちまったら、お前に工房を任せる」


ぽつりと落ちた声に、ルークの手が止まる。


「……は?」


一瞬だけ目を丸くしたルークは、すぐに顔をしかめると、いつもの調子を取り戻したように肩をすくめた。


「何言ってんすか、坊ちゃん。その時は俺も坊ちゃんと他国に行くんで、工房はエルマーさんに任せましょう」


「……お前、どこまで俺についてくる気だよ」


カイルが小さく笑うと、ルークは当然だと言わんばかりに胸を張った。


「どこまでって、そりゃ最後までっすよ」


そして、何でもないことのように笑う。


「俺たち、相棒っすから」


カイルが小さく笑うと、ルークは当然だと言わんばかりに肩をすくめる。


「その時は、きっとユルグさんたち、工房のみんなも“ついていく”って言い出しますよ」


「そりゃ大ごとだな」


カイルとルークは視線を合わせ、笑い出す。


旅に出て、何が変わるかは分からない。


どこかで何かを失うかもしれないし、守りたいものを守りきれない日が来るかもしれない。


それでも、ルークが隣にいるなら。


みんなが力を貸してくれるなら、どこでだろうと、何を失おうと、また一からやっていける気がした。


だがその時、カイルはまだ知らなかった。

この旅が、その“前提”を崩すことになるとは。

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