第6話 私の技を、受けてみて
麦わら座の裏の空き地に、人の気配がない夜は珍しいらしい。
月が出ていた。塀と塀の間に渡した洗濯紐がだらりと垂れ、その下に空の酒樽が三つ転がっている。一番手前の樽に腰を下ろして、戸塚は井戸水で絞った布を左肩に当てていた。冷たさは、打撲の熱に負けてすぐにぬるくなる。三日は冷やせと言われたが、三日も前座を休むわけにはいかない。
「あなた」
声は、真後ろから聞こえてくる。
肩が跳ねる。振り返ると、すぐそこに、黒髪を短く縛った少女が立っていた。足音も衣擦れもなかった。「無音」という通り名は、大円環の実況が盛った言葉ではなかったらしい。
「……シグレさん」
名前を呼ぶと、少女は眉をほんのわずかに動かした。驚きなのか不快なのか、戸塚には読めない。腰に刀はなく、かわりに木の剣を一本、片手に下げている。
「昼間は、助かりました。あの梁」
「別に。邪魔だっただけ。あの梁が」
「それでも、助かりました。誰も怪我をしなかったので」
「……ん」
会話は、そこで途切れた。虫の声が戻ってきて、洗濯紐が風に揺れる。リングの外では受け身の話しかしてこなかった人生だ。こういうとき何を言えばいいのか、戸塚の引き出しには入っていない。
「ねえ」
先に口を開いたのは、少女のほうだった。
「なんで倒れたの。一昨日の魔獣のとき。昨日の前座も聞いた。あなたが倒れると、客が立つ。私が勝っても、客は黙る」
質問というより、ほとんど独り言だった。目は戸塚ではなく、地面の少し手前に落ちている。
「私は強い。それは分かってる。でも、勝つと客席が冷える。……なんで」
戸塚は肩から布を外した。答えは昼間、客席から見ていて、もう出ている。ただ、それを言葉にして彼女に渡していいものか、ためらった。「あなたは客を見ていない」と言えば、きっと怒る。怒らなくても、閉じる。
「見てみないと、言えないことがあります」
「……見る」
「ええ。たとえば、受けてみるとか」
少女がゆっくり顔を上げる。初めて、目が合った。黒くてまっすぐな目だった。刃物のような、と形容するには幼い。叱られる前の子どもが、叱られる理由を探しているときの目に近い。
「私の技を、受けてみて。あなたがどうなるか、見たい」
「肩を打っているので、右でしか受けられませんが」
「いい」
「死なない程度にお願いします」
「木の剣。死なない」
説明はそれで十分らしい。少女は空き地の中央へ歩いていく。戸塚も立ち上がり、膝のサポーターを片手で押さえて、足の位置を確かめた。土の地面は板の間よりずっと固い。受け身は浅く、短く、が鉄則だ。
そのとき、窓の開く音がする。
雨だれ荘の二階、向かいの長屋の一階、穴だらけの塀の向こう。細い灯りが一つ、二つ、三つと増えていく。
「なんだなんだ、夜稽古か」
「おい、あれ、昼間の梁の兄ちゃんじゃないか」
「剣聖だ。シグレだぞ、あれ」
住人たちが次々と顔を出している。二十人はいるだろうか。大円環の三万に比べれば、ひとつまみにもならない。それでも、剣聖が夜の空き地で昼間の恩人に木剣を向けるとなれば、物見高い連中が見逃すはずがなかった。
シグレの肩が、びくりと跳ねる。腰のあたりから灰色の布を引き寄せた。薄汚れた、どこにでもありそうなマント。それを頭から被ろうとする手を見て、戸塚の口が先に動いていた。
「待ってください」
「……なんで」
「少しだけ、そのままで。一度だけ、お願いします」
布を握った指が止まる。長い沈黙のあと、彼女はマントを肩に落としたまま、木の剣を構えた。
戸塚は腰を落とし、右の手のひらを上に向ける。
どうぞ。
「ん」
空気が変わった。少女の姿が消えたと思った次の瞬間には、木の剣が脇腹の横にある。戸塚は体をひねって剣筋に乗り、わざと半歩遅れて、いちばん痛そうに見える角度で背中から地面へ落ちた。土が鳴り、肺が空になる。
「おお!」
窓から、どよめきが上がる。
背中が熱い。通っている。二十人の視線が、倒れた男の体を抜けて、剣を振り抜いた少女へ流れていく。
彼女の頭上に、小さな数字が浮いていた。十五。それが二十、五十、百、百三十と駆け上がる。
「……え」
シグレが、自分の手を見る。
二撃目は、さっきより速かった。いや、軽い、と言うべきかもしれない。体の重さを、さっきの一撃のあたりに置き忘れてきたような動きだった。横に走った木剣へ、戸塚は反射的に受けにいき、間に合わなかった。
胸の横に衝撃が来る。世界が回って、酒樽の山に背中から突っ込んだ。樽が崩れる音の下で、肋骨の一本がぱきりと鳴った。
「戸塚さん!」
空き地の入口で、ロイが息を切らしている。ペルラも、ぶつぶつ言いながら算盤を握って現れた。窓の住人たちは、まだざわめいていた。
樽の中から、戸塚は顔を出す。
「だいじょうぶ、です。肋骨が一本、いったかもしれません」
「それは大丈夫って言わないんだよ!」
ペルラが杖代わりの算盤を突き立てて、戸塚の脇腹に指を当てた。押された瞬間に目の前が白くなる。ヒビだな、と自分でも分かった。
「三日どころか二週間だね。あんた、肩の次は肋骨かい。身体は銀貨じゃ買い直せないんだよ」
「すみません。段取りが悪くて」
「謝るのはそっちじゃない。あの子に言いな」
「戸塚さん、俺が運びます」
ロイが肩の下に入ってくれて、戸塚はようやく立ち上がれた。そこで、窓の灯りを見回す。二十人が、まだ息を詰めたようにこちらを見ていた。さっきまで彼女の頭上にあった数字が、ゆっくり落ちていくのも、全員が見ていたはずだ。
灰色の布を被ろうとした手。あのとき、数字は伸びなかった。被らなかったから、百三十まで行けたのだ。
覚えておこう、と戸塚は思った。覚えておいて、まだ誰にも言わないでおく。
空き地の中央を見る。
シグレが、立ち尽くしていた。右手の木剣を下ろして、その手をじっと見つめている。頭上の数字は百三十のまま、ゆっくりと下がり始めていた。
「……なに、今の」
声が小さい。
「あり」
何か言いかけて、止まる。続きは出てこない。
シグレは灰色の布を頭から被って顔を隠すと、風のように走り去っていく。




