第八話:失敗の値段
どうも、白彩です。
執筆ペースが乱れつつあります。が、一章の終わりまで残り二話です。
見ていただけると幸いです。
目が覚めたとき、窓の外はまだ薄暗かった。時計を見る。四時半。就寝から三時間しか経っていない。貧血の名残か、頭の芯にかすかな鈍さが残っていた。顎に触れる。腫れは昨日より引いているが、押すとまだ痛む。レイラは天井を見たまま、昨夜の行動を最初から再生した。
悲鳴。起床。廊下。短剣。門。街路。教会堂。
……途中で、いくつかの手順が抜けている。ノエル様への報告。衛兵への連絡。最低限の装備確認。そのどれもが、訓練では「最初にやること」と教えられた項目だった。それを全部飛ばして、自分は街に出た。顎の痛みよりも、その空白の方が気になった。
着替えて、髪を整えて、部屋を出る。廊下は静かだった。昨夜の騒ぎを知っている使用人はまだ少ないはずだが、通用口の辺りからは、いつもより早い時間の気配がした。話し声が低い。足音が速い。屋敷は既に、何かがあったことを知っていた。厨房に入ると、トムがいた。包帯の腕でかまどに薪をくべている。
「おはようございます。トムさん、腕は」
「あ、レイラさん。おはようございます。もう大分良くなってきていますよ」
「左手は」
「使ってません。ちゃんと」
そう言いながら、トムの声はいつもより低かった。視線が一度、レイラの顎に触れて、それから逸れた。腫れを見たのだろう。聞かれはしなかった。朝食の支度を始める。湯を沸かし、パンを切り、薬草を刻む。手は正確に動いた。体が覚えている仕事は、頭が鈍くても滞らない。それが少しだけ、不気味だった。
パンを切っている途中で、左手の指先を微かに切った。当たりどころが悪かった。血が滲んだので、布で押さえた。治癒に回すほどの傷ではない。
「大丈夫ですか」
「問題ありません。……今朝は、少しだけ」
少しだけ、何なのかは言わなかった。トムも訊かなかった。
食後、書斎に呼ばれ速やかに移動することになった。中に入るとノエルは机の前に座っていて、手元に書類が積んであった。いつもの山ではない。綺麗に二分された、少ない方の書類だった。もう一方の山には、昨夜の事件の報告書らしい封が載っている。
「座れ」
「はい」
椅子に座る。ノエルはしばらく書類を見ていたが、やがて顔を上げた。
「まず事実からいくぞ。昨夜お前は、報告なく屋敷を出た。単独で武装集団七名と交戦した。『表に立つな』という俺の指示に背いた。……この三点、相違ないか」
「相違ありません」
「弁明は」
「ありません。時間的余裕がなかった、という言い訳は成立しますが、正確ではありません。報告する時間は、ありました。それをしませんでした。それが事実です」
ノエルは少し目を見開いて、それから、疲れたように笑った。
「お前な、そこは言い訳していいところだぞ」
「不正確な報告は、後の判断を狂わせます」
「……まあ、そうだな。それで」
ノエルは指を組んだ。
「ここからが本題だ。お前は昨夜、自分で選んだ。報告を待たずに、飛び出した」
「選んだ?」
「ああ。あと、殺さなかった。あれも、選んだんだろ」
レイラは首を傾げた。選ぶ、という動詞が、自分の行動に上手く結びつかない。
「私は、判断しました。状況に対する、適切な判断です」
「そう言ってるところが、もう選んでるんだよ。状況が同じでも、選ばない奴は選ばない」
ノエルは湯飲みを置いた。しばらく、言葉を探している様子だった。
「だから。手順違反とは、別の話だ」
「別の……」
「手順を破ったことは、俺が叱る。それはそれ。でも、お前が自分で選んだことは」
ノエルは一度言葉を切って、それから、少し不格好に言った。
「失敗には、ならないよ。……いや。失敗と違うは、違う。……何言ってんだ俺」
レイラは、その不完全な言葉を、そのまま受け取った。修正されなかった言葉の方が、腑に落ちた気がした。
「……ノエル様。私は昨夜、正しかったのですか」
「結果だけ見れば正しかった。誰も死んでない。子供も助かった。でもなシエル、同じことをもう一度やって、同じ結果になる保証はどこにもない。次はお前が死ぬかもしれない。……だから、手順があるんだ。報告がある。俺がいる」
「戦闘で私が死ぬ可能性がある、ですか」
「ああ」
ノエルはまっすぐ見てきた。
「お前が勝手に死ぬのは、困る。それは当主として、困るんだよ。……あと、個人的にも困る」
言い足された最後の部分は、少し声が小さかった。レイラは両方を、同じ重さで記憶した。
「では、罰を」
「罰は、ある。……あって、だな」
ノエルは書類の山から一枚を抜いた。
「昨夜の件で、お前の顔を見た避難民が増えた。『銀髪のメイド』の噂は、もう止められない。配膳所の仕事は、今日からギルに引き継ぐ。お前は屋敷の内側の仕事に専念しろ。……これが、失敗の値だ」
レイラはその言葉を味わった。罰ではなく、値段。払うのではなく、差し引かれるもの。配膳所の仕事は、あの柱の陰の子供たちと、まだ手の振り方を練習する間にあった場所だった。
「……承知しました」
頷いたあとで、喉の奥に微かな引っかかりを覚えた。何かを言い損ねた感覚。引継書に記載のない種類の感覚だった。
「それと」
ノエルは書類を戻した。
「あの子供だが、今朝目を覚ました。食事は喉を通らなかったそうだ。名前も、何も喋らない。……興味はあるか」
「あります」
「そうか。じゃあ、たまに様子を見てやってくれ。あの子が喋る相手は、選ばせてやりたい。お前は、候補のひとりだ」
「私が、ですか」
「お前が、だよ」
昼前、配膳所の引き継ぎに行った。ギルは、給仕長の下で働く青年で、口数が少なく、手先が器用だった。レイラは手順書の写しを渡し、大鍋の火加減、配膳の順序、子供たちが群がる時間帯、樽の開け方を順に説明した。
「……最後に。東側の柱の陰に、子供たちが潜むことがあります。追い出す必要はありません。見えないふりをして、配膳のペースだけ、少し落としてください」
「なんで」
「拾いやすくするためです」
ギルは少し考えて、頷いた。それ以上は訊かなかった。訊かれなくて、よかった。引き継ぎが終わって配膳所を出るとき、東の柱の陰に、小さな靴が見えた。いつもの子供たちだった。レイラは立ち止まりかけて、しかし、今日からここは自分の持ち場ではないのだと思い出して、そのまま歩いた。
靴が、少しだけ柱から出ていた気がした。気のせいかもしれなかった。振り返らなかったので、確かめようがない。
帰り道、広場の脇を通った。昨日まで避難民で溢れていた場所は、今朝の片付けで随分とすっきりしている。井戸の周りで、女たちが洗い物をしていた。その手が一斉に止まって、こちらを見た。
視線が、刺さる。
敵意ではない。しかし、昨日までのような「通りすがりのメイド」への扱いでもなかった。噂は、もうここまで来ている。レイラは会釈だけして、足早に通り過ぎた。会釈を返してくれた者が、何人かいた。そのうちの一人が、毛布を貸してくれた老女だったような気がしたが、確信はなかった。顔を見ていなかったので。見ておけばよかった。
午後は洗濯と、医務室の見回りと、倉庫の整理だった。鼠の罠を確認すると、バネだけが作動していて、餌が消えていた。二度目だ。仕掛けの位置を変えて、罠をかけ直した。倉庫の片隅に、齧られた菓子の包み紙が落ちていた。包み紙は拾って、火にくべた。
夕方、西棟の離れに向かった。ノックをして、返事はなかった。想定通りである。ノエルから、食事を運ぶ役目を兼ねるよう言われていた。レイラは盆を持って、扉を開けた。
「こんにちは」
言ってから、気づいた。時刻は夕方だ。間違えた。訂正しようとして、しかし、訂正が先か盆を置くのが先か判断に迷い、その間に数秒が過ぎた。少年は、窓際のベッドの上で、毛布を肩まで被って座っていた。こちらを見ている。見つめる、というより、値踏みするような目だった。昨日の夜、地面に縛られていたときと同じ目だ。
「食事です。ここに置きます」
盆を机の上に置いた。パンと、スープと、果物。それと、蜜煮を小皿にひと匙。メニューの決裁は取っていない。厨房の棚の奥の小瓶から、自分で持ってきた。失敗作ではない方の、二回目に作ったやつだ。
「食べるかどうかは、あなたの判断に任せます。……食べない場合、一時間後に下げに来ます。置いておくと傷むので」
少年は何も言わなかった。レイラは部屋を出ようとして、扉のところで足を止めた。立ち去るべきだった。用は済んでいる。でも、足が止まった。
「昨日の夜」
口が、先に動いていた。
「あなたのことは、殺せました。でも、殺しませんでした。……理由は、私にも上手く言えません。ただ、後悔はしていません」
少年の目が、微かに動いた。それだけだった。レイラは頭を下げて、部屋を出た。廊下を歩きながら、自分が何を言いに行ったのかを考えた。謝罪ではなかったし、説明でもなかった。伝達、というほどの内容でもなかった。引継書には、こんな言葉はなかったはず。
一時間後に盆を下げに行くと、パンとスープが半分ほど減っていた。果物はそのままだった。蜜煮の小皿だけが、空になっていた。空の小皿を盆に乗せて戻る途中、何度か、小皿を見た。空の皿を見ても得られる情報はないのに、見た。
夕食後、書斎に呼ばれた。二回目である。今朝の話の続きかと思ったら、違った。
「ああ、別件だ。座れ。……それと、これ」
ノエルが差し出したのは、封を切っていない手紙だった。差出人の名はない。封蝋は、エステル家のものではない紋だった。剣を模した、見慣れない紋。レイラはその紋を見て、一瞬だけ呼吸が止まった。
「……ヴェラの、ですか」
「分からん。俺に宛てられたものだが、中身はまだ読んでいない。読むのは、お前がいてからにしようと思ってな」
「なぜですか」
「お前の師匠かもしれない手紙を、俺が先に読むのは、順番が違う気がした」
レイラは手紙を見た。見たまま、動かなかった。手が出なかった。出せない理由が、自分でも掴めなかった。
「……ノエル様が先に読んでください。私は、あとで」
「そうか」
ノエルは手紙を引っ込めた。封を切る様子はなかった。机の引き出しに、そっと仕舞った。開けやすい、一番上の引き出しに。
「シエル。急がなくていい。あれは逃げない」
「分かっています」
分かっていた。逃げないのは分かっていた。それでも、今夜はその引き出しを開けられなかった。開けないという判断をしたのか、開けられなかっただけなのか。その区別がつかないまま、レイラは書斎を出た。
その夜、巡回の途中で、ノエルと廊下ですれ違った。
「シエル。ひとつ聞いていいか」
「はい」
「お前、今、楽しいか。……屋敷の仕事は」
質問の角度が、いつもと少し違った。どうしたいの、ではない。楽しいか、と訊かれた。レイラは考えた。考えるための時間を、いつもより長く取った。ノエルは急かさずに待っていた。廊下の窓の外で、烏が啼いた。夜に烏が啼くのは珍しい。
「分かりません。……ですが」
「ですが?」
「明日の朝も、厨房に立ちます。蜜煮の試作、四回目があります。今度は鍋を変えます。それが、楽しみ、なのかもしれません。楽しい、に近い何かが、そこにあります。たぶん」
うまく言えなかった。言い終えてから、もっと上手い言い方があったのではないかと思った。けれど、ノエルは笑っていた。満足そうに、だった。
「それで十分だよ。おやすみ、シエル」
「おやすみなさいませ、ノエル様」
背中を見送りながら、レイラは思った。十分、とは何のことだろう。何に対して十分なのか。聞けばよかった、と思ったのは、ノエルの姿が廊下の角に消えてからだった。
自室。日誌を開く。ペンを執って、いつも通り数字から書いた。
『本日の血液消費量:九滴。
用途:火の調整、洗濯の補助、巡回の灯。
備考一:配膳所の引き継ぎ完了。ギルへ。手順書写し一部、口頭補足四項目。
備考二:離れの少年に食事を運んだ。摂食量:パン半分、スープ半分。蜜煮は完食。明日も同じ献立で様子を見る。
備考三:鼠の罠、二度目の空振り。餌のみ消失。位置を変更して再設置済み。鼠の方が一枚上手。』
ここまで書いて、ペンを止めた。
書くべきことが、あと二件ある。書斎の引き出しの手紙。それから、朝のノエル様の言葉。『失敗と違うは、違う』。
備考四、と書いた。
ペンが、止まった。手紙について書こうとした。書けなかった。紋の形を書こうかとも思ったが、書くと、何かが決まってしまう気がした。決まる、という表現が正しいのかも分からないが、とにかく書けなかった。
ノエル様の言葉について書こうとした。これも書けなかった。書き留めると、言葉が記録になってしまう。記録になったら、あの不完全さが失われる気がした。『何言ってんだ俺』まで含めて、あの言葉だったのに。
備考四の欄は、そのままにした。空白のままの欄を見ていると、落ち着かなかった。引継書のルールでは、備考は記入するものだ。空の備考など、存在しない。
それでも、今夜は空のままにした。日誌を閉じる。飴の包み紙が、頁の間から微かに覗いていた。あの飴は、いつ食べたのだろう。包み紙は、まだここにある。窓の外を見る。西棟の離れの窓には、今夜も灯りがついていた。灯りが消えるまで、レイラは窓辺に立っていた。消えてからも、しばらく立っていた。
ご拝読ありがとうございました。




