第六話:見えている数
屋敷の人が来るようになって、孤児院の空気は少しずつ変わっていった。変わったのは、目に見えるところではない。畑の仕事は昨日と同じだし、粥の味も変わらない。変わったのは、マダムの足だった。洗濯の合間に、街道を見に行く足が増えた。夕飯のあと、門の閂を確かめる手が、一度ではなく二度になった。灯りを消す前に、窓の桟を一本ずつ指で撫でていく。その撫で方は、鍵を確かめる人の撫で方だった。
子供たちも、気づいている。という言い方は正しくないかもしれない。何が起きているのかを、誰も知らない。知らないのに、皆、少しだけ静かになった。子供たちは、空気の読み方を、遊びの前に覚えた子供たちだ。
五歳の子が、鶏を数える回数を増やした。朝に数えて、昼に数えて、夕方にも数える。卵拾いの帰り道、わたしの手を引いて、こっそり言った。
「ねえ、ろく。にわとり、ろくわ、いたよ」
「うん」
「きのうも、ろくわ、だった。おとといも」
「……すごいね」
「すごくないよ。ふつうだよ」
首を振って、それから、もっと小さな声になった。
「ふつうが、いいの」
その言葉を、わたしはしばらく考えた。六羽いるのが普通で、普通がいい。普通というのは、数が合うことだ。数が合う日は、いい日だ。この五歳の子は、そうやって毎日の良し悪しを決めている。それは、わたしの数える癖と、どこか似ていた。似ているものを見ると、安心する。それはここに来てから学んだことだ。
「ろくはさ、にわとり、すき?」
「……たまご、あったかい」
「そうじゃなくて、にわとり、だよ」
考えた。鶏は、よく動く。よく鳴く。つつくと、少し痛い。でも、小屋の中は温かい。
「……すき」
「やったー!あたしも!おそろい!」
おそろい、という言葉が、飛んできた。わたしとこの子に、同じものがある。というのは、数が合うことと似ている。合うものが、またひとつ増えた。
馬の蹄が街道に近づいてきたのは、畝の草取りが半分ほど終わった頃だった。庭にいた子供たちが、いつものように散る。散るのは癖になっていた。見知らぬ馬には、隠れる。でも、門の外で止まったのは見知った姿だった。屋敷の剣の人。ガルド、という名前は、子供たちの噂で知っていた。
「散らなくていいぞ。俺だ」
門の前で、大きな声が言った。子供たちが、洗濯物の陰から、薪の山の陰から、ぽつぽつと出てくる。出てきても、畑には戻らなかった。剣の人とマダムが、広間に入っていくのを、全員が見ていた。
「けんのひと、きた」
小さい子が、わたしの袖を引いた。
「うん」
「けんのひとが、くると、なんか、あるの?」
「……なんか、ってなに」
「おひっこし。まえも、けんのひとがきて、みんな、おおきなおうちにいった」
三年前ではない、近い昔の話だ。その子の記憶の中では、剣の人の訪問と、屋敷への移動が、ひとつに繋がっている。子供の記憶は、正直だ。理屈ではなく、順番で覚えている。
「こんかいも、いくの?」
「……わからない」
「いきたくない?」
聞かれて、畑を見た。苗は育っている。植え直した苗も、根を張って、まっすぐ立っていた。
「……はたけ、すき」
「あたしも!おおきなおうち、きれいだったけど、はたけ、ないの」
それだけ言って、その子は鶏小屋の方へ走っていった。いきたくない、とは誰も言わない。言わないけれど、好きなものを並べて答える。それが、この子たちの「行きたくない」だ。
畑仕事に戻るふりをして、わたしは建物に近い畝を選んだ。いや、少し違う。身体が、そちらに向かった。止めなかった。止められる気がしなかった。畝の端は、広間の窓の下に近い。窓は開いていて、土を撫でる手を動かしながら、声の断片が落ちてくるのを拾った。
「……避難させた方がいい。屋敷の広間なら、壁も人もある」
「前みたいに、かい」
「ああ。ただ——」
声が、一度、落ちた。低くなった声は、窓から逃げるのが下手になる。
「ただ、今回は、狙いが違う気がする。前は街全体を睨んでいた。今回は——ここだ。ここの、子供たちを数えに来ている」
鍬の先が、土に止まった。
「数を聞いて回るだけの奴は、斥候だ。本隊はその後に来る。……院長、俺はこう思う。連中が欲しいのは、領でも畑でもない。この中の、誰かだ」
しばらく、広間は静かだった。静けさの中で、マダムが湯を注ぐ気配だけがあった。湯を注ぐ手は、いつも通りの間隔だった。この人は、どんな時でも湯を注ぐ手を乱さない。それが、この人の戦い方なのだと、わたしは思った。
「八人、全員だね」
「ああ。一人でも欠ければ、連中は気づく。連中は、数を数える」
「……分かった。支度は、こちらでする」
「馬車は、明後日の朝に回す。それまで、普段通りに。普段通りが、いちばんの隠れ蓑だ」
「ガルドや。……連中ってのは、どんな顔をしてる」
「分からん。分からんから、困っている。顔の分からない相手は、数で測るしかない。だから、向こうもこちらを数えてくる。数は、嘘をつかないからな」
「数は、正直だからねえ」
マダムの声に、小さな含みがあった。含みの正体は、分からなかった。分からなかったが、その声の置き方は、あの藍色の外套の人と同じだった。知っていることを、言わない置き方。
「ところで院長。卵売りの件で、もう一つ」
「うん」
「奴は、増えた一人の様子も聞いていたそうだな。書面にあった」
「……髪の長さをね。『長い髪の娘がいるか』と、行商仲間に聞いて回っていた形跡がある、と」
土を撫でる手が、止まった。長い髪。腰までの、灰亜麻色の、この髪。
「誰に聞いたか、割れてるのか」
「八百屋の小僧が覚えていた。……院長、連中は、あの子を知っている。いや、知ろうとしている。どちらにせよ、目当ては——」
「言わなくていいよ」
マダムの声が、窓の外へ届くぎりぎりで、固くなった。
「言わなくていい。ここでは、あの子は、畑の子だ。ろくという名前の、うちの八人目だ。それ以外の何者でもない。……そうでしょう」
「……ああ。そうだな」
「ガルド。一つ、聞いていいかい」
「なんだ」
「連中が数えるのは、数えて、合わせるためかい。それとも、数えて、引くためかい」
しばらく、答えがなかった。
「……どういう意味だ」
「帳面合わせなら、見つけたら終わる。引き算なら、引いた分だけ、ここが減る。わたしはね、それが聞きたいのさ」
「院長」
「いいよ。答えなくて。……湯が冷める。飲みな」
湯碗の触れる気配がして、会話は畑仕事に変わった。豆の出来。雨の予感。剣の人は、帰り際にわざとらしく大きな声で「苗、順調だな」と言って、馬に跨った。普段通りを演じるのが、あの大きな身体でもできるのだ。
わたしは、窓の下の畝で、土を撫で続けた。撫でる手だけが、動いていた。
長い髪の娘がいるか——
その言葉が、頭の中で転がり続けた。転がるたびに、形が変わる。形が変わるたびに、わたしの知っている形に近づいた。数える目。棚の品を値踏みする目。白い部屋で、盆の数を数えていた目。検査の器具を、並べ直していた目。あの目は、数えたものを記録して、記録したものを、いつか回収する。数えることと、取りに来ることは、あの場所では同じことだった。
連中、という言葉の中身を、わたしは知っている。
知っている。知っているのに、誰にも言えない。言えば、あの白い場所の話をしなければならない。白い場所の話をすれば、わたしが何であるかが、知られてしまう。知られてしまえば——
この場所が、燃える。
燃える、というのは、火のことではない。この場所の、決まった朝と、決まった椅子と、粥の匂いと、なぞるふりをする砂の盆と、鶏小屋の温かい卵と、干した布の膨らみと、名前を呼ぶ短い声が、全部、焼けてなくなるということだ。わたしのせいで。わたしが畑に落ちて、わたしが拾われて、わたしがここにいるせいで。
八つ目は、わたしだ。
わたしがいなければ、七つで足りていた。七つなら、誰も数えに来なかった。
畑から戻る時、ミラが手伝いに来てくれた。
籠を半分、持ってくれる。持ってくれながら、何か言いたそうな顔をしていた。言い出せないまま、井戸の前まで来て、ようやく言った。
「ねえ。なんか、最近、変だよね」
「……うん」
「マダム、夜に何回も門を見るし。フィン、薪を余計に割るし」
「まき?」
「あの人ね、不安になると薪を割るの。この前の冬もそうだった。小屋が埋まるまで割って、それでも足りなくて、薪を並べ直し始めた」
薪を余計に割る。言われて、気づいた。薪の山は、ここ数日、見る見る高くなっていた。明日の分を今日割る人が、明後日の分まで、しあさっての分まで割っている。先の分まで備えるということは、先が読めないということだ。
「ろくは、なんか知ってる?」
知っている。知っていることが、増えすぎている。増えた分だけ、口が重くなる。
「……しらない」
嘘が、またひとつ積み上がった。ミラは、じっとわたしを見ていた。見られて、目を逸らせなかった。逸らすと、嘘が増える気がした。
「うん。……そっか」
ミラは、笑った。疑った顔ではなかった。疑わないでいてくれることが、ありがたい。ありがたいのに、苦しい。
「ね、ろく。ひとつ、お願いがあるの」
「なに」
「なんかあったら、言って。わたし、力にはなれないけど、話は聞ける。話、聞くのだけは、上手いの。マダムが言ってた。『ミラは聞き上手だ』って」
「……うん」
「約束ね」
小指が、出された。出された小指の意味が分からなくて、見ていた。見ていたら、ミラがわたしの手を取って、小指同士を絡めた。
「ゆびきり。こうやるの。切ったら、針を飲ます」
「……はり」
「うそうそ。飲まないよ。……たぶんね」
からからと笑う声が、井戸に反響した。絡められた小指が、温かかった。その温かさが、指先から手のひらへ、手のひらから腕へ、ゆっくり登っていくのを感じた。約束をした。約束というのは、破れるものだということを、わたしは知っている。約束は、嘘と同じ棚に、積み上がる。
夕飯の席は、いつもより賑やかだった。賑やかさは、作られたものだった。マダムが話題を足し、ミラが相槌を打ち、小さい子たちが鶏の真似をする。作られた賑やかさは、本物より少しだけ音が高い。高い分だけ、皆が気づかないふりをして乗っかる。
「ろく、おかわり」
「……うん」
「よし。偉い」
椀が満たされる。満たされた椀を抱えて、箸を動かす。味は、いつも通りだった。いつも通りの味が、今日は少しだけ、喉を通りにくかった。通りにくいものを、無理に通した。通して、全部、平らげた。平らげると、マダムが小さく頷いた。その頷きのために、平らげたのだ。
「あのさ、フィン」
食後の片付けの最中、ミラが切り出した。
「なんだ」
「おひっこし、あるんでしょ」
箸が、止まった。止まったのは、わたしだけではなかった。片付けの手が、いくつか、同時に止まる。
「……どこで聞いた」
「小さいのが言ってた。『けんのひとがきたから、おおきなおうちにいく』って」
「ガキは勘がいいからな」
「ほんとに、あるの?」
フィンは、椀を重ねてから、答えた。
「……あるらしい。明後日の朝、馬車が来る」
食卓が、静かになった。静けさの中で、赤毛の子が小さく言った。
「……はたけは」
「畑は残す。野菜は生きてるからな」
「にわとりは」
「……連れてけるかどうかは、マダム次第だ」
「つれていきたい」
「そうだな」
「ろく」
名前を呼ばれて、顔を上げた。小さい子が、こちらを見ている。
「ろくの、なえ。ろくの、なえも、つれていく?」
植え直した苗。畝の真ん中で、まっすぐ立っている苗。あれは、畑の土に根を張っている。抜けば、また、抜けることになる。
「……なえは、まつ」
「まつ?」
「うん。かえってくるまで、まつ」
言ってから、気づいた。帰ってくる、という言葉を、わたしが使った。この場所に、帰ってくる。帰る場所があることを、わたしは、いつの間にか、前提にしていた。
「よし。じゃあ、あたしが、みずやる。ろくのかわりに」
「あたしも!」
「おれは、鶏の世話な」
声が、次々に上がった。留守の間の仕事が、勝手に割り振られていく。割り振る声は、明るかった。そんな時、この家では、何かを必死に抑えている。
薪割りの時間、わたしは縁側に座った。斧の間隔は、いつもより速い。速いのは、急いでいるからだ。急いでいるのは、落ち着かないからだ。しばらく見ていると、フィンが斧を持ったまま言った。
「おい。手伝え」
縁側から降りる。割れた薪を拾って、積む。拾って、積む。薪の山が、少しずつ高くなった。
「おまえさ」
斧が、薪に食い込んだまま、止まった。
「なんか知ってるだろ」
「……なんか、って」
「なんか、だよ。顔に出てる。おまえ、顔に出ないのが売りなのにな。出ないはずのものが、ここんとこ、出てる」
答えられなかった。答えられないまま、薪を一本、積んだ。
「言わなくていい」
斧が、再び振り下ろされる。
「言いたくなったら言え。言わなくても、薪は積める」
ぱん、と薪が裂けた。
「フィン」
「ん」
「……おまえは、なんでも、きくの」
「聞かねえよ。聞くのは、聞いていいやつにだけだ」
「きいていいやつ、って」
「話したそうなやつ。……おまえは、話したそうじゃない。抱えてるだけだ」
抱えている、という言い方が、的確だった。わたしは、抱えている。両腕いっぱいに、言えないことを抱えている。抱えたまま、薪を積んで、粥を食べて、髪を梳かれて、眠る。
「な、ろく」
「ん」
「昔さ、ここに来る前、おれ、なにも言わなかった。言ったら終わる気がして。黙ってれば、まだ、なんとかなる気がしてさ」
斧の音が、続く。
「でも、黙ってても、終わるもんは終わるんだわ。……で、ここに来て、マダムに言われた。『言わなかったことは、なかったことにならない。言えなかったことになるだけだ』って」
薪が、裂ける。裂けて、落ちる。
「おれは、それで少し楽になった。言えなかったこと、でいいんだって。……おまえもさ。言えなくていい。言えないことは、おまえのせいじゃない」
「……フィン」
「ん」
「……ありがとう」
「はん。礼なら、薪を積め」
鼻で笑って、また割り始めた。その間隔は、いつもの一定に戻っていた。戻った間隔に合わせるように、わたしは薪を積んだ。積む手が、温かかった。冷たいはずの薪なのに、温かい気がした。
寝所に戻ると、灯りの消えた部屋で、小さな声がしていた。
「ねえ。ミラ、ねてる?」
「起きてる。……みんな、起きてるんでしょ」
布団の山が、いくつも動いた。寝たふりの崩れる気配が、部屋のあちこちでした。寝たふりも、この家では嘘にならない。皆、同じ嘘をついているから。
「おひっこし、こわい?」
「こわくないよ。大きなお家、ふかふかのお布団だよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。あと、ご飯、ちょっとだけ美味しいの」
「ちょっと、なの?」
「うちのほうが、おいしいから。ちょっとだけ」
小さな笑いが、闇の中で弾けた。笑いが収まると、ミラの声が、少し低くなった。
「……ろくは、ねてる?」
答えるべきか、迷った。迷って、答えた。
「おきてる」
「ろく、こわい?」
考えた。怖いのは、おひっこしではない。怖いのは、灰色の向こう側で、こちらを見た何かだ。怖いのは、長い髪の娘を探す目だ。怖いのは、わたしがここにいることそのものだ。
「……こわくない」
嘘が、またひとつ。積み上がる。
「そっか。ろくは、つよいね」
つよくない。つよくないのに、つよいと言われる。強いふりをしなければならない。強いふりは、得意だった。白い部屋では、皆、そうしていた。平気なふり。痛くないふり。夢を見ないふり。
「ミラ」
「ん?」
「……おひっこしのあとは、かえってくる」
「うん。かえってくるよ。マダムが、そう言ってた。『すぐに帰れる』って」
「……うん」
「ねえ、ろく」
「ん」
「おやすみ」
「……おやすみ」
闇の中で、寝息がひとつずつ増えていく。わたしは横になったまま、目を閉じた。閉じて、いつもの場所へ抜けていく。抜けていく途中で、思いとどまった。
——今夜は、試してみる。
という考えが生まれたのは、その時が初めてだった。今までは、行く先々に、ただ立っていた。立って、見て、戻る。それだけだった。でも、あの扉の夜から、何かが変わっていた。歩けるのだと、気づいてしまった。
今夜は、遠くへ行く。孤児院の寝息を抜けて、畑を越えて、街道へ。夢の入り口は、眠っている人のところにだけ灯る。農家の、宿屋の、旅人の。順番に、その前を通り過ぎる。通り過ぎながら、数えた。数えるのは、癖だ。七つ、八つ、十を越えても、まだ続いていた。
街道の果て、宿場の方向に、ひとつだけ、様子の違う入り口があった。
曇り硝子の向こうが、灰色だった。
温かい夢にも、悪い夢にも、色がある。赤っぽい色。青っぽい色。でも、あの入り口の向こうは、色のない灰色だった。眠っているのに、夢を見ていない。見ていないのに、眠っている。そういう場所が、あるのだということを、わたしは初めて知った。
近づいては、いけない。身体のどこかが言っていた。言っているのに、足は、少しずつ近づいていた。十歩。五歩。三歩。灰色の曇りが、目の前まで来た時——
向こう側で、何かが、こちらを見た。見た、のかもしれない。気配、というには確かすぎて、視線、というには何も動かなかった。ただ、灰色の向こうに、こちらの存在が届いた。届いた、と分かった瞬間、わたしの中の何かが、激しく鳴った。鳴ったものの正体は、分からない。分からないまま、身体が後ろに跳んでいた。
跳んで、走って、逃げて。
目が覚めた。天井の梁が、闇の中にあった。寝息が、周りに満ちていた。隣の小さい子が、毛布を蹴飛ばしている。いつもの夜。いつもの寝所。心臓だけが、早鐘みたいに打っていた。
手のひらを、見た。震えていた。細かく、小刻みに。爪を噛んだ癖のある指が、五本とも、勝手に揺れている。あれは、何だったのだろう。
灰色の夢。こちらを見た、何か。わたしは夢を見に行っているだけのはずだった。見る側で、見られる側ではなかった。それなのに、あの場所では、順番が逆だった。わたしが、見つかった。
「……ろく?」
隣の布団から、寝ぼけた声がした。
「……なにも、ない。ねてて」
「ん……。おやすみ」
「おやすみ」
声が、すぐに寝息に戻った。戻った寝息を聞きながら、わたしは天井を見ていた。外では、風が畑を渡っていた。苗が揺れる気配。鶏小屋の藁の擦れ。全部、いつもの夜のものばかりだった。変わっていない。変わっているのは、わたしの中に、ひとつ、知らない怖れが増えたことだけだ。
怖れ、というのは、数えられる。
数えてしまった。ひとつ。新しい怖れが、ひとつ。それまでの怖れと、並べて、仕舞う。仕舞って、目を閉じる。閉じても、灰色の向こう側が、まぶたの裏に残っていた。明後日の朝、馬車が来る。
わたしたちは、屋敷に移る。八人、全員で。一人でも欠ければ、連中は気づく。剣の人は、そう言った。
だから、欠けてはいけない。毛布を握って、わたしはそう思った。握った手の震えは、しばらく止まらなかった。
ご拝読ありがとうございます。




