第七話:夢の中の声
馬車が来る前の日は、荷造りの日になった。しかし、というほどの荷物は、どの子供にもない。着替え一枚。それだけだ。ミラは裏紙の束を包んでいた。手紙に使う、白い部分の残った紙だ。フィンは、自分の荷物の代わりに、小さい子たちの分の紐を束ねていた。
「ろくは、なにもないの」
五歳の子が、わたしの手元を覗き込んだ。
「……ぬの、ある」
「布?」
畳んであった、あの白い布を出した。拾われた時に着ていたもの。マダムが洗って、仕舞っていて、荷造りの朝に「持っていきな」と手渡された。内側に、六の字が縫い取ってある布。
「それ、ろくの、なまえのやつだ」
「うん」
「おもいで?」
思い出、という言葉が、合うのかどうか分からない。あの布にあるのは、思い出ではない。番号だ。番号なのに、捨てられなかった。捨てられなかったものを、マダムは「持っていきな」と言った。あの人は、捨てていいものと、持って行くものの区別を、こちらに任せる人だ。
「……うん。思い出だよ」
答えてしまった。嘘の棚が、また一段、高くなった。
荷造りは昼前に終わって、畑には最後の水がやられた。じょうろを持つ手が、いつもより遅い。遅い手つきで、畝をひとつずつ往く。大根。豆。葱。植え直した苗は、葉を二枚増やしていた。水を飲む土の色を見ながら、わたしは、この畑にまだ借りがあると思っていた。拾ってもらった借りは、返していない。返せないまま、明日、ここを離れる。
「ろくー!てつだいー!」
小さい子が、もう一本のじょうろを抱えて転がってきた。転がってくる、という言い方が合っている。その子の歩き方は、いつも半分走っていて、半分倒れている。
「みず、やるの」
「うん。半分だけ」
「はんぶん!」
畝を分けて、並んで水をやる。小さい子のじょうろは、水が零れる。水が、靴を濡らす。濡れても、その子は気にしない。気にしないで、歌う。歌にもならない、声の連なり。にわとりの歌。たまごの歌。ろくわ、ろくわ、という数の歌。
聞きながら、わたしは思っていた。
今夜、もう一度、行く。あの灰色の入り口へ。昨夜は逃げた。逃げたままでは、何も分からない。分からないまま、この場所が燃えるのを待つのは、嫌だった。見ていることしかできないのは、昔から、わたしの一番嫌いなことだ。だったら、見に行く。見て、確かめて、戻ってくる。
「ろく、て、とまってる」
「……うん」
「かんがえごと?」
「うん」
「あたしも、するよ。いっしょに、する?」
「……なにを」
「かんがえごと」
並んで、考えごとをした。考えごとの内容は、たぶん、ぜんぜん違う。それでも、並んでいることは、同じだった。
その夜、わたしは誰よりも早く横になった。寝息が満ちるのを、待つ。待つのは得意だ。ひとつ、増える。ふたつ、増える。深い寝息、浅い寝息、小さないびき。全部が揃うまで、目を閉じて、呼吸を合わせた。
揃った。意識が、するすると抜けていく。抜ける感覚には、もう慣れた。身体が薄くなって、薄くなった分だけ、どこへでも行ける。
畑を越えて、街道へ。
夢の入り口を、順番に数えていく。農家の入り口。宿屋の入り口。旅人の、小さな入り口。数えながら歩くのは、怖れを紛らわせるためだった。数えていれば、足は止まらない。十一、十二、十三。
宿場の方角に、あれは、あった。灰色の入り口。曇り硝子の向こうが、色を持たない場所。昨夜と同じ場所に、同じように灯っている。いや、変だ。あれは灯っていない。灯っていないのに、在る。
近づく——十歩。五歩。
昨夜と同じ距離で、足が止まった。止まった足に、わたしは言い聞かせた。見ていることしかできないのは、嫌だ。あの畑が燃えるのを、夢の端から見ているのは、嫌だ。
一歩、踏み出した。
曇り硝子に、手が触れた。冷たい。あの扉と同じ冷たさだった。冷たさに、少しだけ驚く。驚いているうちに、手が、曇りの向こうへ沈んだ。
——入れる。
引き返す時間は、あった。あったけれど、わたしは、沈んだ手の先に身体を進めた。向こう側は、灰色だった。
上も下も、灰色。遠くも近くも、灰色。夢にあるはずのものが、何もない。畑も、空も、人の顔も。あるのは、均一な灰だけだった。夢を見ていない眠りというのは、こういう景色なのだ。眠っている人が、ここにいる。いるのに、夢を見せないようにしている。閉じている。あの人の扉とは違う閉じ方で。
歩く。足音は、なかった。この場所に、音は響かない。
どれくらい歩いただろう。灰色の中に、ぽつんと、影があった。
影は、机の形をしていた。机の形をした影に、紙が乗っている。夢の中の机。夢の中の紙。その紙には、字があった。
字を、読んだ。
読むことは、できた。この場所でも、字は字だった。走り書きの、乱れた字。地図の写し。小さな印が、街道の一点に押されている。印の場所は、知っていた。知っている場所だった。街の外れ。畑と、疎らな家並みの先。
わたしの、家。息を飲んだ。飲んだ息が、この場所では何も鳴らさない。紙の端に、数字が並んでいた。人数らしき数。十二。荷馬車、二台。それから、くり返し書かれた短い言葉。
『生け捕り』
生け捕り、という字は、読めた。読める字なのに、意味が喉に引っかかった。生かして捕る。殺さずに、捕る。恐らく連れていく、ということだ。あの白い場所へ。空の部屋へ。
そこまで読んで、気づいた。声が、聞こえていた。
この場所に、声はなかったはずだ。わたしの見る夢には、いつも、声がない。笑い声も、叫びも、届かない。それが決まりだった。決まりなのに、今、声がする。低い、くぐもった、男の声。
『——馬車が回される前に、済ませる』
振り向いた。灰色の中に、もうひとつ、影があった。座っている影。机の影の向かいに、もうひとつ。夢の主は、ひとりのはずだった。ひとりのはずの場所に、影がふたつある。
『明日の夜だ。明るいうちに動くな。子供どもは寝静まってからでいい』
『八人、全部か』
『全部だ。……ただし、優先は長い髪の娘。そいつだけは、指一本、触れるなよ。傷ひとつでもつけたら、俺たちが荷物になる』
『あとは』
『……あとは、どうでもいい』
どうでもいい、という言葉が、灰色の中に落ちた。
言葉は、消えなかった。消えないで、わたしの中に残った。残って、じわじわと広がった。あとは、どうでもいい。『どうでもいい』。ミラも、フィンも、小さい子も、マダムも。長い髪の娘以外は、荷物ですらない。
立っているだけの身体が、細かく揺れていた。揺れを止めようとして、止まらなかった。白い部屋では、揺れを止めることができた。それが、生き延びることだったから。でも、この灰色の中では、揺れが止まらない。止まらない揺れが、次第に、揺れではない何かに変わっていく。熱い何か。喉の奥から登ってくる、名前のない何か。
『——なあ』
影のひとつが、頭を上げた。
『今、何か言ったか』
『言ってない』
『……そうか』
影が、ゆっくりと、こちらを向いた。
顔は、なかった。顔のあるべき場所に、灰色があるだけだった。灰色の顔が、わたしの立っている場所へ、まっすぐ向く。向いて、静止する。
走った。
というより、逃げた。灰色を蹴って、灰色を抜けて、来た道を引き返す。背中に、視線があった。視線、というには確かすぎるものが、背骨に触れていた。触れられたまま、曇り硝子へ飛び込んで、抜けて、転がるように外へ出た。
出て、振り返った。
灰色の入り口は、何事もなかったように灯っていた。灯っていないのに、在るままで。
——大丈夫。
自分に言い聞かせる。夢だ。あれは、夢の中だ。夢の中のものは、こちらへは来られない。来られない、はずだ。はず、という言葉を、三回唱えた。唱えても、背中の感触は消えなかった。
帰る途中、声が、もう一度だけ聞こえた。遠かった。灰色の向こうから、釣り糸みたいに伸びてきた声。
『——六番』
足が、止まった。番号で、呼ばれた。この場所で。夢の中で。わたしが捨てたはずの呼び名で。
振り返らなかった。振り返ったら、引き戻される気がした。引き戻される気がして、わたしは、ただ走った。数えることも忘れて、走った。
目が覚めると、寝所はまだ夜の中だった。
隣の寝息。向こうの寝息。全部、揃っている。心臓の打ち方だけが、夜に不似合いだった。早くて、深くて、痛いくらいだ。
毛布を抜けて、立ち上がった。
立ち上がってから、行き先に気づいた。行き先は、決まっていた。廊下を抜けて、台所へ。台所には、小さな火が残っていた。火の前に、マダムが座っていた。編み物の手は止まっていて、火を見ている。
「眠れないのかい」
振り向きもせずに、言った。この人は、いつもそうだ。
「……マダム」
「ん」
「あしたの、よる」
言葉が、うまく並ばなかった。並ばない言葉を、無理に並べた。
「あしたの夜、くる。……十二にん。うまぐるま、にだい。よる、みんながねてから、くる」
編み物の手が、止まったままだった。
「わたしを、とりにくる。ながいかみの、こ。……ほかは、どうでもいいって。どうでも、いいって、いってた」
台所の火が、小さく爆ぜた。
「……どうして、それを」
聞かれた。聞かれることは、分かっていた。分かっていたから、答えは用意してあった。用意してあった答えは、子供だましみたいな答えだった。
「ゆめで、みた」
「夢で」
「うん。……ゆめを、みにいくの。よる、みんなの、ゆめの、まえに、いく。きのうのよるは、はいいろのゆめがあって。こんやは、なかに、はいった」
全部、言った。言ってしまった。言ってしまってから、怖くなった。夢の話だ。夢の話を、本気にする大人はいない。信じてもらえない話を、本気の声で言ってしまった。信じてもらえなければ、この台詞は、ただの寝言になる。
マダムは、しばらく、火を見ていた。
見ていた火の色が、その人の目の中で揺れていた。揺れて、やがて、収まった。
「……ろく」
「うん」
「あんたの着ていた服の内側に、六という字があった。わたしはあの字を、見たことがあるよ。……もうひとりの子の、服にも」
火の前の背中が、言った。
「数える人たちのことも、知ってる。あの人たちは、数を数えて、数を合わせて、数を取りに来る。……あんたが夢で見たっていうなら、わたしは、それを夢として聞かない」
「……しんじて、くれるの」
「信じるも信じないもないよ」
マダムは、こちらを見た。初めて、まっすぐ見た。
「わたしはね、ろく。あんたが来た日に、決めたんだ。この子の言うことは、疑わない、って。……畑に倒れてる子が、助けられる場所に、ちゃんと選んで倒れてた。そういう子の言うことは、聞く。それが私の仕事だよ」
喉の奥に、何かが詰まった。
詰まったものの名前は、分からない。分からないものが、目の裏まで登ってきた。わたしはこらえた。こらえるのは、得意なはずだった。そのはずなのに、その夜は、あまりうまくいかなかった。
「……うれしい、のかな。これ」
「さあね」
「なみだ、でそう」
「出していいよ。うちの台所は、何でもこぼしていい場所だ」
それでも、出さなかった。出さないで、火を見た。火を見ていると、熱いものは少しずつ引いていった。
「マダム」
「ん」
「あしたのよる、くる。ばしゃは、あさってのあさ。……まにあわない」
「……うん。まにあわないね」
マダムは、編み物を膝に畳んだ。畳んで、立ち上がった。立ち上がった背中は、いつもより少しだけ、大きく見えた。
「使いを出す。夜のうちに。ガルドさんが、夜でも必ず届くと言ったんだよ」
「こどもたちは」
「起こさない。……明日は、いつも通りの一日にする。最後の、いつも通りだ」
最後の、という言葉を、その人は軽く言った。重くしないためだ。重くしたら、明日一日、子供たちが持たない。
「ろく。あんたは、よくやったよ」
「……わたし、にげた。ゆめのなかで、にげた」
「逃げて、帰ってきて、教えてくれた。……逃げることと、教えることは、両方できる。両方できるのは、逃げたことがある人だけだよ」
その言葉を、わたしは、しまった。
場所は、嘘の棚ではなかった。別の場所。まだ名前のない、新しい場所。あたたかいものを入れる場所が、わたしの中に、いつの間にかできていた。
「おやすみ、ろく」
「……おやすみ」
寝所に戻る。隣の小さい子は、毛布を蹴飛ばしていた。直してやる。肩のあたりまで、引き上げる。
闇の中で、指を折った。あしたの夜。十二人。荷馬車、二台。生け捕り。あとは、どうでもいい。
数えた。全部、数えた。数えたものは、忘れない。忘れないから、わたしは、考えることができる。
——わたしが、いなければ。
その考えが、生まれたのは、その夜のことだった。生まれた考えは、小さかった。小さいけれど、畑の苗みたいに、根を持っていた。
ご拝読ありがとうございました。




