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戦姫メイド  作者: 白彩
戦のない世界に
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8/41

第七話:野犬

投稿遅れました。

次話は明日の昼ぐらいに投稿しようかなと思っています。

 悲鳴で目が覚めた。深夜二時を少し回った頃だったと思う。方角は南。教会堂のあたりだ。レイラが窓を開けて夜気に触れた時には、もう体が動き出していた。考えるより先に、というやつだった。

廊下を走る。途中で一度、曲がり角の花瓶に気づいて体を逸らした。花瓶は無事だった。メイド服の裾をつまみ上げて歩幅を変え、備品棚の前で足を止めずに短剣だけを抜き取る。棚の扉は開けっ放しになった。それに気づいたのは、ずっとあとのことだ。


ノエル様への報告、使用人への指示。そういう手順が頭のどこかにあったはずなのに、全部すっ飛んでいた。門をくぐってから、昼間の指示を思い出した。『表に立つな』。思い出したが、足は止まらなかった。門番は今夜、詰め所で炬燵を囲んでいたはずだが、気づかれた様子はなかった。


夜の街を走る。戸締まりの済んだ家々が両脇を流れていく。どこかの軒先で、干し忘れた洗濯物が風に揺れていた。井戸の前を通りかかった時、水を飲んでいた猫がこちらを見て、物陰に消えた。犬が一頭、塀の上からこちらを見ていたが、吠えはしなかった。


教会堂までは直線で八百メートル。灯りの消えた石畳は夜露に濡れていて、二度ほど足を滑らせた。この程度の道で滑ること自体がおかしい。夜の街を駆けるのは初めてではないのに。息もいつもより早く上がっていた。三度目は滑らなかった。滑る場所を覚えたからだ。



 教会堂の前は、ひどい有様だった。男が七人。剣と棍棒で武装している。装備こそばらばらだが、立ち位置に統率があった。散らばって見えて、互いの死角を潰し合っている。軍式の足運びだ。


宿舎の扉は破られ、中から食料を運び出す影が見える。地面には突き倒された避難民がいて、破れた扉の向こうから子供の泣き声が聞こえていた。樽がひとつ転がり、中の豆が石畳に零れていた。見張りらしい男がひとり、教会堂の軒に背を預けて立っていて、まだこちらに気づいていない。


一人の男が、泣きじゃくる幼い子供に棍棒を振り上げている。それを見た瞬間、レイラの周りの音が全部遠くなった。——指先に血を灯す。一滴、二滴。冷たい感覚が腕を駆け上がって、教会堂の周りの篝火が一斉に消えた。闇が男たちを呑む。


「な、なんだ!?」


軒の見張りが真っ先に動いた。樫の杖のようなものを構えて、闇を見ようと目を凝らしている。レイラはその背後に回り込んで、後頭部に手刀を落とした。声もなく崩れる。続けて、石畳の継ぎ目に溜まった雨水を凍らせた。二人が同時に滑る。闇の中から滑り込み、短剣の柄で一人目の頸を打ち、もう一人の膝の裏を蹴り抜いて、転んだところを後ろ手に組み伏せた。


「いるぞ、何かいる——」


三人目の叫びは上から遮った。飛行魔法を跳躍の補助に回し、常人の三倍の高さから男の真上に降りて、落ち際の踵を肩口に落とす。鈍い音がして、男は崩れた。

四人目は闇の中で剣を振り回していた。当たりはしない。当たらないと分かっている剣の軌道の間を縫って、手首を打って剣を落とさせ、そのまま肘を鳩尾に入れた。五人目は逃げようとして凍った地面に尻もちをつき、そのまま気絶させた。窓の配置も柱の位置も、倒れた避難民の場所も、頭の中の地図に全部収まっていた。誰かが「化け物だ」と叫び、誰かがそれを怒鳴り止め、その誰かも倒れた。

六人目は武器を捨てて逃げ出した。追う必要はない。追わなかった。


残るは、一人だ。教会堂の扉の陰。最後の一人は、そこにいた。レイラは闇の中でその姿を見て、凍りつく。



 十五、六歳。痩せて頬がこけ、着古した軍服の端がほつれている子供だ。両手に短剣を握っていた。その、だらりと下がった右腕に、古い傷が走っていた。深い傷だ。何度も同じ場所を裂かれた痕で、治癒魔法では届かない深さのものだった。


その傷を、レイラは知っていた。自分の腕にも、同じものがある。


「……来るな」


子供が声を絞り出した。かすれた、若い声だ。


「来るな、来るな、来るなよ……!」


突進してきた。技術はない。あるのは刻まれた剣筋だけで、心臓を狙う最短の動きを、誰かにそう教え込まれたのだろう。レイラの体が自動で反応した。受け流して、懐に入って、喉へ。刃の角度、力の配分、所要時間〇・八秒まで、計算が走る。指先に血が灯った。


その時、頭の中に別の光景が割り込んだ。広場の、輪になって回る子供たち。転んだ子に差し伸べられた手。配膳所の柱の陰から、後ずさりしていった小さな靴。なぜ今それが出てくるのかは分からなかったが、光景は消えなかった。レイラは手順を捨てる。


代わりにしたのは、面倒なやり方だった。子供の短剣を受け流す代わりに、指先の灯りで弾いた。火花が散って、体勢が大きく崩れる。回り込んで両腕を絡め取り、地面に倒れ込みながら関節を極めた。


「っ、が……あ、ぐ……!」


子供は死に物狂いで暴れた。膝が脇腹に入り、二度目は顎に入った。口の中に血が滲む。レイラは体重を預けて押さえ込んだ。殺さずに抑えるのは、殺すより何倍も力が要った。指先の灯りが切れ、視界の端が白んでいく。貧血の前兆だ。それでも、抑え続けた。


やがて子供の抵抗が弱まった。力が抜けて、短剣が石畳の上に落ち、乾いた音が夜に響いた。それから、子供は泣き始めた。


「……っ、う……うあ……」


嗚咽だった。声を殺すことすらできない泣き方で、頬を地面に押しつけたまま、涙が石畳に広がっていった。レイラは押さえたまま、固まっていた。戦場で人は泣かない。泣く余裕があるなら動け、それが教えられた掟だった。なのに目の前の子供は泣いている。泣き方を、知らなかった。知らない者の耳には、その声が妙に遠かった。隣にいるのに、遠かった。


子供を縛り上げてから、隣に膝をついた。何かを言うべきかと考えたが、言葉は出てこなかった。出てこないので、何も言わずにいた。


子供の嗚咽が少しずつ小さくなっていく。教会堂の破れた扉から避難民たちが恐る恐る顔を出していたが、誰も近づいてこなかった。遠くでは、倒した男たちのうめき声が断続的に聞こえている。凍らせた地面が、気温のせいか、夜露のせいか、ゆっくり溶け始めていた。男たちの一人の袖口が、溶けた水でじわりと濡れていくのを、レイラはぼんやり眺めていた。立っている間に二度、貧血で視界が揺れ、そのたびに爪先で立ち位置を確かめた。空の色は、気づかないうちに少しだけ薄くなっていた。


子供の泣き声は、いつしか止んでいた。泣き疲れて眠ったらしい。縛られたまま石畳の上で、小さく寝息を立てている。レイラは上着を脱いで、その肩に掛けた。掛ける意味があるかどうかは、考えなかった。


——夜風が、肌に冷たかった。それでも、その場所を離れなかった。離れる理由が、見つからなかった。



 朝焼けの中、ノエルが衛兵を連れて駆けつけた。転がる男たち、割れた扉、零れた豆。そして石畳の上に並んだ二つの影——縛られた子供と、背筋を伸ばして座る銀髪のメイド。ノエルは息を飲んで、駆け寄ってきた。


「シエル! 無事か!?」

「問題ありません。血液を多めに消費しましたが、行動に支障は」

「血の話はいい! 怪我は!?」

「ありません。……あ、脇腹と顎に、蹴りが入っています。……ありました」

「どっちだ」

「あります」


ノエルはレイラの全身を見て、顎を指でそっと持ち上げるようにして確認し、それから大きく息を吐いた。吐いた息が、朝の冷気で白くなった。


「報告、なかったぞ。屋敷を出る前の」

「はい。手順を、後回しにしました」

「後回しじゃないだろ。全部すっ飛ばしてただろ」

「はい」


謝るべきか迷っていると、ノエルの視線が隣に移った。子供は疲れ果てて眠っていて、縛られたまま、レイラの肩に少しだけ寄りかかっていた。上着を掛けられたままの姿を、ノエルはしばらく見ていた。


「この子は」

「保護対象です。捕縛対象ではなく、保護対象として扱ってください」


言ってから、自分でも少し驚いた。口が先に動いていた。


ノエルは少しの間レイラの顔を見て、それから静かに頷いた。


「分かった。この子はエステル家が預かる」

「はい」

「シエル」

「はい」

「お前、すごく疲れた顔してるぞ」


自分の顔に触れてみたが、疲労の自覚はなかった。貧血の兆候はあるが、あれは計算の範囲内だ。なのに、言われた途端、急にまぶたが重くなった。


「もしかしたら、少しだけ疲れているかもしれません」

「そうか。馬車を呼ばせる。お前は乗って帰れ」

「徒歩で十分です」

「乗れ。今日は俺の言うことを聞く日だ」

「そういう日があるのですか」

「今決めた」

「では、今日の指示には全て従います」

「今さら言うな」


衛兵の一人が近づいてきて、男たちの引き渡しについてノエルに何か尋ねていた。ノエルは短く指示を返して、それからレイラの方を振り返った。


「お前はもう、何もするな。座ってろ」

「座っています」

「……そうだな」



 馬車の手配を待つ間、レイラは教会堂の軒下に座っていた。避難民たちが少しずつ建物から出てきて、倒れた男たちの荷を食料庫に戻し、散らばった物を拾い集めている。破れた扉の前では、大工らしい男が屈んで、蝶番の具合を見ていた。「直せる、直せる」と誰に言うでもなく呟いていた。ぼんやりその光景を眺めていると、隣に誰かが立った。見知らぬ老女で、手に毛布を持っていた。


「お嬢ちゃん、寒いだろう」

「私は大丈夫です」

「大丈夫な顔はしてないよ。ほら」


毛布を肩に掛けられた。断るタイミングを逃して、そのままになった。毛布は毛羽立っていて、日に干された匂いがした。


「ありがとうございます」

「あんたが助けてくれたんだろ。ありがとう」


礼を言われた。レイラは、返す言葉を探した。見つからないうちに、老女はゆっくり向こうへ歩いていく。レイラは掛けられた毛布を直して、それから、遅れて小さく「ありがとうございます」と言った。もう誰も聞いていなかった。建物の陰からは、子供たちが顔を出していた。配膳所で後ずさりした、あの子供たちだ。気づいた時には、一番前の小さな子供が、もう何度か手を振ったあとらしかった。あわてて、自分の手を持ち上げる。


その時にはもう、子供たちは誰かに呼ばれて、走り去るところだった。一番後ろの小さな子供だけが、一度こちらを振り返って、にっと笑った。レイラは、上げた手をそのまま少しの間置いて、それから下ろした。手のひらを開いて、閉じて、もう一度開いた。練習以前の問題だった。気づくのが、遅い。


そのあともしばらく、子供たちが消えた建物の陰を見ていた。二度目は来なかった。来ないものは、待っても来ない。



馬車が来た。眠っている子供は屋敷の者が別の車に乗せ、レイラは荷台に乗せられた。ノエルは徒歩で隣を歩くという。


「ノエル様は乗らないのですか」

「俺は歩く。お前を馬車に慣れさせる。……いや、馬車に乗せる」

「言い直しましたね」

「気にするな」


馬車がゆっくり動き出し、石畳の振動が荷台から背中に伝わった。教会堂が少しずつ遠ざかっていく。軒下に、レイラの上着が残っている——と思って、違うことに気づいた。あれは子供の肩に掛けたままだ。回収し忘れた。


朝日が破れた扉を照らし、避難民たちが桶を出し、破片を拾い、毛布を畳んでいた。昨夜のことが、もう日常の続きに組み込まれていく。街は起き始めていて、パン屋の煙突から煙が上がり、魚屋の店先に桶が並べられ、どこかで山羊が鳴いた。


振動が心地よかった。馬車の揺れに身を任せて少し目を閉じたら、そのまま眠りそうになった。眠るのは屋敷に着いてからだと思いながら、五分ほど眠っていた。ノエルに肩を揺すられるまで気づかなかった。


「着いたぞ、シエル」

「眠っていません」

「寝てただろ」

「三分だけです」

「五分だった」


馬車を降りて門をくぐる。朝の光が斜めに差し込んでいた。いつもと同じはずの石段の感触が、少しだけ柔らかく感じられた。眠気のせいだろう。玄関に向かう途中、庭の木の枝に烏がとまっていた。こちらを見ている。パンの耳を持っていないことを伝える術がなくて、会釈だけして通り過ぎた。


使用人たちが騒がしく動き回っていた。誰かが「帰ってきた」と言い、誰かが「湯を」と言い、誰かが「寝かせろ」と言っていた。レイラはそれらの声を聞きながら、言われるままに自分の部屋に戻り、言われるままに床に就いた。



目が覚めたのは、昼を過ぎた頃だった。天井を見て、今朝のことを思い出す。……今朝、というには、色々と詰め込みすぎた気がした。起き上がると、脇腹が鈍く痛んだ。顎は、触れるとひりついた。貧血の気配は、もう引いていた。窓の外は曇りだった。着替えて、髪を整えて、部屋を出る。食堂には、取り置きの昼食が置かれていた。パンと、豆のスープ。……豆だった。


食べながら、厨房の様子がいつもと違うことに気づいた。使用人たちが、こちらを見ては、ひそひそと何かを話している。近づくと、黙る。


「……何か」

「い、いえ! 何でもないです!」


何でもないものは、たいてい、何かある。だが追及はしなかった。追及する元気がなかった。



食事のあと、医務室に向かった。子供はベッドの上で眠っていて、毛布を肩まで引き上げて、小さく丸まっている。枕元には、畳まれたレイラの上着が置かれていた。


看護に入っていた年配の使用人が、小声で教えてくれた。


「さっき一度目を覚ましてね。水を飲んで、また寝たよ。……熱はない。傷も、大したことない。ただ、ひどく疲れてるんだね、あれは」

「……そうですか」

「お嬢さんこそ、顔色が良くないよ。座りな」


言われて、部屋の隅の椅子に座った。座ってから、用がなかったことに気づいた。見に来た、という以外の用が。しばらく、寝息だけが聞こえる部屋に座っていた。子供の寝顔は、眉を寄せていた。眠っていても、どこかを警戒しているような顔だった。そのうち、少しだけ眉が緩んだ。夢の切れ目なのか、何なのか。


レイラは、椅を立つ時に、畳まれた上着に手を伸ばしかけて——やめた。回収しないことにしたのだ。だったら、置いていく。部屋を出る時、年配の使用人が「またおいで」と言った。義務でも手順でもない言葉だった。レイラは曖昧に頷いて、廊下に出た。



夕食は、書斎に運んだ。ノエルは相変わらず書類の山に埋もれていたが、山の高さは幾分か低くなっていた。レイラの顔を見ると、まず言った。


「顎、どうだ」

「腫れは引きつつあります。……書類の方は」

「半分。お前が一日休んだら、仕事の八割が止まることが判明した。……お前、結構色々やってたんだな」

「メイドの仕事です」

「メイドの仕事じゃないのも混ざってたぞ。物資の台帳とか」

「……回ってしまったので」

「回ってしまった、か。……まあいい。ありがとうな」


ノエルはそう言って、書類に戻った。話はそれで終わりだった。食堂に戻る途中、廊下の窓から西棟が見えた。離れの窓に、灯りがついていた。あの部屋に、今夜から、あの子供がいる。レイラは足を止めずに、歩き続けた。見るのは、日誌のあとでいい。


 

 夜。自室。蜜煮の小瓶が窓際の光を受けている。飴の包み紙は、日誌の頁の間だ。机に向かって、ペンを執る。


『本日の血液消費量:五十三滴。


備考一:教会堂にて脱走兵七名を制圧。殺さなかった。所要時間〇・八秒の手順はあったが、破棄した。理由は不明。


備考二:子供の処遇は、保護対象としてノエル様に申し出た。受理された。医務室にて静養中。一度目を覚まし、水を飲んだらしい。


備考三:上着を掛けたままにした。回収していない。医務室でも、持ち帰らなかった。回収しないことにする。


備考四:避難民の子供が、手を振っていたらしい。気づくのが遅れた。手を上げた時には、もういなかった。


備考五:馬車で五分眠った。ノエル様は三分だと言ったが、五分だった。顎の腫れは明日には引く見込み。


備考六:「表に立つな」の指示を破った。報告は、まだしていない。


備考七:厨房の使用人たちが、私を見てひそひそ話していた。内容は不明。』


筆を置いて、読み返した。備考二の「保護」の字だけ、二度書き直した跡があった。いつ書き直したのか、覚えていない。窓の外を見る。離れの窓の灯りは、いつしか消えていた。それからもしばらく、レイラは窓辺に立っていた。理由は、日誌に書けそうになかった。

ご拝読ありがとうございました。

白彩の裏話は2章のエピローグまでお預けです(ネタを探しておきます)。

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