第九話:保留の解除
祭りの日の朝は、いつもより一時間早く始まった。厨房に入ると、既にトムがいた。包帯が取れている。薪を抱えた姿を見て、腕の具合を訊こうとして、やめた。抱えられている時点で答えは出ていた。
「おはようございます、レイラさん。今日、手伝いに行くんですよ、出店の。給仕長が」
「酒場の」
「はい。腕、もう大丈夫なんで。見てくださいよ、これ」
包帯の取れた腕を掲げてみせた。傷跡は残っている。治りきってはいない。それでも動いていた。
「無理はしないでください」
「はい。……あの、レイラさんは、祭り、行くんですか」
「わかりません。主人の予定次第です」
「行った方がいいですよ。ああいうの、見てるだけでも、なんかいいものですから」
なんかいいもの、という表現の曖昧さに、返す言葉がなかった。トムはにこにこしながら薪をくべ直した。レイラはかまどの火を灯し、蜜煮の仕込みを始めた。四回目の試作である。この間は、鍋を変えたことで色はほぼ店に近づいたが、今度は甘さがわずかに浅かった。変数をひとつ変えると、別の変数が動く。当たり前のことを、ひとつずつ、遠回りして学んでいる。
今日は、蜜を計る匙を変えた。大きい匙から小さい匙へ。回数は増えるが、誤差は小さくなるはずだった。
朝食の席で、ノエルが言った。
「シエル。今夜、街に出るぞ。祭りの最終日だ。灯りが出る」
「灯り」
「空に灯りを浮かべるんだ。街中で。……見たことないだろ」
レイラは首を振った。見たことがなかった。
「行くか」
質問の形をしていた。答えようとして、止まった。行くか、と訊かれて、任務なのか任意なのかが分からなかった。分からないので、保留にした。保留、という操作は、もう手順として身についていた。
「……検討します」
「おい。祭りを検討するな」
「では、夕方までに回答します」
「それもおかしいだろ」
ノエルは笑いながらパンを齧った。蜜煮の皿にも手を伸ばした。近頃、当主の食事の皿に蜜煮が載るのが恒例になっていた。試作の副産物である。
「で、だ。もうひとつ。あの子供も連れていく」
箸が止まった。
「離れの、ですか」
「ああ。まだ喋らないが、食事は取るようになった。部屋に閉じこもったままより、外の空気の方がいい。医務の者もそう言ってる。……シエル、お前が側にいてくれ。あの子が一番、警戒していないのはお前だ」
「私は、あの子を組み伏せました」
「それでも、だ。あの子はお前の作った蜜煮だけ完食する」
レイラは皿を見た。空の小皿のことを思い出していた。情報としては「完食」しかない。その情報が何を意味するのかは、引き出せていない。それでも、拒否する理由はなかった。
「承知しました」
「ああ。……あと、お前は『任意』だからな。さっきの検討とやら、夕方まで待つ。ちゃんと答えろよ」
午後、離れに食事を運んだ。
「こんにちは」
今度は時刻を確認してから言った。正確だった。返事はなかった。少年は窓際のベッドに座って、相変わらずこちらを値踏みするように見ていた。
「今夜、街に出ます。祭りです。あなたも同行できます。……同行するかどうかは、あなたが決めてください」
少年の目が、わずかに動いた。窓の外に向いて、それから、ゆっくりとこちらに戻る。
「無理にとは言いません。ただ、外の方が——」
外の方がいい、と言いかけて、やめた。根拠がなかった。医務の者の意見は伝え聞いただけで、自分がそう思う理由は、説明できるものではなかった。説明できないことを、説明するふりをするのは、やめようと最近思い始めている。
「……私も行く予定です。あなたも来ますか」
言い直した。来ますか、という形に。少年は長いこと黙っていた。それから、ごくわずかに、頷いた。頷きは本当に小さかった。見逃すほどではなかったが、確かめるほど大きくもなかった。レイラは「了解しました」とだけ言って、部屋を出た。
廊下を歩きながら、夕方の回答がひとつ決まった。祭りには行く。少年が行くのであれば、側にいるのは私の役目だ。——役目、という言葉で決めた。決めてから、ノエル様は「任意だ」と言っていたことを思い出した。役目ではない、と言われそうだった。言われる前に訂正しておくべきかどうか、考えながら歩いた。結論は出なかった。
夕刻、三人で屋敷を出て、ノエルは上質だが目立たない外套を纏い、レイラはメイド服の上から防寒のショールを羽織った。少年には、使用人たちが調達した、少し大きめの外套が貸し出されていた。袖が余っていて、少年はその余った部分を握りしめていた。
街は、夜なのに明るかった。
通りの両側に出店が並び、篝火と魔法灯が交互に灯っている。蜜の香り、焼けた生地の香り、酒の香り。人の声が層になって、どこか遠くで楽器が鳴っていた。三年前の街の喧騒——いや、あれは日常の喧騒で、これは祭りの喧騒だった。似ているようで、どこか違う。違いの正体は、すぐには掴めなかった。
「シエル。はぐれるなよ」
「はぐれません。……ノエル様こそ」
「俺ははぐれない」
「先日、書店で二十分行方不明になりました」
「あれははぐれたんじゃない。探し物をしていたんだ」
「探し物は見つかったのですか」
「……見つからなかった」
「では、はぐれていたのと同じです」
ノエルは頭を掻いた。少年がそのやり取りを見ていて、口元が微かに動いた。笑ったのかどうかは、分からなかった。広場に出ると、人の輪ができていた。輪踊りである。子供たちが混ざって、転んで、誰かに手を引かれて起き上がっている。レイラは立ち止まって、それを眺めた。眺めていると、視界の端で、少年も同じ方向を見ていることに気づいた。
「踊りますか」
訊いてみた。少年は激しく首を振った。初めて見る、はっきりした反応だった。レイラは内心で記録した。輪踊り:不要。蜜煮:完食。——項目が増えていく。
出店をひとつずつ回った。ノエルが焼き栗を買い、三人分に分けた。少年は最初、受け取らなかったはずなのに、ノエルが「残すなよ」と言うと、渋々という感じで受け取り、それから、意外に素直に食べた。殻を剥く手つきは不慣れだったが、食べる速度は速かった。レイラは自分の分の殻を剥きながら、剥き方を見せた。言葉では教えなかった。指先の動きだけを、少しゆっくり目にした。少年はちらりと見て、次の一粒は、うまく剥けていた。そして、あの露店が見えてきた。
蜜煮の、露店だった。老婆は変わらず同じ場所にいて、変わらず同じ鍋をかき混ぜていた。レイラの足が、自然とそちらに向いた。
「おや、あんた」
老婆はレイラを見て、目を細めた。覚えていてくれたらしかった。
「あの時の。……買ってくれたじゃないか。お代はもうもらってるよ」
「あの、ひとつ、教えてください。蜜煮は、どうやって」
訊きかけて、違うと思った。そうではない。工程はもう知っている。知りたいのは、別のことだった。
「……作っていて、楽しいのですか」
老婆は、少し驚いた顔をして、それから笑った。しわだらけの、深い笑い方だった。
「楽しいかどうかなんて、考えたこともなかったねえ。……でも、あんたがそう訊くってことは、あんたは作るようになったんだね」
「はい。四回、作りました。まだ、店の味には届いていません」
「届かなくていいんだよ」
「え」
「店の味は、店の味だ。あんたの味は、あんたの味だろ。同じにする必要なんて、どこにもないよ」
レイラは立ち尽くした。基準値に届かないことは、ずっと未達成だと思っていた。未達成ではない、と言われた。分類が、ひとつ、宙に浮いた。
「……お代は払います。ひと瓶、ください」
「毎度」
瓶を受け取る。帰り際、老婆が少年を見て、「弟さんかい」と訊いた。レイラは少し考えて、「違います」と答えた。何が違うのか、正確には説明できない関係だったので、それ以上は言わなかった。老婆は「そうかい」と笑って、少年に飴をひとつ、おまけでくれた。少年は飴を見て、それから、レイラを見た。確認するように。
「受け取っていいと思います」
少年は飴を、外套のポケットにしまった。食べなかった。しまった。トムの飴の包み紙が日誌の間にあるのを思い出した。食べないまま持っているものが、二人分になった。
夜が更けて、広場の中央に人が集まり始めた。「始まるぞ」と、ノエルが言った。広場のあちこちで、人々が小さな灯りを掲げた。紙と木の枠でできた、籠のような灯りだった。その内側に、術者たちが血の一滴ずつを灯していく。何百もの、一滴。街の人間たちの、それぞれの一滴。
灯りが、浮いていく。ひとつ、ふたつ、十、百。緩やかに、夜空へ向かって昇っていく。広場から、通りから、屋根の上から。街のあちこちから、灯りが次々に離れて、闇の中に点が増えていく。見上げた空が、灯りで埋まっていく。
レイラは、その光景を、見上げていた。戦場でも、夜に灯りを見たことがある。魔法灯の、冷たい光。野営の火。砲撃の閃光。どれも、夜を照らすためのものではなく、夜を裂くためのものだった。今、頭の上にある灯りは、何も裂いていない。ただ、浮いている。誰かが祭りのためだけに削った血が、誰かの夜空を明るくしている。一滴ずつ。何百滴も。何のために、と問うても、答えは「祭りのため」にしかならない灯りが、何百も浮いている。
試算しようとして、やめた。
滴数も、高度も、上昇速度も、全部、計算できる。計算できることを全部やめて、レイラはただ、見上げていた。首が痛くなっても、見上げていた。計算をやめた分だけ、入ってくるものがあって、それが何なのかは、分からないままだった。分からないまま、胸のあたりが温かかった。温かい、という言葉が合っているのかも分からなかったが、それ以外に言いようがなかった。
また隣で、少年が同じように空を見上げていた。その頬に、灯りの色が映っていた。少年は瞬きもせずに見上げていて、握りしめていた外套の袖から、いつの間にか指が出ていた。
「シエル」
ノエルの声がした。
「来年も、あるぞ。この祭りは」
「……はい」
「シエルは」
ノエルは、空を見たまま言った。
「来年も、来たいか思えているか?」
いつもの質問の、変形だった。どうしたいの、ではない。来たいか、と訊かれている。肯定か否定かで答えられる、優しい問いだった。しばらく沈黙を貫く……任意の質問に、保留を使わないと決めたのは、いつだったか。思い出せない。ただ、保留にしたくなかった。保留にするには、この場所は、この空は、あまりにも——
「……保留に、しません」
搾り出すように、言った。
「ノエル様。私は——」
言葉を探した。引継書にはない。任務の報告書にもない。訓練で教わった語彙にも、合うものがない。ないので、ある言葉を、並べるしかなかった。
「来年も、ここに。……来たい、です。そう思えているはずです」
言い切ってから、息を吐いた。言えた、と思った。思ったあとで、言葉の軽さに気づいた。たった少しの言葉。訓練で覚えたどの術式より、短い言葉だった。
「そうか」
ノエルは、空を見たまま、答えた。それだけだった。それ以上、何も言わなかった。言わないことが、優しさなのかどうかは、レイラには判断できなかったが、ありがたかった。ありがたい、という感情は、まだ辞書でしか知らない。それでも、それ以外に思いつく言葉がなかった。灯りは昇り続けていた。高く、高く、やがて星と見分けがつかなくなる高さまで。
レイラは、少年に視線を落とした。少年はまだ空を見ていた。その目に、灯りがひとつひとつ、映っていた。
「……来年も」
少年に、言ってみた。
「来年も、来ますか」
少年はこちらを見なかった。見なかったが、空を見上げたまま、小さく頷いた。今度の頷きは、昼間のものより、少しだけ大きかった。レイラは頷き返そうとして、少年がこちらを見ていないことに気づき、代わりに、空を見た。二人で、同じ空を見ていた。言葉がなくても、同じものを見ていることは分かった。同じものを見ている、というだけのことが、なぜか、悪くなかった。
悪くない、という評価も、正確ではない気がした。正確な言葉は、まだ、どこかにある。いつか見つかればいい。見つからなくても、いいのかもしれない。どちらでもいい、と思った。そんな考えを持つことが、自分でも少し、不思議だった。
帰り道、三人は並んで歩いた。祭りの熱気が、背後で少しずつ沈んでいく。出店の畳まれる音、桶を運ぶ音、子供のぐずる声。夜の街が、祭りから日常へ戻っていく途中の音だった。
「シエル」
「はい」
「蜜煮、五回目はいつ作るんだ」
「明後日を予定しています。今日、老婆から重要な示唆を得ました」
「示唆」
「『同じにする必要はない』。つまり私は、店の味を目指すのではなく、私の味を、作ります。……五回目からは、基準値ではなく、独自の目標値を設定します」
「ほんと……楽しみにしてるよ」
「はい」
ノエルは少し前を歩いていた。その背中を見ながら、レイラは言いかけた。言いかけて、飲み込んで、それから、やはり言うことにした。
「ノエル様」
「ん」
「今日は、ありがとうございました。……連れてきてくださって」
ノエルは立ち止まって、振り返った。少し驚いた顔をして、それから、いつもの調子で笑った。
「お礼を言われるほどのことか。……まあ、いい。どういたしまして」
少年は、二人のやり取りを黙って見ていた。外套のポケットの中で、飴が微かに擦れる音がした。屋敷の門が見えてきた。灯りの消えた門の向こうに、いつもの石段がある。いつもの庭がある。いつもの、帰る場所がある。帰る場所、という言葉が、頭に浮かんだ。でも、そのままにしておいた。今夜は、それでいい気がした。
自室。日誌を開く。
『本日の血液消費量:四滴。
用途:蜜煮の火の調整、巡回の灯、その他。
備考一:祭りに参加した。ノエル様、離れの少年と三名。少年は終始無言だったが、輪踊りを拒否し、焼き栗を食べ、空を見上げた。帰路、飴をポケットにしまっていた。食べていない。食べない理由は不明。
備考二:蜜煮の方針を変更する。基準値への再現を目的とせず、独自の目標値を設定する。五回目は明後日。
備考三:』
ペンが、止まった。備考三には、空の灯りのことを書くつもりだった。灯りの数、上昇の速度、胸の温かさの正体不明。そういうことを、いつも通り書くつもりだった。書けなかった。書こうとすると、ペンが止まる。止まる理由は、分からなかった。分からないことが、今夜は少しも苦しくなかった。
備考三の欄を、そのままにして、日誌を閉じた。
窓を開ける。夜風が入ってきた。遠くの空には、灯りの名残が、ほんのわずかに残っていた。あれは灯りなのか、星なのか。見分けはつかない。つかなくて、よかった。西棟の離れの窓に、灯りがついていた。いつもの灯りだ。それを眺めているうちに、レイラは気づいた。
明日も、朝が来る。朝が来たら、厨房に立つ。蜜煮を作る。食事を運ぶ。洗濯をする。昼には巡回をして、夕方には夕食の支度をして、夜には日誌を書く。その全部が、任務ではなく、日課ではなく——
言葉が見つからなかった。が探すのをやめて、レイラは窓を閉めた。灯りを消して、床についた。闇の中で、天井を見ながら、ひとつだけ、確かなことを思った。明日の朝、蜜煮の火を灯すのは、私だ。それだけで充分だった。
ご拝読ありがとうございました。




