第3話 美しい女ほど、嘘を美しく語る
午後七時五十分。
港区六本木の交差点から一本奥に入った裏通り。ネオンの光が乱反射する濡れたアスファルトの上を、高級車のタイヤが次々と滑っていく。
華やかな表通りから隔離されたその路地の奥で、襟華は暗がりに身を潜め、小さく息を吐いた。
普段の革ジャンとブーツではなく、背伸びをして選んだモノトーンのタイトなワンピースに身を包み、架空の若手インフルエンサー『ERI』としての装いを整えている。公開情報からMIIKAが今夜この会員制クラブでシークレットパーティーを開くことを突き止め、独断で現場の様子を探りに来たのだ。
しかし、彼女の視線の先にある光景は、事前に想定していた華やかなパーティーの入り口とは程遠いものだった。
「もしもし、スーツ。これ、見えてる?」
襟華は耳に仕込んだ極小の骨伝導レシーバーに向かって、唇をほとんど動かさずに囁いた。無断で現場へ向かったことが発覚してから、すでに通信は接続された状態になっている。
『ええ、嫌というほど鮮明に。君の胸元のピンホールカメラから、非常に興味深い映像が届いていますよ』
赤坂のオフィスから監視システムを統括している佐藤の声が返ってくる。
襟華の視線の先――会場となる会員制クラブのエントランスには、黒のスーツを着た屈強な男たちが複数名立ち塞がり、招待客に対して異様なまでのボディチェックを行っていた。
「なんかさ、想像してたキラキラ感ゼロなんだけど。招待客のバッグの中身を全部ひっくり返させてるし、あのゲート、空港にあるやつよりゴツくない? あたしのクラッチバッグに入ってる録音用のカスタムUSB、これ絶対アウトだよね」
『でしょうね。加えて、奥では女性スタッフがかなり念入りに身体検査をしています。スマートフォンまで一時預かりとは、随分とまあ秘密主義なパーティーだ』
黒服たちの威圧的な視線と、厳重すぎる管理体制。襟華は自分の腕を強く掴み、奥歯を噛みしめた。
「今から『道に迷いました』って顔して通るのは?」
『そのドレスでですか。田中君、諦めて引き返してください』
「はーい、分かりましたー。撤退、撤退っと。ここはあたしの手には負えないわ」
『そのまま表通りへ出て、タクシーでオフィスへ戻ってください。寄り道はなしですよ』
通信が切れる微かなノイズが耳の奥で響いた。
襟華はもう一度だけ厳重に閉ざされたエントランスを睨みつけると、悔しそうに踵を返した。
★★★★★★★★★★★
午後十時。
赤坂のオフィスに戻った襟華は、慣れないヒールを脱ぎ捨てると、応接用のソファに深く倒れ込んだ。
「あー、もう最悪! 足痛いし! なんなのあいつら、ただのイベントスタッフじゃないでしょ! あんなガチムチの連中に守られてるなんて反則じゃん!」
襟華はクッションを抱え込み、天井を忌々しそうに見上げた。だが、執務スペースから出てきた佐藤がソファの前で足を止めると、気まずそうに視線を逸らして口をつぐんだ。
「なによ。怒ってる?」
「怒ってはいません。呆れているだけです」
「うわ、一番タチ悪いやつじゃん。悪かったってば。あの黒服の連中を見たら、あんたが止めた理由も分かったよ。もう勝手には動かないから」
「二度としないでください。君が危険を冒す必要はありません」
襟華がクッションに顔を埋めたまま小さく頷くのを確認すると、佐藤はそれ以上追及することなく、オフィスの奥にあるキッチンスペースへと向かった。
ジャケットとネクタイを外して白シャツの袖を丁寧にまくり上げ、清潔なエプロンを身に着ける。手洗いを済ませた彼は、静かにまな板の前に立った。
冷蔵庫から取り出したのは、前日から下茹でし、余分な脂を落としておいた豚バラ肉の塊だ。美しい層を成している肉を包丁の刃先で均等な大きさに切り分け、醤油、酒、みりん、そして薄切りの生姜と共に銅製の雪平鍋へ入れて火にかけた。
中火で煮立たせて浮き上がったアクを丁寧にすくい取った後は、極弱火に落として木製の落とし蓋を乗せる。やがて鍋の中から、煮汁がクツクツと規則正しい音を立て始めた。
デジタルタイマーをセットした佐藤は、もう一つのコンロで出汁巻き卵の準備に取り掛かる。
ガラスのボウルに卵を三つ割り入れ、白身のコシを切るように菜箸を動かしながら、あらかじめ引いて冷ましておいた一番出汁を加えた。味付けは少量の塩と薄口醤油のみ。
よく熱した銅製の卵焼き器に油を馴染ませ、卵液を薄く流し込むと、香ばしい出汁の匂いがふわりと立ち上った。
表面が半熟状態になった瞬間に手首のスナップを利かせ、向こう側から手前へと折りたたむ。油を引き直しては卵液を流し込む工程を淀みなく繰り返すと、焦げ目は一つもなく、四隅まで角の立った美しい直方体の出汁巻き卵が焼き上がった。
佐藤は角煮と出汁巻き卵をそれぞれの小鉢に盛り付けた。角煮の表面には飴色のテリが浮かび、出汁巻き卵からは豊かな湯気が立ち上っている。それらを炊きたての白米と共に木盆に乗せ、ソファで背中を丸めている襟華の前のローテーブルに置いた。
「食事にしてください」
それだけ言い残し、佐藤は自分の分の盆を持ってデスクへ戻った。
スマートフォンを弄っていた襟華だったが、漂ってきた出汁と醤油の香りに鼻をヒクつかせ、無言で箸を手に取った。
角煮は、箸を入れるだけで抵抗なく崩れた。一口頬張ると、脂身の甘みと生姜の効いたタレの旨味が口腔内に広がる。続いて出汁巻き卵を口に運べば、上品なかつお出汁がじゅわっと溢れ出し、喉の奥へと消えていく。
五分後、空になった茶碗を置いて、襟華が口を開いた。声から先ほどのトゲは消えていた。
「ねえ、スーツ。本業こっちに変えたら? 赤坂で小料理屋やったほうが絶対儲かるって」
「生憎ですが、客のあしらいが苦手でしてね」
佐藤は顔を上げず、自分の分の角煮を口に運んだ。
「それは同感。悔しいけど、めちゃくちゃ美味しかった」
「それはよかった」
「なによ、それだけ? もっとこう、シェフの満面の笑みとかないわけ?」
「喜んでいますよ。心の底から」
「どの口が言ってんのさ、顔が完全に初期設定のままなんだけど」
「私の仕様です」
素っ気ない返答に、襟華は小さく肩をすくめた。だが、すぐに表情を引き締め、悔しそうに箸を置いた。
「で、どうすんの? あたしの潜入プランがボツになったわけだけど。あんな鉄壁の女王様、誰なら近づけるっていうのさ」
「渡辺千尋に頼んであります」
「は? 千尋さん?」
「ええ。昨日のうちに取材を依頼しました」
「いやいや、ちょっと待ってよ。確かにあのお姉さん、顔は広いし口も上手いけどさ。相手は今まさに炎上中でピリピリしてるMIIKAだよ? 普通、ライターの取材なんか受けるわけないじゃん」
「彼女なら、相手に警戒されずに懐へ入る口実を作れるでしょう。少なくとも、慣れないヒールで靴擦れを作っている誰かさんよりはね」
「なっ! 靴擦れなんかしてないし! ちょっとサイズが合わなかっただけだし!」
佐藤は軽く息をついて立ち上がり、窓際に移動した。
内ポケットから黒いスマートフォンを取り出し、暗号化された連絡先リストから『W.Chihiro』を選択する。
コール音が三回鳴った後、不意に接続音が響いた。
『あら、珍しい』
スピーカーから聞こえてきたのは、深夜の空気に溶けるような、ハスキーで艶のある声だった。向こうでピアノが鳴っている。グラスの氷が触れ合う音も微かに聞こえた。どこかのバーにいるらしい。
『あの神経質なミスター・サトウから直接お電話なんて。明日は槍でも降るのかしら、それとも私の口座にボーナスでも振り込まれるの?』
「残念ながら、ただの進捗確認です」
佐藤は窓ガラスに映る自分自身の顔を見つめながら切り出した。
「対象は今夜、六本木でかなり厳重な警備を敷いたシークレットパーティーを開催していました。外部からの接近は事実上不可能です。あなたの取材は予定どおり行えますか」
『あらそう。ずいぶん用心深い女王様ね。誰かさんの素人臭いネズミが、入り口で追い返されたりしたのかしら?』
ソファの上で、襟華が「むっ」と眉を吊り上げた。
「ご想像にお任せします。それで、どうなのですか」
渡辺千尋は、電話の向こうで短く笑った。グラスをテーブルに置く、カチンという澄んだ音が響く。
『安心なさい。すでに彼女の所属事務所を通して、明日の午後、人気のファッション誌の特集という名目で単独インタビューのアポイントを取ってあるわ。『逆境に負けない美のカリスマ』っていう企画書を出したら、向こうから喜んで食いついてきたわよ。正面玄関から、レッドカーペットの上を歩いて入ってあげる』
「結構です。彼女が主張している告発動画の撮影時刻と、実際の行動履歴の矛盾。そして過去の被害者である芹沢真琴氏への関与について、本人の口から証言を引き出してください」
『ずいぶん注文が多いわね。高くつくわよ? 私の時間は安くないって、知ってるでしょ』
「報酬は要求どおりに支払います。ただし、取材先との約束や法的な公開範囲は厳守してください。使える情報と使えない情報の選別はこちらで行います」
『はいはい、分かってるわよ。相変わらずロマンのない人ね。じゃあ、明日の夜にでも良い報告をしてあげるわ。おやすみなさい、働き者の社長さん』
千尋が余韻を残すより早く、佐藤は画面をタップして回線を切断した。
彼は端末をデスクに置き、再びメインモニターに向き直る。
「ほんっとに容赦ないね、あんたも。あのお姉さん、絶対今ごろ電話の向こうで舌打ちしてるよ」
ローテーブルの食器を片付けながら、襟華が呆れたように言った。
「通信費の節約です。それより田中君、食器はシンクに置いておくだけで構いませんから、君には別の作業をお願いしたい」
「別の作業?」
「ええ。君が集めた古参ファンの公開ログの中から、MIIKA本人が動画を出すよりも前の時間帯に、攻撃の方向性を示唆していた投稿がなかったか、もう一度洗い直してください」
「え? 動画が出る前? あー、なるほど。フライングしたバカがいないか探せってこと?」
「そういうことです。キャッシュや削除済みの履歴も含めて確認をお願いします」
「りょーかい。そういうネチネチした掘り起こしなら任せてよ」
襟華は自分のタブレットを引き寄せ、猛烈な勢いで画面をスクロールし始めた。
★★★★★★★★★★★
翌日、午後二時。
表参道を見下ろすラグジュアリーホテルのスイートルームは、甘いローズのルームフレグランスの香りで満たされていた。
MIIKAが取材用として指定したその部屋で、渡辺千尋は脚を組み、ゆったりとソファに身を預けていた。仕立ての良いチャコールグレーの上質なジャケットに、しなやかで均整の取れた身体のラインを美しく見せる細身のパンツ。彫りの深いエキゾチックな美貌に、ダークブラウンの長い髪。濃く整った眉と、相手を射抜くような大きな瞳が、知性と大人の余裕を漂わせている。一流ホテルの格式にも気後れしない堂々とした佇まいと、洗練された都会的な華やかさは、向かいに座る派手なインフルエンサーを静かに圧倒していた。
「――だからね、千尋さん。今回の美容サロンの件も、私が黙って我慢すれば丸く収まったのかもしれないけど、これから同じお店に行って傷つく女の子たちを出したくなかったの。これって、インフルエンサーとしてのノブレス・オブリージュだと思うのよね」
向かいのソファで、プロのヘアメイクに整えられた完璧な姿のMIIKAが、優雅な身振りで微笑んで見せた。
「ええ、素晴らしいわ、MIIKAさん」
千尋は手元のICレコーダーに視線を落としながら、柔らかな微笑みを浮かべた。
「自分のリスクを顧みずに声を上げるなんて、なかなかできることじゃないもの。でも、少し気になったのだけれど。あの最初の告発動画、サロンから帰ってすぐ、夕方の五時過ぎに自宅で泣きながら撮ったっておっしゃっていたわよね?」
「ええ、そうよ。もう悔しくて、涙が止まらなくて、部屋に着いてすぐカメラを回したの」
「まあ、そうだったのね。さすがMIIKAさんだわ。私なんか、失恋した時ですら三日はすっぴんで寝込むのに」
「え? なにが?」
「だって、直前まで淡いピンクだった爪が、動画では完璧なボルドーの秋ネイルに仕上がっていたでしょう? どんなにつらい状況でも、あんなに泣き腫らした直後にネイルサロンへ寄って美しさをアップデートするなんて、プロ意識の高さに感動しちゃったわ」
千尋が感心したように目を細めると、MIIKAは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに得意げに口角を上げた。
「あ、ああ、あれね! そう、そうなのよ! よく見てるわね、千尋さん! どんなに悲しくても、ファンのみんなにボロボロの指先は見せられないと思って……帰りに急いで行きつけのネイリストさんに無理言って直してもらったの! だからね、正確にはサロンから帰ってすぐっていうのは、気持ちの上での話っていうか、実質的にはすぐみたいなものじゃない?」
「ええ、もちろんよ。ファンへの愛ゆえの表現よね。でも、サロンではその場で怒鳴ったりはしなかったんでしょう? よく我慢できたわね」
「当たり前じゃない! その場では大人の対応をしてあげたのよ。でも、夜になってから、うちの古くからのファンの子たちが『MIIKAちゃん、あんな酷いサロンに行ってたの? スタッフの態度が最悪だって噂になってるよ』ってDMで教えてくれて、それで初めて事の重大さに気づいて」
「あら、素敵なファンの方たちね。でも不思議だわ。あなたが動画を出したのは夜の九時よね? 動画を出すよりも前に、どうしてファンの方たちはサロンでの出来事を知っていたのかしら。テレパシーかしら?」
「え? あ、いえ、その……ほら、テレパシーっていうか、私が裏垢……じゃなくて、親しい子たちだけにちょっと愚痴をこぼしたのを、みんなが心配してくれて! と、とにかく、私は悪くないのよ! 前にもいたのよ、私のブランド価値をわかってない生意気な美容師が!」
「まあ、以前にも同じようなことが? 災難続きね。確か、渋谷のサロンだったかしら。当時の担当の方も、ネットですごく話題になっていた記憶があるわ」
「そう、渋谷の店! 芹沢っていったかしら、自分の技術もないくせに私の髪質にケチをつけてきて……ああいうプロ意識のない人間は、業界からいなくなって当然なのよ!」
MIIKAは興奮した様子で、グラスのミネラルウォーターを飲み干した。
千尋は優雅に微笑み、手帳にペンを走らせた。
「ええ、よく分かったわ。あなたがどれだけファンの方たちと『密接』に繋がっているか、読者もきっと驚くはずよ。最高の記事になりそうだわ」
★★★★★★★★★★★
その日の夜、赤坂のオフィス。
千尋から送られてきた音声データと文字起こしのテキストを確認し終えた佐藤がイヤホンを外すと、デスクの向かいで徹夜明けの目を赤くした襟華が、タブレットの画面をバンと叩いた。
「ほらね、いたよ! やっぱりフライングしたバカがいた! スーツ、これ見て!」
襟華が画面を佐藤の方へグイと押し出す。
「MIIKAが最初の告発動画を上げる一時間前、午後八時三分。あの古参のリーダー格のアカウントが、『今夜九時、表参道の裏切り者に天罰が下る。みんなでMIIKA様を守ろう』って投稿して、一分後にすぐ削除したキャッシュが残ってた! 『天罰が下る』だってさ、中二病かよ!」
佐藤は共有された削除ログのタイムスタンプと、千尋の取材記録にある『親しい子たちだけにちょっと愚痴をこぼした』という発言箇所を照合した。
「午後八時三分……動画の公開より一時間近く前ですね。しかも、公開時刻まで正確に把握している」
「でしょ? これで動画が出る前から古参ファンに情報を流してたところまでバッチリ繋がったわけ。あ、それとさ、スーツ。もう一つお土産があるんだけど」
「お土産、ですか」
「あの芹沢って人の連絡先、見つけたかもしれない」
襟華は少しだけ得意げに鼻を鳴らし、タブレットの画面を切り替えて一年半前の事件に関する調査フォルダを開いた。
「どこから辿ったのですか」
「当時の渋谷のサロンの元同僚がやってる個人ブログ。店を辞めたあとも芹沢って人と個人的にやり取りしてたらしくて、過去のコメント欄のリンクから本人の連絡先が掘れたの。ほら、褒めてもいいんだよ? 直接接触は禁止って約束したから、まだ連絡はしてないんだからさ」
「ええ、よく我慢しましたね。上出来です、田中君」
「うわ、なんか子ども扱いされてる気がしてムカつく! とにかく、早く連絡してよ。あの人、当時の証拠を持ってるかもしれないんだから」
佐藤は頷き、宮原から正式に委任を受けた危機広報担当としての立場を明示した上で、襟華が見つけた連絡先へ事実確認と資料提供の協力を求める丁寧な文面を送信した。
三十分後、画面の端に一件の返信通知が灯る。
佐藤がメールを開くと、そこには『当時のことを調べてくださっているなら、これを見てください』という短い言葉とともに、一通のスキャンされた文書画像が添付されていた。
メインモニターに、その文書が表示される。
佐藤は画面に映し出された文面に静かに目を落とした。そこには、一年半前の騒動に対する一方的な謝罪の要求だけでなく、サロンの取引関係にまで踏み込んだ不自然な要求項目が並んでいた。
「ただの感情的なトラブルではありませんね」
佐藤はその文書データを保存し、手元の暗号化端末の連絡先を開いた。




