第5話 梁が鳴いた日
梁が鳴いた。軋む音ではなく、泣くような音だった。
試合が終わって、三万人が一斉に出口へ向かう時間帯だった。一般席から立見席へ続く木の階段を、戸塚は人の流れに押されて降りていた。ペルラは席主の事務所に挨拶に行くと言って、先に別の通路へ消えている。
階段は幅が狭い。両側に手すりがあるだけで、頭上に太い梁が一本、渡してある。その梁の上を、先ほどの少年が籠を抱えて走っていくのが、人垣の隙間から見えた。
「ちょっと、どいてくれよ! 旗、まだ全部売れてないんだぜ!」
少年は、客の足の間をすり抜けて降りてくる。途中で、戸塚の肩にまともにぶつかった。
「いてっ。どけよ、兄ちゃん、邪魔だろ」
「すみません。ところで、旗は売れたんですか」
「売れてたら走ってねえよ。全部売るまで帰ってくるなって、親方に言われてんだぜ」
少年は唇を噛んで、籠を抱え直した。旗は、布の端が擦り切れて、どれも色が褪せている。三十本は残っているだろうか。
「ボッカの旗じゃ、今日は売れないでしょう。ボッカが勝てなかったから」
「負けてねえよ。ボッカは客に愛されてんだぜ。……来週にはまた売れる。だろ」
そう言い切った声が、少し震えていた。
そのとき、頭上で、みしり、と鳴いた。
反射的に天井を見上げる。梁の途中、手すりの金具のあたりから、細い埃が一筋、落ちてくる。
あ、これは受けられない。
そう思う前に、足が動いていた。
「どいて! 上、危ない!」
怒鳴ったが、人の波は止まらない。止まれる幅がないのだ。少年がちょうど梁の真下に来る。人を肩で押し分け、階段を二段飛ばしで駆け下りて、少年の襟首を掴む。
「うわっ、何すんだよ!」
「じっとして!」
引き寄せて、胸に抱え込む。背中を階段の手すりに向けた。そのまま、体を斜めに倒す。
梁が、落ちた。
雷が真上で割れたような音。木の欠片が背中に降ってくる。戸塚は階段の段差に背中を沿わせて、少年を庇ったまま、後方受け身の要領で二回転した。肩口に、重いものが擦れる。ぐ、と息が詰まる。
「いっ……」
背骨は打たずに済んだ。打ったのは肩だけだ。体を転がしたおかげで、梁の直撃は、角が一度かすめただけで済んでいる。
砂埃の中から、悲鳴が上がる。
「落ちた! 梁が落ちた!」
「出口はどこだ! 押すな! 押すな!」
人が階段を逆流し始める。上から降りてくる人と、下から上がってくる人が、狭い階段の途中でぶつかった。誰かの足が、誰かの背中を踏む。このままだと、梁よりも先に、人が人を潰す。
少年を抱えたまま、起き上がる。
「大丈夫か」
「だ、だいじょうぶだって。離せよ、なあ」
少年は、顔が真っ白だった。籠は階段の下へ飛んで、旗が散らばっている。
少年を階段の脇の壁際へ座らせて、落ちた梁の上へ登る。足元が不安定で、膝の古傷が鳴いた。けれど今は、構っていられない。
息を吸う。リングでの癖だ。小さな会場でも、後ろの席まで届く声の出し方は、体が知っている。
「皆さん! こっちを見てください!」
階段の悲鳴が、少しだけ緩んだ。
右手を高く上げる。手のひらを上に向けて、梁の向こう側、一般席の脇に口を開けている通路を指す。
「あちらです! 右の通路が空いています! 押さないで、手の先を見て! ゆっくり、一人ずつ!」
人の視線が、戸塚の手のひらを追った。
どうぞ。
客席三万の視線を動かしたときと同じ感触が、背中を走った。熱い。通す、感触だ。今度は魔獣でも、新人でもない。群衆の恐怖の視線を、出口という一点へ流す。
階段の人の流れが、ぐるりと向きを変えた。
人が、手のひらの先へ歩き出す。押す者がいなくなる。誰かが誰かの手を引き、誰かが年寄りを背負う。声が「こっち」「こっち」と連鎖して、列になっていく。
「そこ、段差がある! 気をつけて!」
叫び続ける。喉が焼ける。左肩が、じわじわと熱くなってくる。
その、頭上で、もう一度みしりと鳴った。
二本目だ。最初の梁と対になって渡されていた、残りの一本。
見上げた瞬間、世界が白く光った。
音は、後から来た。
白い線が、梁を三つに断つ。切断された木の塊が、列の少し外側へ落ちて、石段に転がった。人が悲鳴を上げて飛びのく。けれど誰も、下敷きにならなかった。
砂埃の中に、細い影が立っている。
黒髪を後ろで短く縛った少女。腰の刀は、すでに鞘に納まっている。
シグレだった。
彼女は、戸塚にも誰にも目を向けず、無言のまま階段の脇に降りて、砂埃を避けるように踵を返した。
「あ、あの」
戸塚が声をかける前に、彼女は人混みの向こうへ消えていた。群衆の誰一人、彼女が何をしたのか見ていない。速すぎたのだ。見えた者は、いなかった。
出口へ向かう列に、ようやく静けさが戻る。
梁の上で、戸塚は膝をついた。左肩が、ずきずきする。
「兄ちゃん」
下から、少年が見上げていた。
「兄ちゃん、肩、大丈夫か」
「ええ。大丈夫です。君こそ」
「おれは平気だぜ。……ありがとな」
「戸塚です。君は」
「トト。……トツカ? 変な名前だろ、兄ちゃん」
「よく言われます」
少年は、そっぽを向いて、小さく言った。
階段の下から、杖代わりの算盤を振り回して、ペルラが駆けてきた。
「あんた! 無事かい!」
「あ、ペルラさん。はい、肩を少し」
「見せな」
老婆は有無を言わせず、戸塚の左肩を指で押した。痛みで声が漏れたが、骨は外れていないらしい。
「打撲だよ。三日は冷やしな。……あんた、人を助けたね」
「受けただけです」
「そういうのを、助けたって言うんだよ」
ペルラはそう言って、鼻を鳴らした。
散らばった旗を拾い集める少年の背中を見ながら、戸塚は、割れた梁の断面に目を落とした。
黒かった。
外側は年季の入った茶色の木肌だが、割れた中身は、墨を吸ったように黒く腐っている。指で押すと、湿った粉になって崩れた。
端のほうに、小さな木札が釘で留められていた。「補修済」の文字。日付は、三年前。その下に、席主の家紋の焼き印。
三年前に直したはずの梁が、こんなに腐っているはずがない。
戸塚は札を、そっと指で撫でた。




