第7話 取り分は、強い人から削る
「いや」と、シグレは一言で答えた。
麦わら座の事務室は、帳簿と借用証の山でできていた。壁一面の棚には背表紙の擦り切れた台帳がぎっしり詰まり、机の上で空いているのは算盤の置き場所だけ。窓際の簡易ベッドで、戸塚は上半身を起こしていた。胸には布が三重に巻かれ、息を吸うたびに右の肋骨が細い針で突かれる。
そのベッドの足元に、灰色のマントを肩に掛けたシグレが立っている。呼ばれたのではない。昼前に、自分の足で来たのだ。
「何が、いやなんでしょう」
できるだけ穏やかに、戸塚は聞き返した。
「全部」
「全部、ですか」
「あなたと組む。ブックを決める。客の前で、わざと勝つ」
昨夜の空き地のことは、彼女の口から一言も出ない。出ないまま、そこに立っている。
戸塚が出した提案は、三つだけだった。次の興行で、自分とシグレが試合をする。シグレは勝つ。戸塚は負ける。ただし、客が帰りたくなくなる負け方で。
「ブックって、嘘をつくことでしょう」
シグレは床の木目を見ながら言った。
「勝ち負けを決めておいて、客に本気に見せる。そういうのは、嫌い」
「勝ち負けは決めません」
首を横に振る。
「決めるのは、起きる順番だけです。シグレさんは全力で打つ。俺は全力で受ける。どこで倒れて、どこで立つか、先に二人で知っておく。本気で打っても、本気で受けても、怪我をしないための約束だと思ってください」
「…………」
「昨日みたいに、合図なしで打たれるのは、体にあまり良くないので」
肋骨を押さえて笑ってみせると、シグレの肩が、ほんのり沈んだ。
「……あれは、私が悪い」
「いいえ。受けたいと言われて、受けたのは俺です」
「でも、いや」
話が振り出しに戻って、湯気のない部屋に沈黙が落ちる。
そこへ、扉が三度、乱暴に叩かれた。ペルラが入ってくる。後ろから、盆を持った少年がよたよたとついてきた。トトだった。
「茶だよ。熱いから気をつけな。トト、そこの台に置きな」
「あいよ。……兄ちゃん、生きてたんだな」
「おかげさまで」
昨日まで旗の売れ残りに泣きそうな顔をしていた少年が、今日は小屋の物販係の前掛けを締めている。拾ったのは、ペルラらしい。日給は銅貨三十。前掛けは大人用で、裾が膝の下まで垂れていた。
ペルラは湯呑みを三つ机に並べ、椅子を引き寄せて、算盤を膝に載せた。
「で、断られたのかい」
「断られました」
「そうかい。じゃ、あたしからも言わせてもらうよ。シグレ、あんたにね」
湯呑みを啜って、老婆は続けた。
「あんたは強い。国で一番強い。でも番付は三十八位。上には、あんたより歓の多い連中が三十七人いる。十傑なんて、試合中に七百、八百は平気で積んでくる」
シグレの指が、マントの端を握りしめた。
「あんたは勝ちたいんだろう。十傑に」
「……ん」
「だったら歓がいる。歓がなけりゃ、いくら剣が速くても、七百の相手には届かない。そして、歓を稼ぐ手段が、ようやく見つかった。そこの男の背中だよ」
黙って聞くしかない。自分の背中の話を人前でされるのは、洗濯物の染みを指さされているようで、どうにも居心地が悪かった。
「あたしゃ頼んでるんじゃない。商売の話をしてる。いいかい、教えとくよ。この小屋はね」
ペルラが、算盤の玉をひとつ弾いた。
「銀貨四百八十枚の借金を抱えてる。担保は小屋そのもの。返せなきゃ取られる。取られたら、トトみたいなのは行き場がなくなる。この物販も、前座も、全部消えるんだよ」
トトの手から、湯呑みが滑りかけた。
「ペルラの婆さん、そんな話、聞いてねえよ」
「言ってないからね」
淡々とした声だった。算盤の玉は、一つも動かない。
「返済の期限は」と戸塚が聞きかけて、ペルラが片手を上げて止めた。
「それは、別の日の話だよ。今日は、明後日の話をしてるんだ」
「でも、四十年この小屋で飯を食ってきた。見殺しにはしたくない。だから使えるものは何でも使う。あんたも、そこの男も」
シグレの視線が、ようやく戸塚に向いた。戸塚は逸らさなかった。
「俺は、シグレさんに、勝ってほしいんです」
口にしてみて、自分でも少し驚く。勝たせたい、ではなかった。勝ってほしい、と言った。十五年、誰かを勝たせる側にいて、一度も口にしたことのない言い方だ。客席の最前列で拳を握っていた子どもの顔が、頭に浮かぶ。あの顔を、今度はこの人の試合で見たい。刃物に拍手が降る夜を、一回だけ、特等席で見てみたい。
「俺は勝てません。勝つ側の人間じゃないので。でも、勝つ人を一番いい形にすることはできます。それが、俺の仕事です」
長い沈黙。湯呑みの湯気が、糸のように細くなっていく。
「……契約書」
シグレが、ぼそりと言った。
「あるよ」
ペルラが引き出しから一枚の紙を出した。署名欄の下に、興行収入の配分が書いてある。シグレ六、小屋二、戸塚二。
シグレは紙を見ると、ペンを取った。
六の上に、線を引く。四、と書く。戸塚の二にも線を引いて、同じ四。小屋の二は、そのまま残した。
「……あんた」
ペルラの目が丸くなる。
「何してんだい。自分の取り分を削って」
「強い人が、受ける人より多いのは、いや」
シグレは紙をペルラに突き返した。
「それなら、やる」
返す言葉を探したが、どこにも落ちていない。
「ふん。強いのは剣だけじゃないね、あんた」
ペルラが鼻を鳴らして、それでも口の端を少しだけ上げた。
「じゃあ決まりだ」
ペルラが紙に判を押す。
「日程は、明後日。麦わら座の夜公演、最終試合。相手はシグレだよ。実況は、あたしが探しとくよ」
シグレは無言で頷いて、扉へ向かった。出ていく直前、肩越しに、小さな声が落ちてくる。
「……肋骨、冷やして」
扉が閉まる。
「兄ちゃん」
盆を抱えたまま、トトが小声で言った。
「明後日、頼んだぜ。おれ、一番前で旗振るからな」
「旗は、ボッカのじゃないでしょうね」
「へへ。まだ決めてねえ」
布を巻かれた胸を押さえて、戸塚は天井を見上げた。明後日。肋骨のヒビは、とても治らない。




