第4話 謝罪を買わせる女
東京、西新宿。
地上二百メートルの超高層ホテルに位置するラウンジバーには、低く抑えられた間接照明が灯っていた。磨き上げられた大理石の床とベルベットのソファが淡く照らし出され、重厚な葉巻の煙が滞留している。時折響くクリスタルグラスが触れ合う音色が、静寂に上品なアクセントを加えていた。
佐藤はダークスーツを着こなし、足音一つ立てずに厚い絨毯の上を歩いていた。案内を申し出たウェイターを視線で制し、奥のVIP席の状況を確認すると、そのまま真っ直ぐに歩みを進める。
窓際を背にして、深紅のイブニングドレスをまとった千尋が座っていた。
向かいには、高級ブランドのスーツを着崩した恰幅の良い初老の男がいる。男はだらしなく頬を緩め、グラスを持ち上げるたびに左手の限定モデルの腕時計が照明に光るよう、不自然なほど何度も手首の角度を変えていた。
「いやあ、千尋さんのような若くて知的な女性に会えて本当に光栄だよ。今度、僕のクルーザーで葉山あたりまで」
「まあ、クルーザーをお持ちなんですか? でも私、さっきから船よりそちらの方が気になってしまって」
「え? これかい?」
「ええ。手首を動かすたびに照明を反射して……少し眩しいくらいですわ。普通の時計店ではお目にかかれないモデルでしょう?」
千尋は静かに微笑みながら、男のグラスにシャンパンを注ぎ足した。
男は待っていましたとばかりに胸を張り、身を乗り出した。
「よく分かるね! いやあ、やっぱり見る目があるな。これ、店頭には絶対並ばないやつでね。ある大手化粧品メーカーの会長に特別に枠を回してもらったんだよ」
「会長直々に? すごいお顔ですね。お得意様か何かで?」
「いやいや、そこの社外取締役をやってるからね。広告予算の承認なんかにも判子を押す立場だから、会長ともしょっちゅうゴルフや飲みに行く仲なんだよ」
「化粧品メーカーの広告予算。あら、じゃあ今度MIIKAさんをアンバサダーに起用されるっていう噂の会社ですか? 先日、美容業界の編集者からちらっと小耳に挟んで」
「ほう、もうそんな話が回ってるのかい。耳が早いねえ。まさにそこだよ、秋の大型キャンペーンの目玉でね」
「華やかなプロジェクトになりそうですね。ただ、この時期だと広報の方は胃が痛いんじゃありません? 例の美容サロンとの騒動、ずいぶんネットが荒れていますし」
「ああ、あれね。実際、現場の広報連中は朝から顔色をなくして駆け回ってるよ。ただまあ、役員連中は彼女のフォロワー数と売上しか見ていないからねえ。『契約書に品位保持条項はあるが、数字を持ってくるうちは少々のトラブルには目をつぶれ』っていうのが、上の正直な空気さ。ははは、ここだけの話だよ?」
千尋が相槌を打ちながら男から社内の空気を聞き出し終えたところで、佐藤は二人のテーブルの傍らに立ち、事務的で冷淡な声をかけた。
「失礼します。お時間です」
唐突な介入に、男が不機嫌そうに振り返る。
「なんだ君は。今いいところなんだ、関係者以外は立ち入り禁止だぞ」
「申し訳ありません。社長、次のオンライン会議の時間が迫っております。ニューヨーク支社が待機しておりますので」
佐藤は千尋に向けて短く頭を下げた。
千尋は一瞬だけ驚いたような素振りを見せたが、すぐに立ち上がった。
「あら、もうそんな時間? うちの秘書ったら、一分単位でスケジュールを管理しないと気が済まない質なの。ごめんなさい、続きはまた今度聞かせてくださいね」
「えっ、ニューヨーク? あ、いや、名刺くらいは」
名残惜しそうに手を伸ばす男を残し、彼女は佐藤の方へ歩き出す。
ラウンジを出て、エレベーターで地下駐車場へ向かう最中。千尋の表情から、営業用の笑みが剥がれ落ちた。
「『ニューヨーク支社が待機』ですって? もう少しマシな嘘はつけないの、ミスター・サトウ。あと五分黙っててくれれば、担当の広告代理店の名前まで気持ちよく歌わせられたのに」
「あの調子でシャンパンを空け続けたら、代理店の名前より先にクルーザーの部屋割りを聞かされる羽目になりますよ。スポンサー内部の温度感と契約条項の扱いが確認できただけで十分です。それに、回収した文書の法的検証が先決です。オフィスで彩を待たせていますので」
「ああ、吉田先生ね。それは確かに遅れたら怖いわ」
佐藤は正面の階数表示を見つめたまま、静かに返す。
地下駐車場に到着すると、佐藤は駐車してあった漆黒のセダンのロックを解除した。
佐藤が運転席に、千尋が助手席へと乗り込む。
セダンは滑るように走り出し、雨の降りしきる都心方面へと向かった。
車内で、ダッシュボードに固定された佐藤の端末に通知が入る。
赤坂のオフィスで待機している襟華からの通信だった。佐藤がハンズフリーで応答すると、スピーカーから襟華の声が響いた。
『もしもし、スーツ? まだホテル? 今ね、監視クローラーがピコピコ鳴り出したんだけど。MIIKAが新作コスメの発表を兼ねた特別配信をやるってんで、港区の会員制スタジオへ移動を始めたっぽいよ。あと、スタジオの裏口に機材搬入の白いバンが出入りし始めてる』
「分かりました。先ほど事務所側へ送った事実確認の質問状は、黙殺する方針のようですね」
『無視っていうか、そもそも文字が読めないんじゃない? でさ、さっき古参ファンの過去ログを追加で掘ってたら、MIIKAの配信イベントに毎回入ってる制作会社の名前が出てきたんだよね。今裏口に来てるバンがそこの車両かどうか、ナンバーを押さえた方がいいと思わない? オフィスからでも周辺の防犯カメラとか公開ストリームは追えるけど、さすがにあの暗い裏路地の奥までは字が潰れちゃってさ』
「そうですね。搬入車両とイベント制作会社の関係は確認しておく必要があります。赤坂へ戻る前に、私の方で現地の記録を取っておきます」
助手席の千尋が眉を寄せた。
「ちょっと、この格好で今からスタジオへ寄るの? 質問状を突きつけた直後よ。一昨日の六本木のパーティーみたいに、向こうが周辺をピリピリ警戒している可能性があるわ」
「ドレスの裾を泥水で汚させたりはしませんよ。表通りから裏口が抜ける場所があります。路地へは入らず、車内から必要な記録だけ取ってそのまま離れましょう」
『りょーかい。じゃあ映像が撮れたらすぐクラウドに投げてよ。あたしの方でナンバーと関連法人の照合を回しとくから。あ、千尋さん、帰りに何か甘いもの買ってきてくれてもいいよ?』
「通信を切りますよ、田中君」
『ちぇっ、ケチ』
通信を終えた佐藤は、港区の会員制スタジオ近くへと車を走らせた。
雨脚が強まる中、セダンはスタジオ裏手へと続く路地の向かい側、表通りに面したコインパーキングの出口付近へと滑り込んだ。
佐藤はエンジンを切らず、いつでも発進できる状態でステアリングに手を添えながら、ダッシュボードの車載カメラをズームさせた。雨粒の向こう、三十メートルほど先の路地奥にある業務用コンテナの近くに、機材搬入用の白いバンが停まっているのが映し出される。
暗視補正によって車両のナンバープレートとロゴが鮮明に記録された、その時だった。
路地の入り口付近の軒下から、イベントスタッフ用の黒いナイロンブルゾンを着た男たちが二人、フードを目深に被って姿を現したのだ。首からスタッフパスを下げているものの、搬入作業には一切手を出さず、周囲で減速する車両ばかりを監視していたらしい。表通りに停まったセダンに気づくなり、男たちは険しい目つきでスマートフォンのカメラをこちらへ向けながら歩み寄ってこようとした。
「質問状を送っただけで、表通りまで見張りを出していましたか」
「ほらご覧なさい。やっぱり相当お冠じゃない。どうするの? もうこっちにカメラを向けてるわよ」
「向こうのレンズの画角なら、雨とヘッドライトの反射で車内までは映りません。記録は完了しました。接触する理由がありません」
男たちが路地から表通りへ出るより早く、佐藤は落ち着いてウインカーを出し、幹線道路の本線へと滑らかに車を合流させた。バックミラーの奥で、路地の出口に立ったスタッフ風の男たちが遠ざかっていく。
安全な距離を確保し、後方に追尾車両がないことを確認してから、佐藤は車載端末を操作して記録データをクラウドへ送信した。すぐにオフィスにいる襟華から通話が入る。
『データ受け取ったよ、スーツ! ナンバーもロゴもばっちり。ていうか、映像の最後、なんかガラ悪そうなスタッフ連中がこっち睨みつけてなかった? 大丈夫だったの?』
「ええ、問題ありません。離れた位置から記録してそのまま移動しました。ただ、敵の警戒態勢と、周辺に見張りを配置している事実は確認できました。これ以上の現地確認は不要です。これよりオフィスへ戻ります」
『りょーかい。あたし、すぐナンバーの照合に回るから、気をつけて戻ってきてよね!』
通話を終えた佐藤は、夜の東京を赤坂方面へと真っ直ぐに駆け抜けた。
★★★★★★★★★★★
午後九時。赤坂の「リカバリー・ライン」のオフィスには、落ち着いた緊張感が漂っていた。
応接スペースのソファには、先に到着して書類に目を通していた一人の女性と、PCを抱えた襟華が座っている。佐藤と千尋がオフィスへ入ると、襟華が顔を上げた。
「遅いよ、二人とも。うわ、千尋さん、またずいぶんキツい香水つけてない? 換気扇回しても部屋ん中がデパートの一階みたいなんだけど」
「あら、お出迎えご苦労さま。葉巻臭いタヌキ親父の隣で微笑むには、これくらいの武装が必要なのよ。あなたこそ、徹夜明けのタヌキみたいな目のクマをしてないで、少しは鏡を見たら?」
「誰がタヌキよ! こっちはあんたたちが雨のドライブを楽しんでる間に、車両ナンバーからイベント制作会社の登記情報まで全部引き抜いたんだからね」
軽口を叩き合う二人をよそに、ソファの中央に座る女性が、揃えた書類の端を指先でトントンと整えた。
艶のある黒髪をタイトにまとめ、チタンフレームの眼鏡をかけた、凛とした美貌の女性だ。イタリア製の上質なパンツスーツを隙なく着こなした彼女は、チタンフレームの眼鏡のブリッジに軽く指を添え、静かなポーカーフェイスでモニターを見つめている。
吉田彩。元検事の弁護士で、佐藤が法的な判断を任せている協力者の一人だ。
「香水とタヌキの議論は後にしてちょうだい。私のタイムチャージ、安くはないのよ」
彩の冷静な一言に、襟華が「ちっ、出たよ守銭奴」と小さく舌を出して画面に向き直る。
佐藤はコートをハンガーにかけ、昨夜、元美容師の芹沢の連絡先から送られてきた要求文書のスキャン画像をメインモニターに表示させた。
「待たせました、彩。その文書の検証結果を聞かせてください」
「――芹沢氏側から提供された一年半前の『合意書案』、および関連するメッセージの記録、一通り精査したわ」
彩は手元のタブレットとプリントアウトされた資料を並べ、視線を上げた。
「特にタチが悪いのは第三条と第五条ね。当時の渋谷のサロンに対し、『MIIKAのブランド価値を毀損したことへの謝罪文の掲載』を求めるだけでなく、『今後二年間、MIIKAが指定する関連企業の美容商材を優先的に店舗で取り扱い、売上の一定割合をコンサルティング料として支払うこと』が盛り込まれているわ」
「ちょっと待って。謝罪してほしければ、うちの息がかかったシャンプーやトリートメントを毎月仕入れて、さらにみかじめ料まで払えってこと?」
千尋が呆れたように息をつく。
「ええ、平たく言えばそうね。通常のトラブル解決を目的とした和解契約書とは程遠いわ。芹沢氏個人が事実無根の謝罪への署名を拒絶し、当時のサロン経営者もこの取引条件には応じなかったから、契約自体は成立していないけれど」
「ほんっと胸糞悪いやり方!」
襟華がソファの肘掛けをバンと叩き、画面を睨んだ。
「今回のサロンには自分が四十分も遅刻して文句言ったくせに、以前のサロンには謝罪しろだの商品を買い取れだの、やってることが完全に当たり屋じゃん!」
「法的にも、公序良俗違反や優越的地位の濫用に該当し得る悪質な条項よ。今回の『アトリエ・ルーチェ』への執拗な攻撃も、最終的には同じような商業的譲歩を引き出すための布石だった可能性があるわね」
佐藤は腕を組み、モニターの隅に表示されている文書ファイルのプロパティ情報に視線を落とした。
「彩。この文書の作成履歴と、文面の構成についてどう見ますか。MIIKA本人が独力で書いたものとは思えませんが」
「ええ。普段のSNSの語彙力からしてもまず無理ね。違約金条項や口外禁止条項の言い回しを見る限り、少なくとも法律や危機管理の実務に詳しい人間が後ろで糸を引いている可能性が高いわ」
「へえ。あの女王様、自分の帝国を全部一人で支配してるつもりで、裏では誰かに台本を書いてもらってるわけね」
千尋が皮肉っぽく口角を上げる。
佐藤は頷き、手元のキーボードを操作して文書ファイルの画面を切り替えた。
「芹沢氏の文書は、公開資料から外しましょう。元の画像には当時のサロン名や施術日時が記載されているため、そのまま出せば情報提供者を特定されるおそれがあります。MIIKAの所属事務所や主要スポンサー企業向けの確認資料として、別に用意します」
「佐藤、それだけでは甘いわ」
彩が眼鏡の奥から真っ直ぐな視線を向けた。
「企業の法務部門や所属事務所へ個別に提出するなら、確かにネットへ一般公開するよりはリスクを抑えられるでしょうね。でも、提出した先の人間が全員まともだと思わないことよ。もし事務所の担当者が『こういう資料が来ている』とMIIKA本人にコピーを渡したら? 彼女が逆恨みして、今夜の配信で芹沢氏の名前を晒し上げないという保証はどこにもないわ。閲覧できる担当者の範囲と資料の管理方法は、出す前に釘を刺しておく必要があるわね」
「確かに。提出先から本人へそのまま横流しされるリスクまでは、条件を詰め切れていませんでした」
佐藤は数秒間思考を巡らせ、彩の指摘を受け入れた。
「では、企業側へ提示する際も要求文書の画像そのものは渡さず、まずは『過去の取引先に対する不当要求の記録が存在する』という事実の概要のみを伝え、独立したコンプライアンス調査を求める形式にしましょう。詳細な資料の開示は、先方の法務担当者と守秘条件を確認した上で、彩の方で直接条件を詰めてもらえますか」
「ええ、それなら筋が通るわ。最初からそう言いなさい。資料を見せる前に、私の方で先方の法務部門とロックをかけるわ」
彩は変更された構成案を目で追い、納得したように頷いた。
「さっき千尋がタヌキから聞き出してきた話とも繋がるけれど――」
「タヌキ親父よ、彩。そこは大事だから間違えないで」
「どっちでもいいわ。とにかく、大企業の法務やコンプライアンス部門は、タレント個人の接客トラブルには鈍くても、『優越的地位の濫用』や『不当要求行為』の疑いとなれば話は別よ。自社のガバナンスに関わる法的リスクとして、嫌でも動かざるを得なくなるわ」
その時、襟華のタブレットが短い通知音を鳴らした。
襟華が画面を操作し、音声のみをスピーカーに切り替える。
「あ、スーツ、静かに! 今MIIKAの特別配信が始まったよ。うわ、聞いて、挨拶もそこそこに今回の件を喋り出した!」
オフィスのスピーカーから、華やかなBGMと共にMIIKAの弾んだ声が流れ出した。
『みんな、お待たせ! 今夜は新作の発表の前に、ちょっとだけ大事なご報告があります。なんかね、例の美容サロンの件で、事実確認がどうとかっていう変な連絡がうちの事務所に来てるみたいなの。ほんと、まだ悪あがきしてて呆れちゃうよね』
四人は無言のまま、デスクの中央に置かれたタブレットを見つめる。
『でも安心して。私には百万人以上のフォロワーのみんながついてるし、スポンサーの企業様からも全面的に支持するって言ってもらえてるの! だから明日の夜、今回の件で裏からコソコソ私を陥れようとしてる悪質な中傷者たちについて、私の口から全部ぶっちゃける反論動画を出すことにしました! みんな、拡散よろしくね!』
襟華が呆れたように口をあんぐりと開けた。
「はぁ? 『スポンサーの企業様からも全面的に支持するって言ってもらえてる』だってさ。ねえ千尋さん、さっきのタヌキのおじさん、そんなこと言ってたっけ?」
襟華の言葉に、千尋が冷ややかな笑みを浮かべ、彩が小さく息を吐いた。
「あの社外取締役は『少々のトラブルなら目をつぶる空気』としか言っていなかったわよ。勝手に『全面支持』なんて公言されたら、今ごろ広報担当者は胃に穴が空いてるでしょうね」
「ええ。大企業の役員や法務が一番嫌うのは、コントロールできない取引先に自社の名前で勝手な保証をされることよ」
佐藤は彩と最終確認を終えた企業向け資料のファイルを保存し、静かに画面を閉じた。
「彼女はスポンサーが全面的に支持していると公言しました。事実かどうか、各社に確認を取りましょう。彩、明日一番で各社の法務部門へ確認要請を送ってもらえますか」
「ええ、書面は今夜中に作っておくわ。相手がどういう顔で回答してくるか見ものね」
「千尋は、昨日の取材データのうち公開可能な範囲を整理してください。田中君には、明日の反論動画の初動と古参アカウントの動きを追ってもらいます」
「了解。お肌のために日付が変わる前には帰るわよ」
「りょーかい。あたしはレッドブル空けて張っとくから、任せてよ!」
佐藤はそれぞれの返事を確認すると、明朝送付する照会文の最終確認へと取りかかった。




