エピローグ:遠い戦場
1章ラストです。
北の国境から、さらに北。名もなき野原に、夜が降りていた。ここ数日、この辺りの夜はずっと同じ色をしている。昼と夜の区別が、だんだん曖昧になっていく季節だった。冬が近い。北の冬は、人より先に戦場を休ませる。というより、凍えさせていく。どちらにせよ、剣を振るう季節は、あと僅かだった。
野原には、剣が落ちていた——
折れた剣。曲がった槍。砕けた盾。誰かの落とした革袋。中身の乾燥豆が、土に半分埋まっている。夜露で濡れた旗が、倒れた旗竿から力なく垂れていた。旗の紋は、泥で読めない。読めなくても、どちらの軍のものかは分かった。このあたりでは、どちらの軍も似たようなものを落としていく。
落とし物の間を、狐が一匹、横切った。女を見て、立ち止まって、それから、興味を失ったように踵を返す。今夜の狐は、人を恐れなかった。人の方が数を減らしていると、獣はすぐに気づく。獣の勘は、正直である。
夜の真ん中に、篝火がひとつ、灯っていた。
火の脇に、女が座っていた。
黒髪の短髪。黒い瞳。革鎧の上から、襟のへたれた外套を羽織っている。年齢は三十代の後半だが、そう見える夜と、もっと上に見える夜があった。今夜は、どちらとも言えなかった。
女は剣の手入れをしていた。使い古された鉄の剣。飾り気はない。切っ先の欠けを、砥石でゆっくり均している。剣身には、細かい傷が幾重にも刻まれていた。そのすべてが今夜のものではない。今日のものは、何本か、ある。
「……ったく」
女は呟いて、欠けのひとつを指先でなぞった。深い欠けだった。均しきれる深さではない。
「今日のは、質が悪かった」
誰に言うでもなく、言った。返事はなかった。返事をする者は、この夜のどこにもいなかった。今夜の戦いが片付いた、という証明だ。昼間の相手は、傭兵団。雇われの、寄せ集めの、十二人。悪い相手ではなかった。十二人のうち、三人ほどの動きが、やけに揃っていた。揃い方に、見覚えがあり、教えられた揃い方だった。誰かが、誰かと同じ場所で、教えられた揃い方。
女はそのことを、考えないようにして、考えていた。
考えたところで、今夜はどうにもならない。調べるとすれば、明日だ。革袋の中身と、装備の作りと、傭兵団の紋章。この季節に北に傭兵が流れてくるのは例年のことだが、今年の流れ方は、どこか変だった。変の理由は、まだ分からない。分からないことを調べるのは、明日でいい。
女の名を、戦場の者たちはこう呼ぶ。
静謐の狂気。
敵がそう呼び、味方もそう呼び、本人は呼ばれていることすら碌に気にしていない。剣一本で戦場に立ち、魔法は使わない。使えないのではない。使わない。使えば戦場が歪むことを、知っているからだ。歪む、というのがどういうことかを説明したことは、本人にもない。
代わりに、女は剣を選んだ。剣の方が、生存に役立つ。それだけの話だ。魔法は便利だが、便利なものに頼ると、頼れない場所で死ぬ。戦場は、頼れない場所の方が多い。だから、全部を使う。剣も、足も、夜も、風も、相手の油断も。使えるものは全部使う。その全部の中に、魔法だけを入れていない。それだけの話のはずだった。だが世間はそういう話を、そういう話として受け取らなかった。いつの間にか通り名がついて、いつの間にか一人歩きして、気づいたら、女は「静謐の狂気」になっていた。
通り名のことを、女は嫌いではなかった。便利だった。名が先に戦場に着くと、戦わずに済む戦いが増える。増えた分だけ、夜が長くなる。長い夜は、火の前で過ごす。悪くない。
剣を鞘に収めて、女は外套の内側から乾燥パンを取り出した。齧る。音だけが豪快で、味はない。それを水で流し込み、火に視線を戻した。
火の中の薪が、時々、爆ぜた。
水筒の水を、もう一口。水はぬるかった。温めようかと思った。指先ひとつ、血ひとつで、湯になる。思って、やめた。ぬるい水は、ぬるいまま飲んだ。理由は特にない。今夜は、そういう気分だった、ということにしておく。
「……そういや」
女は、懐から何かを取り出しかけて、やめた。手が懐の中で止まったまま、しばらく動かなかった。
「……いや。まだいい」
手を引っ込めた。何を取り出そうとしたのか、取り出さなかったのか、女だけが知っていた。先延ばしにすることも、たまにはある。先延ばしにできるうちは、まだ、間に合っている。そういう計算だった。
空を見上げる。
北の空は、暗かった。星はある。灯りは、ない。ここには灯りを浮かべる祭りがない。浮かべる人間がいない。浮かべるだけの、夜を待つ心の余裕がない。
女は北の空を見たまま、しかし、想い馳せていたのは南のことだった。南には、領地がある。領地には、屋敷がある。屋敷には——今夜あたり、あの街では祭りをやっているはずだった。あそこは確か、この季節に、空へ灯りを浮かべる。現当主ノエルが子供の時に一度だけ、遠目に見たことがあった。見た、というより、見せられた、に近い。見せたのは誰だったか。思い出せない。
あの子は、あの灯りを、見ただろうか。
見ただろう、と女は思った。思う根拠はなく、それは勘だった。この女の勘は、書類にも報告書にも載らないが、十年分の戦場より正確だった。その勘が言うには——今夜、あの子は空を見上げている。灯りを見て、なんとかなる。そういう気がした。気がしただけだったが、女にとって、勘は気がしただけのものより重い。
勘が外れたことも、ないわけではない。十年前のあの夜は、外れた。外れた勘のことを、女は今夜も数えなかった。数えないことにしている。数え始めると、北の夜は尽きない。
「……レイラ」
女は、小さく呼んだ。火に向かって、呼んだ。
自分で名付けた名だった。名付けた夜のことは、よく覚えている。雨の夜だった。今にも壊れそうな、小さい子供。あの子に名をつけたとき、女は、名とは何かを考えた。考えた末に、つけた。つけた名が、あの子をどこまで運ぶかは、名付けた側にも分からない。分からないが、名は、夜を越えるための荷物になる。女はそう信じていた。そういう言葉は使わないが、あの夜だけは、そういう言葉が似合う夜だった。
覚えているが、今夜はそれ以上は思い出さない。思い出すと、北の夜は少し長くなる。長い夜は、戦場では得にならない。女は火をまたいで、南の方角を、ほんの少しだけ見た。
見えるはずもない。距離がありすぎる。それでも、同じ空の下だということだけは、確かだった。同じ空の下で、自分が闇の中にいて、あの子が灯りの下にいる。その配置は、女にとって、思い描いた通りの配置だった。
預けた先のことも、勘は語っていた。あの当主なら、やる。やるだろう。やらなければ、その時は、その時だ。その時のことを考えるのは、その時でいい。今夜の勘は、今夜の分だけ使う。それが女の、勘との付き合い方だった。
「……いい場所に、置いた」
呟いて、女は横になった。外套を被り、剣を抱えるようにして、目を閉じた。
眠る前に、もうひとつだけ、考え直す。昼間の傭兵団の、揃いすぎた三人。あれは、調べる。調べるのは明日。眠るまでに、ものの数秒しかかからなかった。それも、戦場で身についた技術のひとつである。
篝火は、夜明けまで燃え続けた。夜の半ば、狐がもう一度、野原を横切った。眠っている女を見て、今度は立ち止まらずに通り過ぎた。獣は、眠っている人間に興味を持たない。起きている人間の方が、面倒だからである。
燃え尽きる寸前の火の中で、薪がひとつ、大きく爆ぜた。火花がひとつだけ高く舞い上がって、夜の空に、短い点をひとつ、灯した。灯りは、すぐに消えた。消えたあとの空を、見る者はいなかった。
しっかりと毎日同じ時間に継続して投稿するのは中々難しかったですが、見てくださっている方々には本当に感謝しています。
一週間あけて、二章を再開する予定です。
が、執筆ペースが早ければ、早めに投稿していく予定なので、これからもよろしくお願いします。




