第4話 国で一番強い子の、国で一番しょっぱい試合
三万人の客席が、一斉に腕を組んだ。
腕を組む音は、本当にするのだと戸塚は初めて知った。布と布がこすれて、ざわ、と波になり、すり鉢状の壁を上から下へ流れていく。拍手の逆だ。観客席が、拒否の姿勢を取っている。
大円環の昼の興行。三日目の午後だった。
麦わら座での初舞台を終えた翌日、ペルラは「見ておきな。うちの本命候補だ」と言って、戸塚を一般席に押し込んだ。席の札には、焼き印が押してある。ある家の紋らしい。通路では、売り子が籠を抱えて声を張り上げていた。
「旗いらんかー! ボッカの応援旗、銅貨三枚ー!」
十二、三歳ほどの少年だった。籠の中身は旗ばかりで、減った様子がない。頬が薄く、袖から出た手首が細い。戸塚は何となく目で追って、人混みに紛れるまで見送った。
「席は、席主ごとに持ち主が決まってる。下の層が貴族席、真ん中が一般席、一番上が立見席だ。同じ試合でも、値段は十倍違う」
「その席主というのは」
「席を持ってる十二の家さ。客席の権利を握ってる連中だよ。詳しい話は、また今度。あたしゃ、いまは試合が見たい」
ペルラは算盤を膝に載せて、目を細めた。
入場の鐘が鳴る。実況の声が降ってくる。
「東の門より、鉄塔のボッカ! 番付十二位、かつての十傑入りも間近と言われた巨漢の登場です!」
大男が出てきた。背が高い。戸塚の知る限り、リングの外で見かけた人間の中で一番高い。腕を回し、拳を突き上げ、客席を一周見渡して、口の形だけで「かかってこい」を三回繰り返した。笑いが起きる。ボッカの頭上の数字が、三百、三百五十、三百八十と上がっていく。
客席に愛されている、と戸塚は思った。何をすれば客が喜ぶのか、体が分かっているのだ。派手な見栄を切るやり方は、巡業のワゴン車で十年、隣の席に座っていた先輩レスラーに似ていた。あの先輩も、控え室では無口なのに、リングに上がると人が変わった。客を笑わせて、客に叩かれて、それでも客席を見ることをやめなかった。
「西の門より、無音の剣聖、シグレ! 剣速は国内随一、しかし番付は三十八位! 実力と人気は別物と言いますが、これほど開いた例は他にありません!」
場内実況が、少しだけ声を落とした。同情なのか、予防線なのか。
足音も、衣擦れも、鞘の鳴る音さえしない。名前のとおり、音がなかった。
黒髪を後ろで短く縛った少女が、砂の上に出てくる。年は十九か、二十。細い体で、刀は腰に差したまま、柄に指を一本ずつ置いていた。客席には目を向けず、見上げもせず、足元の砂だけを見て歩く。
その歩き方に、戸塚は覚えがあった。
一昨日の魔獣戦で、最上段の端に座って客席に背を向け、刀を拭いていた人だ。
シグレの頭上の数字は、三十だった。三十。ボッカの十分の一以下。
「始め!」
鐘が鳴った瞬間に、ボッカは剣を抜いた。右へ回り込みながら、何かを叫ぶ。客席の一部が沸く。
シグレは、動いたのか動かなかったのか、分からなかった。
目に映るのは、白い線だけ。
次の瞬間には、ボッカの剣が根元から二つになって砂に落ちている。刀の切っ先は、ボッカの喉の前でぴたりと止まっていた。口を開けたまま、巨漢は一歩も動けない。立てられた髪の先が、遅れて半分だけ落ちた。
四十七秒。戸塚は数えていた。長年の癖だ。試合の尺は、客の温度を測るいちばん簡単な物差しになる。
「な、なんという速さ! 速すぎて、見えませんでした!」
実況が叫ぶ。その「見えませんでした」が、場内をいっそう冷やした。
観客席は、さらに音をなくす。腕を組んだまま、誰も手を叩かない。ボッカが気まずそうに肩をすくめて、客席に向けて両手を広げる。「すまない、俺が弱くて」という顔だ。そこでようやく、ぽつりぽつりと乾いた拍手が起きたが、それはボッカのための拍手だった。
シグレの数字は、試合が終わっても、三十のままだった。ボッカは三百八十から四百を超えているのに、勝った側が増えない。そんな計算は、リングの上にはなかった。
彼女は無言で刀を納めると、客席に背を向けた。袖で刀身を拭く。拭く必要のない刀を、念入りに。
「……強いですね」
戸塚は思わず口に出していた。
「国で一番だよ」
隣でペルラが言った。声が、少し低い。
「そして、国で一番人気がない。わかるかい」
「速すぎて、お客さんが追いつかない」
ペルラが、ほう、という顔で振り向いた。
「追いつかない間は、感情が動かない。感情が動かないと、視線は流れるだけで溜まらない。ボッカは違う。勝ち負けの前に、客を楽しませる準備をしてる。あの人は負けるのも上手です」
「あんた、見えてるじゃないか」
見えてはいる。リングの外から見ていれば、よく分かるのだ。観客の腕組みと、立見席の沈黙。最前列の貴族席の客は、笑顔を貼りつけたまま隣と目を合わせ、拍手のタイミングを探り合っていた。立見席の一番上の列が、試合の終わった直後、まるで何かの息を止めたように動かなかった。あの層は一番正直だ。面白ければ体が前に出る。つまらなければ、息が止まる。
それから、もうひとつ。
「あの人、一度も客席を見ていませんでしたね」
「そうだよ」
ペルラが、算盤の玉をひとつ、指で弾く。
「見ないんだよ。入場から退場まで、一度もね。あたしが興行をやってきて、あんなのは初めてだ。強いのは確かなのに、あの子は、見られるのを嫌がる」
観客席が、少しずつ出口へ流れ始める。通路の奥では、さっきの少年がまた「旗いらんかー」と叫んでいた。声が高くて、かすれている。戸塚は、砂の端でまだ背を向けたままの少女から、目を離せずにいた。
「でもね、あんた」
ペルラが言った。
「国で一番強いのに、あの子の歓は、試合の一番いいときで三十だ。世の中ってのは、強けりゃ売れるようにはできてないのさ」
戸塚はゆっくり頷いた。
自分と逆だ、と思った。
自分は、強くない。何も溜まらない。そのかわり、客の視線を通すことはできる。
けれどあの人は、強くて、何も通らない。
同じ細い穴の、反対側の端に立っているみたいだ。もしあの人が、こちらを向いたなら。そう考えて、戸塚は自分の手のひらを見た。




