第3話 前座は、いい顔で倒れる仕事
前座の出番は、開演の十五分前に決まった。
麦わら座の楽屋は、噂どおりに冷える。屋根の藁の隙間から夜風が入ってきて、壁に貼られた歴代出演者の落書きの端をめくっていく。下手くそな似顔絵、借金の覚え書き、「雨漏りは三番目の柱の下」という忠告。小さな木のベンチに腰かけた戸塚は、右の膝にサポーターを巻き直していた。巻く前に、まず指で皿のまわりを押す。いつもの鈍い痛み。いつもの位置。今日は、いける。
「戸塚さん、よろしくお願いします!」
扉が勢いよく開いて、少年が頭を下げた。昨日の魔獣戦の新人剣士、ロイだ。額に汗の粒が浮いている。
「ペルラさんから聞きました。今日の前座は、俺と戸塚さんで、って。あの、筋書きはどうします? 俺、そういうの初めてで」
「ブックですね。三つだけ決めましょう」
戸塚はベンチの隣を叩いて座らせた。
「最初に、一発食らう。真ん中で、一度立つ。最後に、大きく倒れる。それだけです」
「それだけ、ですか」
「それ以外は、お客さんを見て決めます。ロイさんは、毎回、全力で打ってください。手加減されると、受けにくい」
ロイは目を丸くして、それから少し笑った。緊張が肩から抜けるのが、そばで見ていても分かる。
「全力で打っていいんですか。人に」
「ええ。ちゃんと受けますから」
言ってから気づいた。ペルラには名乗っていない。ロイにも。
「戸塚です。戸塚勲」
「イサオさん」
「戸塚で。そっちのほうが、慣れてるので」
麦わら座の客席は、八百のうち百二十ほどしか埋まっていなかった。
袖から覗くと、中央の通路の左右に、疲れた顔の客がぽつぽつと座っている。仕事帰りの職人。親に連れられた子ども。酒瓶を抱えた老人。壁に取りつけられた小さな歓量計の針は、眠っている猫の尻尾みたいに、ほとんど動いていない。客が少ない場の受けは、プロレスでも難しい。笑い声も拍手も、人数が足りないと、すぐ空気に吸われてしまう。
舞台に出る。砂の代わりに、板の間に薄く藁を敷いた簡素なリングだった。膝にはちょうどいい硬さだと、戸塚は思う。
「さあ始まります! 本日の前座は、先日の大円環に空から降ってきた謎の男、対、新人剣士ロイ!」
どこか間延びした場内の声に、客席が少しだけ沸いた。
ゴングは、小さな鐘を叩く音だった。
ロイが踏み込む。剣は抜かず、鞘ごと握って、肩口へ振り下ろした。
背中で受けると、ばん、と大きく板が鳴った。受けの理屈は、痛みが三割、間が七割だ。痛がるのが早すぎれば嘘くさいし、遅すぎれば本当に効いていないように見える。肩を落とし、前のめりに膝をついて、顔だけを客席へ向ける。痛い、という顔をして、目だけは立つつもりでいる。
「おお……」
客席の最前列で、子どもが声を漏らした。
歓量計の針が、少し揺れる。ロイの頭上の数字が五十から八十へ上がった。ロイ自身にも分かったのだろう。目が、ぱっと明るくなる。
もう一撃。今度は鞘の突き。戸塚は腹で受けて、あえて音を出すために、大きく息を吐き出した。体が折れ、背中から滑って、最前列のすぐ前まで転がる。客席が身を乗り出す。
視線が通っていく。背中が、熱い。
百二十人しかいないのに、さっきより濃い。ペルラの言葉を思い出す。通す穴。通すほど、相手に溜まっていく。
「立て、立て!」
職人の一人が拳を振った。
ゆっくり立ち上がる。膝を押さえるふりをして、本当に膝を押さえる。たまに本当に痛むので、ふりと本物の区別は自分でも怪しい。体を起こしきったところで、客席の誰かが手を叩いた。拍手が移る。八十人、百人。
ロイの数字が百五十に届く。
「いきます!」
ロイが跳んだ。鞘を逆手に持ち替えて、真上から叩きつける最後の一撃。戸塚は避けない。両腕を広げ、顎を引き、全身で受けた。
ドン。板が鳴る。
大の字に倒れて、目を閉じる。倒れたまま、右手のひらだけを上へ開いた。
どうぞ。
百二十人が、一斉に立ち上がる音がした。
ロイの頭上の数字は、二百十まで跳ねて、そこで止まった。ゴングの鐘が鳴る。場内の声が裏返る。
「勝者、ロイ! 新人剣士ロイ、見事な勝利です! いや、しかし、あの倒れ方はなんだ、見事だ!」
拍手の中でそっと薄目を開けると、天井の藁の隙間から、星が見えた。解散興行の夜の、天井の照明よりずっと小さな星だった。
それでも悪くない、と思う。
楽屋に戻ると、ロイが水の入った木の椀を差し出してきた。
「戸塚さん、痛くないんですか。あんなに叩いたのに」
「痛いですよ。普通に」
椀の水は冷たくて、少し藁の味がした。
「痛いところを、お客さんに見せるのが仕事なので。痛くないふりをするほうが、ずっと難しいんです」
「……俺は、見られるのが怖いと思ってました。歓が溜まるのは嬉しいけど、失敗したら全部見られるから」
「見られるのは、怖いですよね」
戸塚はそう言ってから、自分でも意外に思う。十五年やっても、怖いものは怖い。怖いのを隠すのも、仕事のうちだ。
精算の時間になると、ロイが銀貨の袋を持ってくる。
「あの、今日の取り分、戸塚さんと半分に」
「いえ、お断りします。ロイさんが勝った興行ですから」
「でも、戸塚さんがいなかったら」
「俺は日給をもらっているので。気持ちだけで」
袋を押し返そうとした手を、横から、杖のような算盤がはたいた。
「いい加減におし!」
「いた」
戸塚の前に、いつの間にかペルラが仁王立ちしている。
「あんたが自分を安く売ると、あたしの興行が安く見られるんだよ。受け取りな。ロイ、あんたも、半分払うのは結構だが、あたしの前で金の話をするなら、まず算盤を通しな」
「は、はい」
「それから、あんた」
「はい」
「次からは、倒れ方に値段をつけな。いい顔は、安売りしないよ」
反射的に頭を下げると、隣でロイが笑いをこらえて、肩を震わせていた。
出口の方向から、退場する客の声が聞こえた。
「ロイもよかったがな。あの倒れ方の人、また見たいな」
聞こえなかったふりをする。耳が少し熱いのは、楽屋の寒さのせいにしておく。




